閂(クレビオカルト風)

 かつて懇意にしていたプロデューサーが亡くなった。
 HiMERUの元に訃報が飛び込んだのはゆうべのことであった。ソロ時代の『HiMERU』を重用し生き馬の目を抜く芸能界の荒波を乗りこなす術を授けてもくれた恩人は、一年程前に身体を壊して引退したと聞き及んでいた。今や隠居老人だが現役時代は敏腕プロデューサーとの呼び声も高かった彼は、業界内での評判も良かった人物だ。
(まあ……いい歳だったもんな)
 アイドル以上に働き詰めだった彼の姿を思い返し、HiMERUは人知れず肩を落とした。自分がいくら休めと言っても聞く耳を持たず活き活きと仕事をし続けた彼は、文字通りアイドルに命を捧げたのだ。あのSSでの事務所の不祥事以来ぱったりと接点が無くなっていたものの、見送りくらいはしてやりたい。そう考えたHiMERUはユニットリーダーに便宜を図るべくメッセージを送信した。



 通夜の儀は粛々と執り行われた。仕事に心血を注ぐため生涯独身を貫いた彼に遺族と呼べる者はなく、最も近しい縁者は数十年も彼に会っていないという親戚だけだった。業界関係者が多数参列して順番に焼香をあげてはHiMERUに声を掛けて去っていった。やあHiMERUくん、よく来てくれたね、きっとあいつも喜んでいるよ、Yは君に会いたいと何度も言っていたからね。
「……。そういうことは生きているうちに言ってくださいよ、どいつもこいつも」
 言葉を交わせなくなってから聞かされたって遅いと言うのに。
「――Yさん。HiMERUが、お別れを言いに来ましたよ」
 ひとり葬儀場に残ったHiMERUは棺の窓を静かに開いた。綺麗なものだな、と思った。納棺師が死化粧を施した肌は多少の厚塗り感は否めないが、それ以外は殆ど生前と同じように見受けられた。自分が死んだ時は気に入りのリップを塗ってもらおう、きっと何十年も先だろうけれど。
 HiMERUは今夜近隣のホテルに宿泊し、明朝の告別式に参列するつもりでいた。しかし身近な親族を持たない彼の孤独に触れてしまったからか、どうにもこのまま帰る気にはなれなかった。そこで施主を務める親戚に伺いを立て、一晩葬儀場に泊まらせてもらうことにしたのだった。そのことを葬祭業者に話すと、何故か複雑な顔をされた。血縁者でも何でもないHiMERUがこの場に残ることを訝しく思ったのかもしれない。まあそんなことはどうでもいい。
「聞いてほしいことが……たくさん、あるのですよ。『HiMERU』のこと、『Crazy:B』のこと、……俺のこと。あなたの手を離れてからもずっと、『HiMERU』は完璧なアイドルなのです。仲間、も……出来て。ええ、HiMERUも驚いています。でも、何故でしょう、毎日楽しいのです。……ふふ」
 HiMERUはぽつりぽつりと眠る彼に語り掛け続けた。返事がないのが逆に良かったのかもしれない。好きなだけ喋って、満足して「おやすみなさい」と棺の窓を閉める頃には、二十二時を回っていた。
(時間を忘れて話してしまった……)
 何だかどっと疲れた。HiMERUは弔事用のブラックスーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めた。仕事ではどんな衣装も着こなして見せるけれど、慣れない喪服に身を包んでいると全身が強張る気がする。肩をぐるぐると回してみても凝っているような重みは消えてくれない。
 一階にある式場の、脇の階段を上ると二階に控室がある。宗教者用と、遺族用。そう聞いていたのだが二階に行ってみると部屋が三つあった。真ん中の部屋の扉は一度ドアノブを捻ってみたが開かなかった。倉庫か何かだろうか。
 今夜HiMERUが利用するのは簡易なユニットバスと流しが備え付けられている遺族用の方だ。小上がりの和室に布団を敷いて眠るのだが、八畳の空間はHiMERUを心細くさせるには十分な広さだった。
「……」
 寝支度を整えて布団に潜り込んではみたものの、なかなか眠気が訪れない。いつもこの時間には寝るようにしているのに、非日常に呑まれて気が昂っているのだろうか。HiMERUは天井を睨んだままため息をついた。
 嫌だな。考えないようにしていたのに思い出してしまった、自分がオカルトの類を苦手としていることを。一度そのことに思い至ると些細なことがどんどん気になってくる。天井の染みは人の顔に見えてくるし、梢のざわめきは誰かの泣き声に聞こえてくる。おかしな想像を頭を振ってかき消そうとして、それから緩慢に寝返りを打った。その瞬間だった、マナーモードにしていたスマートフォンが震え出したのは。
「うわ、び、っくりした、何」
 着信を通知しているのは仕事用の端末。液晶画面に表示された名前を確認し、短く息を吐いてから通話ボタンを押した。
「――もしもし」
『おっメルメル? お疲れさん。こっちはレッスン終わったけど、そっちどう? 無事?』
「どうって……もう十一時ですよ、とっくに終わって寝るところです」
 電話の主は天城燐音だった。燐音もY氏との面識があったから、様子を気にしていたのだ。参列出来ないことを残念だとも言っていた。彼は『Crazy:B』のリーダーとしてアイドル業を優先したが。
 耳慣れた声に少しだけ安堵して、HiMERUはいつものように嫌味を言おうと口を開いた。こんな夜更けに不躾ですよ、社会人なら夜分にすみませんくらい言えないのですか――と。
「天城――」
『待ておまえ、今何時っつった?』
 不意に、燐音の声のトーンが真剣なものに変わった。
「? 十一時と言いましたが。夜の。二十三時です、時計無いんですか?」
『……。るっせェぞ、ちょっと黙ってろ』
「は?」
『いや今のはおめェに言ったンじゃねェよ。メルメル今どこだ』
「はあ……○○斎場です。××県の」
『斎場……? に、泊まンのか? ひとり?』
「――そうですが、何ですかさっきから。何か問題でも?」
『……』
 燐音がスピーカーホンに切り替えたのか向こうのざわめきがHiMERUの耳に届いた。「HiMERUくん?」というニキの間延びした声と「なんやかしましいなあ」というこはくの声が聞こえる。
「――まったく、こんな夜中まで桜河達を連れ回さないでください、天城。HiMERUはもう寝ます。桜河、椎名、気をつけて。おやすみなさい」
『あァ⁉ おいメル』
 まだ燐音が何か言おうとしていたようだが、HiMERUは一方的に終話ボタンを押してその声を遮断した。何だか身体が重いし猛烈に眠い。やっと寝られる、と布団に身を投げ出したHiMERUは襲い来る倦怠感に飲み込まれるように意識を手放した。



