ホーム/フォーリンランド

 死ぬときは、好きな服を着られるのだと思っていた。
 祖母の纏ったましろい服の、やわらかく裾のひろがったスカートがドレスのように見えたので。
 お姫さまみたい、だなんて。寝台に横たえられた祖母のすがたに、遠いむかしのお伽話を重ねるほどにはあたしはこどもで、睫毛のさきをふちどる光、あたたかい日の差す祖母の部屋、|眦《まなじり》をほのかに腫らした母のとなりで異国語みたいな読経を聞きながら、あたしはなにを着せてもらおう、なんて無邪気なことを考えていた。
 誰が決めたのかもわからない〈国〉という共同体で世界が構成されていることも、ドレスみたいな民族衣裳で弔われた祖母があたしとは違う〈国〉のひとだったのだということも、理解したのはずっとあとのことだった。


「ねぇ、昨日のテレフ見た?」
 席につくなり、そう声をかけてきたクラスメイトにどきりとした。あたしの机に肘をついて、身を乗り出した彼女の頬は昂奮で赤く上気している。
 テレフ。Tele-F。すなわち、|遠隔操作性戦闘機《Teleoperated-Fighter》。
 寮を出て、教室に来るまでのあいだにも、その言葉はいくつも耳に聞こえていたから、予想していたことではあったけれど、それでもからだはかすかにぎゅっとこわばった。
「えー、見てない」とあたしはこたえる。できるだけ軽く、またたきをすればすぐに忘れてしまうような、無害で退屈な平凡さで。
 スポーツのなかでも、テレフ、と無機質な機械そのものの名前で呼ばれるそれがあたしはきらいで、だからその話はそこで終わりにしたかったのだけれど、昨日の試合はずいぶん白熱したらしい。「あたし見たー」「やばかったよね」「マジで?」「やっぱエースがさぁ」衣更えをしたばかりの白いセーラー服が教室のあちこちで|飜《ひるがえ》って、その袖裾にひとつひとつ会話の糸が結ばれて。
 気づけばあたしは、その輪からぬけだせなくなっていた。
 パイロットは安全な部屋で操縦棹を握るだけ。メディアが映すのは、どこかの遠い海の上を飛ぶ空っぽの戦闘機で、それが隊列を組んで、環境を損なわない程度に工夫を凝らした武器で互いを破壊しあう、のを応援するという構図に、あたしは云いようのない嫌悪を覚える。特に、その機体が〈国〉を纏うときには。
「ウイちゃんはさ、どっち応援すんの?」
 と、不意に誰かが云って、さざ波のように視線があたしに集まった。
「え、なんで?」「明日の相手、――国じゃん」「ほら、ウイちゃんまざってるから」「へー、そうなんだ」「どっち? お母さん?」「じゃあ――語しゃべれるんだ」「でも――国だったらもうほとんどニホン人じゃんね」
 うん、そう、お母さんが。ううん、しゃべれないよ、ニホン語だけ。そうだね、ほぼニホン人だね。
 存在につながる歴史を隠したことはないし、時には自分から表明してきた。
 それでも、向けられる言葉に居心地の悪さを覚えるのは、「まざっている」とあたしが云う意味が、彼女たちにはうまく伝わっていないと感じるからかもしれなかった。
「テレフは……というか、スポーツ、興味ないんだよね」
 ぎこちなく微笑んでみせるあたしの頬に、軽やかに笑うクラスメイトの指が触れる。
「えー、そこはちゃんとニホンを応援しなきゃでしょ」
 ちゃんと。ちゃんと、ってなんだろうな。
 やわらかく擽られながら、あたしのなかでなにかが軋む。
 けれど結局、なまあたたかく纏いつく空気を振り払う度胸もないのだった。
 

