残光






「殺したいと思ったことなんか数えきれないぐらいありましたよ」
 両掌に残る赤黒い痕を眺めていた。傍らにある体は身じろぎ一つしないのにまだ温かく、命の名残のような葉巻の香りが漂っている。疎ましく思うはずがない。慣れ親しんだ香りだった。
 生を断たれたのは王九が長く兄貴と仕えた人で、断ったのは王九自身だ。目に焼き付けていたおかげで苦渋にもがき呻く最期は幾度となく脳内で再生できていたし、掌の痕と相まって体はいまだ熱く煮えたぎる。
 仰向けに横たわる大老闆に視線を移す。王九は値踏みするようにその頭から爪先までを眺め下ろしてから、ようやく恨みと苦悶に開いた双眸を伏せるため額に掌を被せてみる。けれど思い直し、結局そのまま捨て置いたのは、惜しむ気持ちが勝ったからだ。光の宿らぬ瞳であっても、大老闆が王九を瞳に映し続けるなんて、常からはあり得ないことだった。
「たまんねえな」
 喉がひとつ鳴る。自分だけが見届けた大老闆の最期にひどく気が昂っていた。王九の低めた声、サングラスの奥で細めた目に恍惚が宿れど、嫌悪も抗議も悪態ひとつ、死人からは上がらない。
「……けど、つまんねえ」
 容赦なく王九を蹴飛ばしてきた太い足はもう動かない。
「なあ、兄貴」
 荒く胸ぐらを掴む分厚い手も二度と持ち上がることはない。
「俺、下手打っちまいました?」
 答える者はない。笑んだ口許を咎める者も。
 ――王九が、殺した。

 
***

 
「俺を殺したいか?」
 下手を打った部下の代わり、憂さ晴らしに体を痛め付けられたあとだった。いつだって金で全てを清算する男はごく稀にこうして王九をなぶり傷めることがある。その理由がわからない程王九とて愚かではない。
 痛め付けられた身体に射殺すような視線はいつだって身震いがする。けれどその畏れにひと匙混じる得体の知れないものの答えを王九は長く掴みきれてはいないままでいる。
「そりゃあ勿論、そんなことできるわけもねえっすわ」
 そうあれと、身体に叩き込まれてきた。一方で、するわけもないとは口にしない。持ち上げる眉の動き一つ見逃さずにいようと見据える王九に大老闆は口を歪める。
「お前は頭のタマじゃねえ。ずっと俺の下についてろ」
「勿論ですよ兄貴」
 揺蕩う煙を顔に浴びると自然と王九の口許が弧を描く。切れた端がひどく痛むのも構うことはしない。
「ヘラヘラしてんじゃねえぞクソ野郎」
 膝裏にまた蹴りが一つ。気功は無用、わかりやすく崩折れると鼻で息巻く音が聞こえた。起こした身体で「兄貴」と振り仰ぐと大老闆の視線は既に前を向いている。
 途端に底冷えてくる腹をいなし立ち上がると、
「兄貴」
 軽い口調でもう一度呼び掛けた。歩みを進める大老闆はもはやそんな王九を振り返りもしない。
「兄貴」
 もう一度。大老闆はやはり振り返らない。いつも通り、今まで通り。それでいいと望んだのは王九自身だ。
 それでも。
 圧し殺したものをほんのひとひら洩らしてみせればその一瞬で大老闆が振り返る。凄む強面で銃口を向けるように葉巻を揺らす。
「なあ王九」
 打ちっぱなしのコンクリートに灰がポタリと落ちていく。
「俺を殺したいか」
 どす黒い床版に灰の染みが乱れ咲く。
「そりゃあ勿論……」
 そうしてまた、愛する大老闆にお決まりの台詞を棄て吐くのだ。

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