***



 燐音は無機質な電子音だけが返ってくるスマホを握り締めたまま項垂れた。二十三時? ンなわけあるか。俺っち達はESのダンスルームでたった今レッスンし終わって、そのままおめェに電話してンだぞ。時間貸しの練習室を必要以上に小うるさく管理しているESが、ずれた時計をそのままにしておくはずがない。見上げた壁掛け時計は二十一時前を示している。
「燐音はん誰に電話しとったん? たっかい声、やかましゅうてかなんわ。頭痛い」
「誰ってHiMERUくんっすよね?」
「あ? ニキはんほんまに言っとるん?」
「こはくちゃん。……何が聞こえた?」
「……」
「教えろ」
 顔を上げた燐音は低い声で淡々と問い掛けた。一瞬だけ怯んだこはくは、困ったように頭を掻いてぼそぼそと喋り出した。
「燐音はん、さっき〝黙ってろ〟ち言うてたやろ。それでちっと大人しくなりよったけど……スピーカーにせんでもこっちまで聞こえとったんよ、知らん女のひとの笑い声」
「え⁉ 僕何にも聞こえなかったっすけど?」
「あ〜ニキはまるで霊感ねェからなァ……」
「れーかん……、幽霊の声ってことっすか⁉」
「わしはむしろ笑い声がやかましゅうてHiMERUはんの声が聞こえんかったわ……燐音はんは?」
「あァ……俺っちも聞いた。電話口で女が笑ってやがった、何か――メルメルの近くにいる」
 燐音は顔を覆って呻いた。
「あンの野郎……憑かれやすいから気ィつけろって今朝忠告したばっかりっしょ……」
「ああ……燐音くん、たぶんそれ伝わってないっす」
 今朝方、ニキはぷりぷり怒った様子のHiMERUが愚痴を垂れているのを聞いたのだ。「天城に体力不足を指摘されたのです。HiMERUは過不足なく鍛えていますし、何より余計なお世話なのですよ」と。
「〝疲れやすいから〟気をつけろ、って言われたと思ってるっすよHiMERUくん」
「ぐああ……バッカ野郎〜ッ自分の体質わかってねェのかあいつは⁉」
 霊感ゼロかつその手のものを一切寄せ付けないニキとは反対に、HiMERUは見えない癖にやたらと引き寄せてしまう、厄介な性質持ちなのだ。これまでも肩が重いだのぶつけてもいないのに痣が出来ただの言う彼の身辺に漂う悪いものに、燐音やこはくは度々勘づいていた。
「今までは俺っち達が近くにいたから何とか対処出来てたけどよォ、ひとりで葬儀場に泊まるたァ何考えてンだ、あ〜もう!」
「言うてもしゃあないやろ、HiMERUはんには見えとらへんもん」
「ど、どうしよ燐音くん」
 歳下ふたりの視線が親玉たる燐音へと集まる。どうするもこうするも、ない。
「助けるに決まってるっしょ」
 返事は待たなかった。練習着のままでESビルを飛び出した燐音はタクシーを捕まえるべく大通りへ向かって駆け出した。

「ンで? なァんでてめェらが一緒に来ちまってるワケ⁉」
 タクシーの後部座席を広々と使うつもりだった燐音は、しかし左右両方から乗り込んできたニキとこはくに挟まれ、一番座り心地の悪い真ん中へと押し込まれて喚いた。
「おウチ帰ってじっとしてろよおめェらはよォ〜! 俺っちで何とかすっから!」
「うるさ、大きい声出さないでほしいっす!」
「ア゙⁉」
「あのね燐音くん、『Crazy:B』の中じゃ僕もお兄さんなんすよ。僕がHiMERUくんのこと心配したら変?」
 燐音はぐっと返答に詰まった。既に行先を指定したタクシーは夜道を走り出していた。
「……おめェらに、なんかあったら困るっしょ。いい子だから大人しく」
「燐音はん。そないなこと言わんといて、わしかてぬしはんひとりで行かせたないんじゃ。なあ、わしら仲間なんと違うの? 頼ってもらわれへんのは、寂しい」
「……。ずりィ言い方覚えやがって……誰に似たんだか」
「コッコッコ。口の達者なお兄はんらがおってなあ、毎日お勉強させてもろてます」
「ハッ、お子様がァ、言うようになったじゃねェか」
 こはくのおどけた言い回しに車内を満たしていた緊張感が少し緩んで、燐音は強張っていた肩の力を抜いた。相変わらずふたりに挟まれて窮屈な思いをしていたが。
「……冗談はこのへんにしよか。どないなっとると思う?」
「あァ……行ってみねェことにはわかんねェけど、あいつがいる場所とこっちとじゃ時間がズレてやがる。何らかの歪みが起きてるのは間違いねェ――電話が通じたっつうことは、まだ完全に異界に取り込まれちゃいねェがな。時間の問題っしょ」
「うう〜ん、まだ僕には冗談みたいな話っす……」
「冗談であってほしかったよ俺っちだって」
 そうは言ってみても、今この瞬間、仲間に危機が迫っていることは疑いようのない事実なのである。何しろ燐音とこはくが揃って同じものを聞いたのだ。
 燐音には物心着いた頃から人ならざるものが見える。幼い時分には良いものも悪いものも区別がつかなかったけれど、故郷のはずれに住んでいた祈祷師の婆さまが〝それ〟との付き合い方を教えてくれた。悪いものを退ける術も心得ている。
 一方のこはくは見えないものを感じとる力が抜群に冴えていた。実家の座敷牢にいた頃から、時折見えない友達と会話をして時間を潰していた。燐音のようには祓えないが、干渉することは出来た。
 そのふたりが「危険だ」と口を揃えて言っているのだ、ニキにも事の重大さはよくよく理解出来ていた。彼を助けられるのは自分達しかいないということも。
(僕にはよくわかんないけど……今動かなかったら、後悔する気がする)
 霊感が無いとはいえニキも勘は冴えている方だ。自分に出来ることがあるかはわからないが、それでもじっとしてなどいられなかった。
 珍しく真面目に考え事をしたからか腹の虫が大きな声で鳴いたので、ニキは鞄から焼きそばパンを取り出して思い切りかぶりついた。