 午後の授業には出る気がしなくて、あたしはひとり、茫洋と中庭を歩いていた。
 石畳の上で風に揺れる植栽の影。銀色の葉。銀色の枝。緑の植物はメディアか、あるいは公営の保護区域でしか見たことはない。
 祖母の代からさかのぼることさらに百年。人間を人間たらしめる法と倫理の建前を捨てた戦争が世界を蹂躙して、汚染された土壌を修復するために根を下ろした浄化樹はいまだ無機質な花を|莟《つぼ》ませている。
 侵略と吸収がしごく当然のことであったその時代に、かつてのあたしのはんぶんの国は、かつてのこの国の統治下にあった。
 だからあたしが「まざっている」と自分を語ることは、牽制、であるのだった。あたしを勝手にあなたと同じだと思わないでほしい、なんていう同化への切実な拒絶。
 人間の愚かさを|象《かたど》る記念碑のような銀色の樹々のあわいを抜けて、ひと気のない旧校舎へと足を踏み入れる。来月には改修工事がはじまるらしい建物のなかは、電灯が落とされて薄暗い。革靴のつまさきを鳴らして階段を登り、軋り音を立てる鉄扉をひらいて、たどりついた屋上には、予想通り先客がいた。
「悪いんだぁ、さぼってんの」
 錆びたフェンスに背中を預けて、膝に置いたノート端末から視線をもたげた彼女の眸が、からかうように細められる。あたしは苦笑し、
「レナもじゃん」
 そう云って、彼女のとなりに腰を下ろした。そのまま、鮮やかなピンクのカーディガンを羽織った肩に頭を乗せる。頰に触れるレナの髪は派手に脱色されていて、毛先だけが眩しいレモン色をしている。
「どしたん」
「教室、テレフの話ばっかで無理」
「うわ、サイアク」
 おつかれ、と横顔を顰めて、レナは端末から片手を離すと、あたしの髪を撫でてくれる。ココア色の|膚《はだ》はいつもあたしより体温が高い。
 膝の上で、レナが気だるげにいじる端末に映るのは、あたしには意味のわからない文字と記号の複雑な配列で、きっとまた、どこかの会社のシステムにでも忍びこんで悪さをしているんだろう。
「そもそも、アレのはじまりが戦争だって、あいつらわかってないんじゃねーの」
 操作盤に指をすべらせながら、レナは忌々しげに舌を出す。
 世界を荒廃させた愚かな先人たちが、歴史に刻んだ過ちから学び発明した戦争のかたち。IF――|知性持つ戦闘機《Intelligent-Fighter》――と名づけられた、独立思考する無人機によるひとの死なない戦争が、いつしか娯楽性を帯びて、「健全な」スポーツのテレフになった。
 けれど、とあたしは思う。そもそも、スポーツは健全なものなのだろうか。
 端末をいじるレナのとなりで、惰性のようにSNSを立ち上げる。「ニホン勝った!」「同じニホン人としてうれしい」「ニホンの技術は世界的に見ても」流れる話題は、案の定テレフで溢れていて、あたしは溺れそうになる。
 疑いもなく、誰もが〈国〉を自然に存在するものであると信じている。ただ同じそれに属しているというだけで生じる、所有にも似た仲間意識は、個と個の境界をやわく融かして、そうして〈国〉に同化した精神は、〈敵国〉をたやすく貶める。
 その構造は、戦争となにがちがうというのだろう。
 テレフは人間を殺さない。けれどあたしのうちがわには、確実に損なわれるなにかがある。
「ねぇ」
「んー?」
「IFにはさ、パイロットはいなかったわけじゃん」
「そーね」
 指さきでたどる液晶に、あたしのはんぶんの国の技術や選手の言動を揶揄するニュース記事が流れてきて、反射のように画面を閉じる。
「IFにとって、どの機体が敵でどの機体が味方かを判断する基準ってなんだったんだろう」
 そう云って、あたしはレナに寄りかかっていたからだを起こした。
「IFに搭載されたシステムが、どうやって敵と味方を識別してたかってこと? まあ、いろいろやりようはあると思うけど」
「人間はひとを外見で判別するけど、じゃあ、機械はどうなのかなって」
 黒い眸であたしを見返したレナの指が、操作盤を離れて彼女のくちびるに触れる。考えるときの彼女の癖。下瞼に|翳《かげ》ろう長い睫毛。色の濃いなめらかな膚。抱えた膝に頬を寄せて、思考に耽るレナをあたしは見上げる。
 あたしと同じ、「まざっている」レナ。けれど、容姿でそう認識されるレナとは違って、あたしは見た目ではわからない。
 同じだけど、同じじゃない。
 存在に刻まれた経験は鏡のようには重ならないから、レナのすべてをあたしは知ることはできなくて、あたしの身勝手な親愛は、テレフに陶酔するひとたちのそれとなんら変わらないのかもしれないけれど。
 それでもレナと、あわいにたゆたう不安定な意識のやるせなさを、そっと確かめあえることに、あたしはひどく安心していた。
「たとえばね、IFの思考にあたるシステムが、敵と味方のどちらにも帰属意識みたいなものを持ってたとしたら、どうなると思う」
 思いつくままにあたしが云うと、ややあって、
「――試してみる?」
 と、レナは悪い顔をして――つまりは、ひどく蠱惑的な笑みを浮かべてささやいた。
「どうやって?」
「明日の試合のテレフを一機、擬似的なIFにつくり変える」くちびるから離れた彼女の指が、端末のキーを軽やかに叩く。「パイロットからの信号を遮断して……どうしたらいいかな、人間の意志から切り離した純粋な知性に、ふたつの集団への結びつきと、そのどちらにも属せない疎外の感覚を学習させるには……」
 歌うようなレナの声が、|眼裏《まなうら》に銀色の影を結ぶ。
 装飾性を削ぎ落としたつめたい鋼鉄の機体。そのまぼろしを空に放ち、どこまでも飛び去ってゆけとあたしは思う。
 遠く、遠く。
 景色がかたちを失う速さで。
 翼に纏う、ひとの名づけたすべての意味を置き去りにして。

©️鰭崎ムル

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