踊る蜘蛛たち

 イワンが父の訃報を知ったのはモスクワに着いて四日目だった。こっちへ着いて以降気分がくさくさしていて、到着するなり大学の友人たちとどんちゃん騒ぎをやった後、二日ほど寝込んでいた。大人しくしていれば体面は保てる程度に回復してからヴェルホフツェワを訪問したところ、血相を変えたアガーフィア・イワーノヴナが飛び出してきて、父の死を伝えるアレクセイの電報を握らせた。イワンはヴェルホフツェワの家の敷地を踏んでものの10分足らずでそこを後にし、スコトプリゴニエフスクへトンボ帰りするための荷造りに下宿に戻らねばならなかった。
 もっとも、モスクワへ戻ってきてから友人の家を渡り歩いて酒を飲むか、(全く記憶にないが)どうにかこうにか帰ってきて下宿の寝床で死体みたいに転がっているかのどちらかだったので、それほど手間もかけずに済んだ。
 荷造りの終わったトランクを床に転がして、イワンは簡素な寝床に腰を下ろした。どっちにしろもうチェルマシニャへいく汽車は明日にならないと出ない。横になりたいところだが、あれこれと動いたせいでまた吐き気がぶり返してきた。横になったらいよいよ吐きそうだ。
 それでイワンは、あまり趣味ではないがサモワールを持って来させてお茶をがぶがぶ飲んでいた。きっとあれが悪かった、と胸元を押さえながら思う。あのシャンパンだ、名の日の祝いの……。
 モスクワへ着いた晩、友人たちと連れ立って、人の家や居酒屋を北から順にはしごして歩いた。多いときで七、八人いたはずだが、もう真夜中ともなれば、残っているのはイワンを入れて三人だけだった。通りを歩いていると、小さめだがかなり立派な屋敷があって、夜中だというのに、全ての部屋に明かりが灯されて煌々と輝いているのに行き当たった。おそらく一番大きな部屋の、開け放たれた窓からは、音楽や、談笑する人々の声が漏れている。どうやら祝いの宴席が設けられているらしい。それでちょっと寄って相伴に預かろうということになった。無論招待されていないし、知り合いの家でもない。「でも構うもんか、どうせ分かりゃしないよ! それに、まあ、誰かしら知り合いならいるだろう!」と悪友の一人が言い、玄関先に置かれたノートに適当な名前を署名してもぐりこみ、タダ酒をかっ喰らいに行ったのだった。
 部屋は広く、人でごった返していた。主役は中年の官吏で、官等はそれほど高くないものの、コツコツ溜めた金に近頃再婚した妻の持参金を足してこの屋敷を買ったらしい。新居のお披露目を兼ねての宴席だった。客人も役所勤めらしき連中が多かった。若い婦人はあまりおらず、彼らの配偶者らしき既婚婦人がほとんどだった。客人も主人ももうすでにかなり酒が入っているようで、中はガヤガヤ騒がしかった。主役の官吏は部屋の中央で、婦人たちを相手に、この屋敷を買ったいきさつを朗々と語っていたが、周りの表情を見るに、初めて聞く話ではなく、もう今日何度も語られていて、その三度目か、五度目か、ひょっとしたら30回目が始まったところらしかった。ついの棲家という言葉を何度も使った。もう私のような年ともなれば、ついの棲家が必要ですから、小さくても安楽な場所が必要ですから……私はそれ以外何も望まんのです、前途も若きものに譲りましょう、云々。隣では、官吏の妻らしい若い女が顔をうつむかせている。
 イワンたち三人は何食わぬ顔をして部屋の隅をぶらぶらと歩き、怪訝な顔をする相手には、「やあ、こんばんは、私はイワン・イワーノヴィチの甥でして!」などと挨拶をした。愛想よくさえしていれば、ああこの若いのはここにいる誰かの親戚で、これから役所勤めをするか、あるいは仕事の斡旋を頼みに来たのだろうと向こうが勝手に納得する。するだろうと言うのが彼らの見立てだった。
 そのうちに新しい酒が運ばれてきた。封を切ったばかりのシャンパンで、希望するものに注がれた。ほとんどの客が希望した。新しく来た「お若い人たち」にもグラスが用意された。
 ところが、このシャンパンというのがひどい代物だった! 妙に味が薄いくせにやたら酸っぱくて、尖った酸味だけが舌に残る。それでも酒は酒だ。イワンたちは続けて二、三杯飲んだし、他の客人たちもおやという顔をしながら口をつけていた。すると、その様子を眺めていたイワンがニヤリと笑った。友人の止める間もなくイワンが大声で言った。