***



 ぱりん

 何かが割れる音にHiMERUは瞼を持ち上げた。眠りに落ちた時の仰向けの姿勢のままで数度ゆるゆると瞬きをする。寝る前と同じく身体全体にまとわりつくような倦怠感がある。
「……?」
 先程の音は何だろう。何処から? 陶器が割れるような音だった。式場で何か、物が落ちでもしたのだろうか。
(朝……に、なってから、確認すれば……良いか)
 気にはなるがどうにも全身が怠い。疲れが溜まっているのだ。目を閉じてもう一度寝に入ろうとした時、HiMERUの耳に新たな音が飛び込んできた。

 かつん、かつん、かつん

 足音だった。随分遠くから、それこそ駐車場の方から、聞こえる気がする。警備員が見廻りでもしているのだろうか。夜中にご苦労なことだ。それにしても、女性のハイヒールみたいな高い音をさせるんだな。

 かつん、かつん、かつん

(……一階)
 音は徐々に近づいてきている。
 かつん、かつん、かつん。

(階段……)
 警備員じゃない。ハイヒールみたいな、じゃない。ハイヒールそのものでないとこんな音は出ないはず。おかしい。こんな時間に、こんな場所で聞くような音では断じてない。

 かつん、かつん、かつん

(二階、の、廊下)
 音はすぐ近くだ。嫌な汗が吹き出して止まらない。HiMERUは金縛りにあったかのように指の一本すら動かせなかった。

 かつん

 足音が止まった。HiMERUが寝ている部屋の、扉の前。生きた人間ではないということはHiMERUにもわかった。通り過ぎてくれ。頼む。辛うじて動く目の周りの筋肉に精一杯意識を集中させて固く目を瞑った。得体の知れない〝それ〟が、早くここから去ってくれることを願って。

 ころん

 不意に、HiMERUの枕元に何か小さなものが転がり落ちた。必死に目を瞑っていたのに、何かに操られるようにぱっと瞼が開いて、ついさっきまで動かそうと思っても動かせなかった首が勝手に横を向いた。
 陶器の破片が落ちていた。暗がりだからよく見えないけれど、白地に花のような柄が描かれている、恐らく茶碗か何かの、欠片。それに気を取られているうち、扉の前の気配は消えていた。
 ――なんだ、これだけか。
 HiMERUは詰めていた息を深く、長く吐き出した。自分の意思で身体を動かせることを確認してから、寝直そうと寝返りを打って、息を飲んだ。
「……っ⁉」
 目の前に女の顔があった。否、顔と呼んでいいのかもわからない。怒り、悲しみ、憎しみ、情念とも怨念ともつかない激しい感情がこんがらがって渦を巻き、目や鼻や口があるはずのところがぐちゃぐちゃに捩れて見るに堪えない有り様の、人ではない何か。それが、真っ暗闇からただただHiMERUを見つめていた。



***



 階段を駆け上がった先に、また上へと続く階段が現れる。何度繰り返しただろうか。上っても上っても、目指している上階へ辿り着けない。
(畜生……、畜生! 何がどうなってンだよ!)
 道中ネットで調べた。到着してからも施設案内図を確認した。この建物は間違いなく二階建てであるはずなのだ。
 半分上ったところの踊り場で立ち止まって燐音は膝に手をついた。体力はある方だがそれでもきつい。きりがない。ここが既に異界の中だとでも言うのだろうか。
「はっ、はあ、なんや、狐に化かされとる、気分やわ」
「ふー……、化かされ、てる、かァ」
 隣で同じように息を切らすこはくの言葉をオウム返ししてみる。化かす。妖術とか幻術とか言われるあれ。
「……目に見えるモンが全てじゃ、ねェのか……?」
 ぽつりと呟いて、振り返った先には息ひとつ乱していないニキがいる。椎名ニキ。霊感はゼロ。本当に自分達が化かされているのだとして、燐音とこはくに見えているものが、彼には見えていないのだとしたら。
 これはひとつの賭けだった。
「……ニキ、今だけはてめェに従う。メルメルはどっちだ」
「はい? だからさっきからこっちって言ってるじゃないっすか、僕の話無視してどっか行こうとしてんのはあんたらっすよ、もお」
 そう言って心の底からの呆れ顔をつくったニキは、仰天する燐音とこはくの眼前で踊り場の鏡の中へとすっと消えていった。
「……ナルホド?」
「わしら、目ぇに見えるもんを信じすぎとった、かなあ……?」
 ふたりは顔を見合わせてからニキの後を追って走り出した。



***



(まずい……声……が、出ない)
 心臓が煩く悲鳴を上げている。止めどなく汗が吹き出すのにすうと血の気が引いて体温が下がるのを感じる。――こいつは間違いなく自分に危害を加えようとしている。逃げなければ。逃げなければ。そう思うのに。
(くそっ……まただ、また、どうして身体、動かない……!)
 首の向きも眼球すらも思い通りに動かない。目の前の何かとひたすら見つめ合うことを甘んじて受け入れるほか出来ず、HiMERUは気が違ってしまう、と思った。何しろ“それ”を視界に入れていると、頭の中にどろりと淀んだ感情が濁流のごとく流れ込んでくるのだ。
 あなたが言った。私は待った。あなたは破った、私との約束を、破った。私は待った。待っていた。信じて待っていたずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。憎い苦しい寂しい殺したい憎い寂しい憎い苦しい苦しい憎い殺したい憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い愛しい。
「嫌、だっ……やめろ‼」
 ようやく声が出たと思った、刹那のことであった。HiMERUの視界いっぱいに白い閃光が弾けた。あまりの眩しさに耐えかねて咄嗟に目を閉じる間際、見覚えのある赤が真っ白の中に降って湧いたように飛び込んできた。数秒おいて目が眩むような強い光が収束すると、その爆心地にいた背中がひょいと振り返った。
「……あま、ぎ……?」
「おう、待たせたなァ」
「あっHiMERUくん大丈夫っすか⁉ 顔真っ青っすよ!」
 心なしか軽くなった身体を緩慢に起こせばどたばたと駆け寄ってきたニキに支えられる。部屋の唯一の出入口である扉付近に佇んだこはくが「間一髪っちとこやな」と額の汗を拭っていた。
「ニキきゅんそのままメルメルの傍いてやって、そーそー出来るだけくっついたままでいろよ。楽ンなるっしょそいつが触れてると」
「はあ……ええ、まあ……じゃなくて、あなた達どうして」
 突然のことに呆気に取られたHiMERUがぽとんと発した疑問に、「〝どうして〟だァ〜?」とヤンキーよろしく凄んで見せたのは燐音であった。伸びてきた大きな掌がわしわしと頭を撫でる。
「ばっかおめェ、ウチの可愛いお姫さんが危ねェっつーから、イヌサルキジの愉快な三人衆が車飛ばして助けに来てやったンだろうが、あァん?」
「――そこは三銃士とかでは」
「ズッコケ三人組の間違いとちゃう?」
「細けェこたァどうでもいいしこはくちゃんのは違げェ」
「どうでもよくあらへんやん」
 今やすっかり馴染んだ仲間達の、見慣れた光景だ。どっと安堵が押し寄せて、すっかり脱力したHiMERUはニキに体重を預けた。ごそごそとポケットを探った彼が口にキャラメルを放り込んでくれたので、遠慮なくまろやかな甘味を堪能した。癒される。
「えー、と、助かりました、ありがとうございます……? さっきの光は? 天城が何かしたのですか」
「ン? あ〜、違ェけど、厳密にはそう」
「は?」
 疑問符を浮かべるHiMERUに、燐音は足元に落ちていたものを拾って投げて寄越した。丁度HiMERUの手の中に収まったそれは黒く煤けた布の切れ端のようなものだった。
「――これ」
「今朝の打ち合わせン時渡したっしょ、御守り。メルメルさァ、ゴミを見るみてェな目してたから、捨てられてたらどうしようってヒヤヒヤしたぜェ? ま、持っててくれて良かったよ」
 指先で摘んだそれはぼろぼろと崩れて灰になってしまった。にわかには信じ難い話だが、燐音に持たされた御守りがその力を発揮して魔を退けてくれたのだそうだ。捨てるのが面倒で適当に鞄に入れたままだったとはとても言えない。
「へえ、燐音はんがつくったん?」
「そそ、俺っちの念をたァ〜っぷり込めたやつな♡」
 「うわ生気吸い取られそう」とぼやいたニキが燐音に力いっぱい首を絞められているのを横目に見ながら、何やら扉に貼り付けたらしいこはくがHiMERUの隣へやってきてよっこらせと腰掛けた。
「いつも通りに見えるやろ?」
「え? ……ええ、はい」
「燐音はんもニキはんも、さっきまで心配や〜言うて、おどれが死んでまうんやないかっち顔してはったんよ。ふふん、見ものやったわ」
 悪戯っ子の顔をして笑う、実年齢よりもいくらか老成して見える彼の発言に少しの引っ掛かりを覚えて、HiMERUは問うた。
「――桜河も?」
「……なんや、いけずやなあHiMERUはん。当たり前やん。そない意地悪言わんでもええやろ」
「――ふふ、そうですか。すみません。ありがとう、ございます」
 拗ねたような響きを含んだこはくの返答にHiMERUが小さく吹き出すと、彼も嬉しそうにはにかんで見せた。

 燐音が尻ポケットから引っ張り出した小さな巾着袋を部屋の四隅にひとつずつ置いた。こちらも「燐音くんの念がたァ〜っぷり込められた」塩であるらしい。それから。
「あなたここまで来て飲む気ですか⁉ 信じられません!」
「ンなわけあるかバカヤロウ、清め酒だよ清め酒!」
 彼がコンビニの袋からがさごそと取り出したのは、白いパッケージに赤鬼の顔が描かれたパック酒であった。HiMERUはぎょっとしたが(それもこの男の日頃の行いが悪いせいである)、目的は酒盛りではないようだ。燐音は酒を口に含んでは、部屋の壁にこはくが貼り付けた紙に向かって霧吹きのようにそれを吹き掛けていった。
「あとは籠城戦、ってことっすか?」
「そういうことやな。結界は張った。朝までもてばわしらの勝ちや」
「朝まで……。もっと食べる物買ってくるべきだったっすかねえ……」
 あからさまにしょんぼりしてしまったニキを一瞥して、こはくは大袈裟に肩を竦めた。HiMERUは一気に緊張が解けたのか、ニキの太腿に頭を乗せたまますこんと眠りに落ちてしまっていた。
「大丈夫だ、夜明けまで耐えりゃあ良い。気張ろうぜ」
燐音が言って、ニキとこはくが黙って頷いた。屋外で木々を揺らす風の唸り声はより一層強くなっていた。



***



 どさ、と何かが倒れたような物音に、燐音は重い瞼を持ち上げた。
 ――やべ、寝ちまってた。
 あれほど気を張っていたと言うのに、朝から打ち合わせ、事務所の定例会議にダンスレッスンと、ハードな一日を経て蓄積された疲労は物凄い引力で燐音を眠りの淵へと誘っていた。ぶんぶんと頭を振って強烈な睡魔を追い払ってから、未だ少し霞む目で辺りを見回す。和洋室の洋室側でテーブルに上半身を預けて眠るこはく、畳に大の字になって高いびきをかいているニキがいる。
「……ッ、」
 HiMERUの姿がない。彼は確か、ニキの膝枕で休んでいたのではなかったか。
 がばりと勢いよく身を起こした気配に気付いてか、こはくが目を擦りつつこちらに顔を向けた。
「んん、なんやの燐音はん……お便所?」
「こはくちゃ……、メルメル、」
「ひめるはん……? あっ、おらんなっとる!」
 動揺したこはくが蹴飛ばしたパイプ椅子がガシャンと派手に倒れ、その音でニキも起き出した。
「ふああ〜……もう朝ご飯の時間っすかあ……?」
「おいてめェ、馬鹿ニキ! なんっでメルメルから離れた⁉」
「え、え⁉ 知らないっすよ僕、寝るつもりもなかったのに急にカクーンって寝ちゃって、その後のことはマジでわかんないっす!」
「〜〜っ、……だよな、わりィ」
 歯噛みした燐音は無意識に掴んでいたニキの肩から手を外し、萎んだ声を出した。ニキに当たっても仕方がない。そんなことはわかっている。
「おったで」
 落ち着き払った声にはっとして顔を上げる。そちらへ目を向ければ、廊下へ通じる扉の前にしゃがみ込んだこはくと、そのすぐ側に両膝をついて項垂れるHiMERUがいた。
「もお〜HiMERUくん、勝手にどっか行っちゃ駄目でしょ〜!」
「待ちや、ニキはん」
 駆け寄ろうとしたニキを淡々とこはくが制す。あと数歩のところまで近付いて、燐音もただならぬ気配を感じ取った。
「メルメル……じゃ、ねェな。誰だ、あんた」
「……」
 問い掛けに振り返った顔は紛れもなく見知ったHiMERUのものだ。しかしどこか様子がおかしい。言うなれば、ソロアイドル時代の『HiMERU』が纏っていた無邪気で愛らしい雰囲気が、今の彼を丸ごと塗り潰してしまうみたいに蘇った、そんな風に燐音には感じられた。
 警戒心を剥き出しにする燐音に対し、こはくは至極穏やかな声色でHiMERU(の形をした何か)に語り掛けた。
「堪忍なぁ、怖がらせてもうて。赤いお兄はんな、今は怖い顔してはるけど、ほんまは優しいおひとなんよ。お友達が心配で、ちーっと大きい声出しよっただけ」
「……友だち……?」
「ん。せやから、ぬしはんが怖がることなんてなーんもあらへん」
「……うん」
「わしらと、お話してくれる?」
「……いいよ」
「ん、ええ子や。おおきにな」
 ぽんぽん、こはくが小さな子供にするようにHiMERUの頭を撫でた。燐音とニキがぎょっとして目を剥いた。そんなことはお構いなしに、彼は小さな口をおずおずと開き、話し始めた。
「あのね。このおねえちゃん、お外に連れて行かれそうになってたの。止めなきゃって思って、まゆ、おねえちゃんの体借りちゃった」
「〝おねえちゃん〟?」
「〝まゆ〟……ちゃん?」
 次々と疑問符が飛んだ。幼げな口調で恐る恐る言葉を紡ぐ様子は、どう見たって小学校低学年くらいの子のものだ。それも女の子の。こうして言葉を発しているのは彼女の――曰く、『まゆ』の――意思であって、HiMERUのものではないらしい。それから。
「〝おねえちゃん〟って……! ひめるく、おねえちゃんって言われてるっすよ! 起きて‼」
 燐音とこはくがブフッと噎せて咳き込んだ。
「ぎゃっはは! こいつァ傑作だァ。あンなァまゆちゃん、わりィけどこいつ〝おにいちゃん〟だから。間違えねェでやって」
「コッコッコッ、無理もないわ。HiMERUはんには知らせんとこ」
「え? おに……えっ?」
 HiMERUの身体に収まった『まゆ』が慌ててズボンの前をがばっと引っ張って中を覗き込んだ。「ある……」と小さく呟いたかと思うとその白皙が見る見るうちに朱に染まっていく。普段のHiMERUが滅多に見せることのない表情を目の当たりにして、物珍しさにじっと見入ってしまったのが良くなかった。彼女は照れ臭さからかテーブルの下へと逃げ込んでしまったのだ。
「まゆちゃんゴメ〜ン、兄ちゃん達が悪かったっしょ。出てきてくんね?」
「……」
 両頬をぷくりと膨らませて小さく三角座りをするHiMERU。いや今はHiMERUではないのだが、一七八センチ男性の幼女仕草がどうにも三人のツボに入ってしまって仕方ない。必死に笑いを堪えつつコンビニの袋から取り出した棒付のキャンディをちらつかせれば、まゆはぱあっと笑顔を浮かべて近寄ってきた。イチゴ味が好きらしい。
 燐音はこっそりとこはくと視線を交わした。今まさにHiMERUに憑いている彼女は果たして本当に危険な存在ではないのか、微妙に判断しかねていたのだ。あらゆる悪意に敏感なこはくが大丈夫だと頷くのを見てとると、燐音は少女の方へそっと手を伸ばした。安心させるように片膝をついて目線を合わせ、勿忘草色の柔い髪を梳いてやる。蜂蜜色の瞳が心地好さそうに細められる。――弟が幼かった頃にも、こうしてやれたら良かった。
「……、なァまゆちゃん。メルメルのこと引き留めてくれたンしょ? ありがとな。兄ちゃん達もさァ、こいつのダチなンで、なんとか助けてやりてェの。何があったか教えてくんね?」
 それから順番に自己紹介をした。りんねおにいちゃん、こはくおにいちゃん、ひめるおにいちゃん、と彼女は一所懸命に反芻した。ニキのことはどうしてかすぐに「ニキ」と呼び捨てにした。
 話によれば、籠城を始めてから程なくして、気絶するように全員が寝入ってしまったのだと言う。その後静かに眠っていたはずのHiMERUがふらふらと立ち上がり部屋の出口へ向かって行くのを、物陰から見守っていたまゆは止めようとした。けれど深く眠ったままのHiMERUに彼女の声は届かなかったため、やむを得ず身体に取り憑いて主導権を奪取した。燐音を眠りの淵から引き上げた物音は、その時彼が床に膝をついた音だったというわけだ。
「ひめるおにいちゃんが、引っ張られて行っちゃうの、まゆ見たの……。外に出たら危ないんでしょう?」
「うんうん、そうだね。偉いねえ」
 HiMERUの姿をしたまゆはすっかり〝おにいちゃん〟達に懐き、「ニキ、抱っこ!」と駄々を捏ねては彼の腿の上に座っている。平均身長をゆうに超える男を膝に抱えたニキは、それでも小さな女の子に慕われて嬉しそうだった。所謂『幽霊』と話が出来るのも新鮮だった。今はHiMERUの声を介して会話をしているから、霊感ゼロであっても人ならざる者の言葉を受け取れるのだ。
「まゆちゃんは〜、いつもはどこにいるの?」
「んっとね、隣の部屋」
「隣?」
「ひめるおにいちゃんがね、一回ドアを開けに来たの。でも鍵がかかってて開かなかったみたい」
「ふうん。そん時にまゆちゃんからメルメルに干渉できる『道』みてェなモンが出来たンだな、たぶん」
「何言ってるか全然わかんないっす……」
「まゆもわかんない」
「なあなあ、燐音はん」
 こはくがちょいちょいと燐音を呼んでから、声を低めて耳打ちをした。
「隣、ぎょうさんおるの、わかる?」
「……。なんとなく」
「ご遺骨じゃ。大方引き取り手のない……無縁仏はんやろな。うっかり部屋開けようとしはって、中のひとら刺激したんとちゃう?」
「そんでメルメルが狙われてる、って言いてェの?」
「それ以外あらへんやろ、」
「ン〜、ちっと間違っただけっしょ? 荒らそうとしたワケでもなし、ンな怒るようなことかよ」
 燐音にはどこか腑に落ちなかった。閂のかかった暗い部屋に何年詰め込まれているのかは知らないが、弔いはきちんと済ませているはずなのだ、焼く時に。無関係の人間を巻き込めるほどの強い怨念が残るものだろうか。
 ――まあ、良い。夜明けまでの辛抱だ。
「ニキィ〜、今何時だ」
「んぃ? え〜っとぉ……もうすぐ四時っす」
 まゆとお喋りをしている間に時間は過ぎ、日の出まであと一時間というところまで来ていた。ニキだけは幻術の影響を受けないことがわかっているから、正しい時刻も彼ならば把握出来る。
「ていうか、HiMERUくんって今どうなってるんすか?」
「ずっと寝てるよ。ひめるおにいちゃん、疲れちゃったみたい」
「お〜寝かしとけ寝かしとけ」
 相槌を打ちながら小上がりに腰を下ろした燐音は、ふと畳の上に転がる小さな欠片に気が付いた。HiMERUが寝ていた布団の枕元に落ちていたのは、白い瀬戸物の破片だった。何気なく手を伸ばして、指先がそれに触れた刹那のことだった。
(⁉ なんッだこれ……!)
 気がつけば燐音の脳裏には見知らぬ部屋の光景が広がっていた。夢だとか幻覚だとか、そんな薄ぼんやりしたものではない。誰かの視界をそっくりそのまま借りてきたかのように鮮明に、それは燐音の意思とは無関係に展開していった。
(……誰だ……?)
 目に映るのは赤いネイルの女の手。スマートフォンの画面にはY氏の訃報が映し出され、その掌に半ば食い込むほど強く、端末が握り締められている。女が何やら喚いている。どうして置いて行ったの、嘘つき。嘘つき。嘘つき。愛してるって言ったのに。私が夫と別れるまで待つって、言っていたのに。約束したのに。許せない。許せない。玄関前、足元で白い茶碗が地面に当たって砕ける。女が割ったのだ。さよなら。これでもう、帰って来られないわね。私と会っていてもアイドルの話ばかりしていたあなた。最期まで「彼に会いたい」と言い続けていたあなた。妬ましい。あいつが憎い。彼の愛を一身に受けるアイドルが、憎い。
「燐音はん‼ 飲み込まれたらあかん‼」
「っでェ‼」
 身体ごとぶつかってきたこはくに引き倒された燐音は、背中を強かに打ち付けて畳の上に転がった。
「おどれ……っ、この、あほんだら! ぬしが取り込まれてどないするんじゃスカポンタン!」
「……? わり、こはくちゃん、でも」
「でももへちまもあるかいボケェ! そいつが媒介や、触ったらあかんっち言うとんのがわからへんの⁉」
 そう言ってこはくが指し示したのは先刻燐音が触れた瀬戸物の破片。たった今それと同じものを見てきたような気がする。白い陶器が足元で砕け散る様がまざまざと思い出される。そう言えばある地域では家族が亡くなった時、愛用していた茶碗を玄関先で割る習慣があると聞いたことがある――故人が未練なくあの世へ旅立てるようにと、願いを込めて。
「……未練があんのは、あんたの方ってことかよ」
 燐音の中で点と点が綺麗に繋がった。どうしてこのタイミングで、よりによってHiMERUが狙われたのか。
「ぎゃあ‼」
 不意にユニットバスの方からニキの悲鳴が響き、思考に沈んでいた燐音は慌ててそちらへ顔を向けた。
「ニキ⁉」
「り、りんねく……かみ、髪の毛」
「髪の毛?」
「は、排水溝から、なんっ、髪の毛が、で、出!」
「燐音はんっ」
 今度は部屋の隅を凝視していたこはくが引き攣った声を上げた。
「見てみい、結界がもう保たん!」
「う、嘘っしょ……?」
 見れば四隅に置いておいた塩の入った巾着袋がすっかり黒ずみ、焦げたような異臭を放っていた。壁に貼り付けた魔除の札も端から焼けていっている。燐音が媒介に触れたことを切っ掛けに、結界に綻びが生じたようだった。そいつはその穴を突いたのだ。
「だめ、ひめるおにいちゃんが、引っ張られちゃう!」
「まゆちゃん、気張りや! なんとか助けたるから……!」
 扉の下から真夜中よりも真っ黒な髪の毛が這入ってくる。それは意志を持ったように床や壁を這いずり回り、HiMERUを呼び寄せようと、うぞうぞと蠢いた。こはくが必死に彼を羽交い締めにし行動を阻まなければ、中のまゆ諸共連れて行かれてしまう。
(無理もねェ……もう肉体も残ってねェ、魂の搾りカスみてェなまゆちゃんと、今はどうだか知らねェが少なくとも数日前には生きてたあの女とじゃ、思念の強さが桁違いだ。押し負ける……!)
「燐音くんなんとかして!」
「燐音はん!」
「あ〜も〜うるっせェ‼ 今考えてるっつーの‼」
 燐音がやぶれかぶれに声を張り上げた、その時だった。
「――まったく、騒々しい人達ですね……おちおち寝てもいられないのですよ」
 こはくに絞め技を仕掛けられていたHiMERUが、おもむろに普段の口調で喋り出した。
「えっあ、HiMERUはん起きたん⁉」
「痛……、離してください桜河」
「メ、ルメル」
「ふっ、何です天城、その顔は。情けないったらないのです」
 至っていつも通りの彼はひとつ頷いて、「――今起きたので状況はわかりませんが、どうやらHiMERU達はピンチに陥っているようですね」と事も無げに言ってのけた。
「――何とかしなさい、天城」
「……ハッ! 今まで寝てた奴がえらっそーに」
「HiMERUを助けに来たのでしょう? でしたら相応の働きをしていただかなくては」
「へーへー、そうでしたねェ〜!」
 調子を取り戻したHiMERUと言葉を交わすうち、燐音も頭の回転速度が平常に戻ってくるのを感じていた。知らずのうちに口角が上がる。やはり『Crazy:B』のHiMERUは――自分と肩を並べるダブルセンターの相棒は、こうでなくては。
「俺っちに考えがある、こはくちゃん手伝ってくれ。ニキは時間稼いどけ」
「はっ、え? 嘘でしょ丸投げ⁉」
「椎名なら出来ます。HiMERUは信じていますよ」
「まぁたHiMERUくんまで適当なこと言って〜! 知らないっすからね僕!」
 じわじわと、室内を侵食する髪の毛は増殖を続けていた。夜明けまであと、四十五分。



***



 まゆは十年以上もの長い間ここにいる。閂のかかった暗い部屋の中の、冷たい壺の中に押し込められて、どこにも行けないでいる。
 生きていた頃のことはほとんど覚えていない。どうして死んだのかも思い出せない。けれど確かに、死んだ時はひとりだった。家族の元に帰ることは出来なかった。だから無縁仏として、ここにいる。同じ部屋にいる他のお骨達は諦めたのか、それともその魂はもうどこか遠くへ旅立ってしまって、ここにはいないのか。ともかく誰ひとりとして口を利こうとはしなかった。
(ひとりは……さみしい)
 ずっと、誰かとお話ししたかった。大人達がまゆの部屋を『開かずの部屋』と呼ぶのを聞いた。この部屋には誰も来ないのだと知った。
 ドアノブががちゃがちゃと音を立てたのは何年振りだっただろうか。女神様みたいに綺麗な人だと思った。けれどどこか隙があって、近づくのは容易かった。だからまゆはHiMERUに引き寄せられるように『開かずの部屋』を抜け出した。
(まゆに気付いて、怖がらずにお喋りしてくれる、〝おにいちゃん〟)
 かっこいい〝おにいちゃん〟が四人も出来た。嬉しかった。自分はこの人達を待っていたのかもしれないと、思ったし、困っているなら何でもしてあげたいとも、思った。
(まゆが、おにいちゃん達のために……できること)
 少女は、もうすっかり覚悟を決めていた。



***



「んっと? それで今まゆちゃんは?」
 ニキが燐音から貰った塩を少量ずつ足元に撒きながら問うた。
「――HiMERUが目を覚まし身体の主導権を取り戻しましたので、彼女はHiMERUの中から出て行きましたよ。今はほら、そこに」
 HiMERUが〝そこ〟と言って指したテーブルの下の暗がりに、小さく三角座りをする女の子がいた。やはり小学校二年生くらいの、おさげ髪の可愛い子。「あれ? 僕にも見える」とニキは目を瞬かせた。
「メルメルと長いこと同化してたから、実体に近付いてるっつーの? 今はおめェらにも見えるンだろうよ」
「ふうん? ていうか燐音くんとこはくちゃん、何してるんすか?」
「お祓いの準備」
 燐音は畳に何やら書き付けている手元から顔を上げもせずにそれだけ答えた。「メルメル鏡貸して」と言うのでHiMERUは嫌々ながらも私物のミラーを手渡した。
 支度が整うまで塩を撒くことでなんとか持ち堪えろと言われたニキは、馬鹿正直にそれを実践している。何しろ先程から霊感の無いはずのニキにもばっちりと蠢く髪の毛が見えている、それだけ霊の力が強大なのだ。そりゃただの食塩にだって縋りたくなる(これは燐音謹製清めの塩だけれど)。
「――まゆ、と言いましたね。そんなところにいないで、こちらへ来てください」
「……」
「どうしました?」
 よいしょと屈んだHiMERUは座り込むまゆの顔を覗き込んだ。少女の透んだ瞳がHiMERUのそれを真っ直ぐ見つめる。
「……怒ってない?」
「――どうして?」
「まゆ、ひめるおにいちゃんの体、勝手に借りたんだよ」
「ふふ、いいえ? あなたはHiMERUを助けてくれたのですから、怒る理由がないのですよ」
 微笑みを浮かべたHiMERUは手を伸ばして彼女の頭を撫でようとした。霊体に触れることは叶わずに指先が空を掻いただけだったが、意図は正しく伝わったようだった。
「ありがとう、ひめるおにいちゃん」
「――こちらこそ。ありがとうございます、まゆ。せっかくですし、すこし、お喋りしませんか?」
 HiMERUが自分の隣の椅子を引いて見せると、少女は花が咲くように笑った。

「おにいちゃん達は、お友達なの? りんねおにいちゃんが言ってた」
「ううん、友達……とは違いますね。いえ、あながち間違いでもないのでしょうか、最近は」
「ふくざつ? ……なの?」
「ふふ、まあ、そうです。HiMERU達は複雑なのですよ。皆アイドルですから」
「アイドル? おにいちゃん達はアイドルなの? ニキも、こはくおにいちゃんも? テレビに出てるの?」
 まゆが大きな目を輝かせ、投げ出した足をぱたぱたと跳ねさせた。おや、とHiMERUは思った。
「――アイドルが、好きなのですか?」
「好き! まゆ、陣くんのファンだったもん」
「……、――そうですか。HiMERUも、アイドルが好きですよ。一緒ですね」
 それからHiMERUは、たったひとりの小さな観客のために数曲披露してみせた。佐賀美陣のヒット曲に、『HiMERU』の代表曲のラブソング。『Crazy:B』の持ち曲を踊っている間は、ニキもにこにこ笑いながら声を合わせて歌ってくれた。まゆは終始きらきらとした瞳で手を叩いていた。
「すごいね、夢みたい。すっごく楽しい!」
「夢を見せるのがアイドルの仕事ですから。あなたもHiMERUのファンになったでしょう?」
「うん!」
 一緒に歌いたいとせがむまゆの願いを聞き入れて、『Crazy:B』のパーティチューンを教えてあげた。彼女は一所懸命にHiMERUの真似をして手でリズムを取りながら歌った。その途中、ふと彼女が表情を蔭らせて零したひと言を、HiMERUはずっと、覚えている。
「アイドルのお歌なら……お空にも、届くよね」
「――届きますよ。きっと」
 触れてやれないことがこんなにも歯痒いだなんて、HiMERUはこの時初めて知ったのだった。

 ギギ、と耳障りな音を立て木製の扉が軋む。僅かに開いた隙間から、髪の毛だけでなく真っ黒に煤けて爪の剥がれた手のようなものが覗いていた。一度燐音の御守りによって跳ね除けられたそいつは無傷ではないらしかったが、それでも強い恨みの感情が突き動かすままに、未だしぶとく部屋の中へと侵入しようとしていた。
「だ〜っ! もうしつっこいんじゃええ加減にせえ!」
 扉へ突進したこはくが開きかけた隙間を力任せに閉じるべく力を込める。こちらへ突き出ていた手が挟まれた痛みにのたうち、暴れる。痛い、痛い、どうして。許さない。怨念に塗れた聞くに耐えない悲鳴が響き、思わず怯んだこはくは扉から手を離してしまった。
「っ、あかん、破られっ……」
「こはくちゃん!」
 咄嗟に手首を引いたニキと共にどさりと床に倒れ込む。扉はますます開き、二十センチほど出来た隙間からはぐちゃぐちゃに爛れて皮膚の垂れ下がった女の顔が見て取れた。いよいよ限界だ。
「燐音くんまだぁ⁉」
「もーちょいだからっ! おめェら俺っちの後ろに来てろ!」
 靴も脱がずにバタバタと畳に上がり燐音の背後に回る。足元にはマジックで書いたような不思議な紋様が広がっている。先程からこれを用意していたらしい。
「『高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて』……」
 燐音が祝詞を唱え始めると足元の紋様がぼうっと波状に光を放ち始めた。侵入を試みていた女の動きが鈍ったのをちらと顔を上げて確認してから、紋様の中心に据えた鏡に両の掌を叩き付けるように置く。青白い光がより一層強さを増した。
「『此く聞食してば 罪と言ふ罪は有らじと 科戸の風の 天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風夕風の吹き掃ふ事の如く』……」
「効いてる! 効いてるっす!」
「神はん頼んます……わしらを助けてや〜……」
 夜明けまであと十分。もう祈るほかに出来ることはない。
「『此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に』……」
 祝詞がクライマックスに差し掛かった時だった。ぱりん、と軽い音がして、鏡が割れた。
「ウッソ」
「なっ、天城っ」
 降って湧いた隙をそいつは見逃さなかった。生臭い風が廊下から強く吹き付け、扉がけたたましい音を立てて開け放たれた。真っ黒な口を大きく開けた異形が室内へ押し入ってくる。おしまいだ。HiMERUが目を瞑って全てを諦めようとした時、それまで傍らでじっとしていた小さな影が異形の前へ躍り出た。こはくがすぐに気付いて声を上げる。
「まゆちゃん、何してはるん⁉ はよ戻り!」
「……あの女のひと……ひめるおにいちゃんを探してる。捕まえたら満足して帰ってくれるよ。まゆなら、ひめるおにいちゃんの代わりになれる……あのひと、もう目が見えてないの」
 こちらを振り返った屈託のない笑顔を見て、燐音は少女のやろうとしていることを悟った。確かに長くHiMERUと同化していたから、その気配は限りなく彼に近付いているけれど。だからと言ってちいさな女の子を身代わりに救われるなど納得いくわけがない。しかし彼女を守ったところで、全員が助かる方法は最早無かった。今手を伸ばしても間に合わない、喰われてしまう。
「……」
「燐音はんなんか言うて! なあ‼」
「……ごめん」
「燐音はん‼」
「――まゆ」
 場にそぐわない明瞭な声が矢のように飛んだ。薄く微笑んだHiMERUが少女に向かって小指を差し出していた。
「歌を、届けます。あなたのところまで。――HiMERUは、約束を守ります。必ず」
 飲み込まれる間際、まゆはにぱと笑って小指を差し出し返した。その唇が僅かに動いて言葉を紡ぐ。
「ありがとう、おにいちゃ」
 ざああと再び風が吹いた。固く瞑っていた目を開けた時、そこにははじめにHiMERUが訪れた時と同じ、なんてことのない部屋があるだけだった。
 東の空が徐々に白み始めていた。



***



 HiMERUだけで良いと言い張ったのを聞き入れなかった『Crazy:B』のメンバーは、揃ってY氏の告別式に参列していた。着の身着のまま飛び出してきたために練習着姿で焼香をあげる羽目になったのは、(勝手なスケジュール変更も含め)後程茨から叱られることになるのだが。
「――何だか、不可解なことだらけでした」
「ん〜まァ、葬儀場っつーのは人の思いが溢れるほど集まる場所だからなァ。霊も力を持ちやすいんじゃねェの」
「けど世の中悪い霊ばっかじゃないんすね、初めて知ったっす……」
「ん……せやね……」
 こはくはまゆが消えてしまってから明らかに意気消沈していた。そんな最年少に気を遣ってか燐音が「おめェらこの後美味いもん食いに行くっしょ? ニキちゃんの奢りで」と明るい声を出した。
 ユニットメンバーが小声で話し込む傍ら、HiMERUは視線を感じて振り返った。大勢の参列者が行き交う中にひとり佇む黒髪の女性とぱちんと目が合う。
(……誰だ……?)
 知らない人である、はずだ。それなのに何故だか、初めて会った気がしない。訝りつつ横目で彼女の様子を窺っていると、ルージュの引かれた唇が音を発さずに動いた。
(「ゆ」「る」「さ」「な」「い」)
 昨晩、隣に横たわってこちらをじっと見つめていたあの目が、その女性の黒々とした瞳にオーバーラップして、HiMERUの背をつうと嫌な汗が伝った。

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