「まったく、なんてシャンパンだ! これじゃあカナの婚礼と丸っきり逆じゃあないか!」
 周りじゅうがギョッとした。友人二人もギョッとしてイワンの顔を見た。それからイワンたちの方へ、部屋中の視線が注がれた。唯一、官吏の妻だけが、イワンではなく自分の夫の顔が紅潮し、ぶるぶる震えるのを見つめていた。イワンは悠々とグラスをあおって飲んだ。主人らしき官吏が顔を真っ赤にしてそれを睨みつけていたが、イワンの唇がグラスから離れたところで指をさした。
「だ、だ、誰の客だ⁉︎」
 イワンは手を一振りして言った。「何、誰の客でもありません、通りすがりの皇帝陛下の臣民ですよ!」
「捕まえろ!」と誰かが言った。友人二人がイワンの腕を両脇からつかんで引きずった。グラスが手から落ちたがその後どうなったのかも分からない。玄関で帽子をひっつかみ、通りへ出て、帽子を振り回しながらがむしゃらに走る。だが後ろを振り向くと誰も追いかけて来ておらず、三人は肩透かしを食らったような顔で歩を緩めた。一番ぜいはあ言っていた奴が一息入れ、帽子を被りなおすとイワンを睨みつける。
「まったく、君ってやつは!」
 ところが言葉に反して声には笑いがにじんでいた。イワンの方も澄まして言う。
「実際、君たちだってそう思ったろ!」
「それに客の連中もさ! 見たかい、あの気まずそうな顔!」
 三人はひとしきり大笑いした。そのうちに橋の上に出た。人通りはなく、川面は黒々として、淀んだ水の臭いがする。何となく気分がさめてその日はそのままお開きになった。
 あのシャンパンのせいだ、とイワンは思う。あのひどいシャンパン! それにあの後ひどく走ったから。イワンは青い顔でお茶を飲み、砂糖のかたまりを少しかじった。時々下宿のトイレに用足しに入っては、その臭気でまた吐き気がぶり返す。まったくうんざりするが一晩寝れば治るだろう、いずれにせよ明日には……。
 ふと何かに思い当たってぞっとした瞬間、扉がノックされた。誰何する暇もなく、扉の向こうから、
「僕だ! Dだよ!」
 という声が聞こえた。モスクワに着いた日に連れ立って、最後まで一緒にいたやつの一人だ。イワンは緩慢に立ち上がって鍵を開け、Dを招き入れる。
「いや、ちょっと立ち寄っただけなんだよ、何せびっくりしたもんでね。用事が済んだらすぐ帰るよ!」
 Dは部屋に入るなり椅子にも掛けずにせかせか話し出した。いつもならイワンが椅子を勧める前に勝手に自分で落ち着けどころを見つけて腰を下ろしているのだが。どうやらDはひどく興奮しているらしく、手に持った新聞を広げ、ベッドの元の位置に腰をおろしたイワンに向かって記事の一つを指した。
「これって君の家だろ?」
 故郷の村の名を目にしたとたん、背中を冷たいものが駆け上り、イワンは身震いした。アレクセイからの電報は、父の急死を伝えてとにかく早く帰ってこいと言うだけで、なぜ死んだのかは書かれていなかった。出立の前日までピンピンしていたし、事故か、急病か、あるいはと思っていたが……。イワンは無意識に口元を手で押さえる。
 イワンの様子に気づかず、Dは新聞を手に興奮気味に話し続ける。
「これは君の家だよな? スコトプリゴニエフスクのカラマーゾフ……おい、大変なことになってるじゃないか、君の親父は君の兄貴に殺されたらしいぜ! ……っと」
 Dは床に転がっていたトランクにガツンと爪先をぶつけ、はっと気づいたような顔になると、慌てて新聞を畳んだ。
「失敬。不謹慎だったな、遺族の前で……さっき買ったとこでさ、つい興奮しちまって、いや、帰るよ、来るべきじゃなかったかもな、君も驚かせてしまって、気を落とすなよ……」
 Dはふと口をつぐんだ。ベッドに腰掛けるイワンを見下ろす。それから首を傾げて、尋ねた。
「君、笑っているのか?」
「……え?」
「笑っているじゃないか」
 イワンはおそるおそる、口元を押さえた手の、親指の腹で自分の口角を探った。かすかに、しかし確かに、吊り上がっている。イワンはそっと横を見た。そこには通りに面した窓があり、今の時間帯は日が差さず薄暗く、ガラスにイワンの青白い顔がうっすらと反射している。ベッドに腰掛け、口元を押さえて、探るような目をした自身の視線が、指の間から漏れる微笑みにピタリと止まる。
「……はは、気にするなよ!」
 ポンとDが肩に手を置き、イワンはびくりと体を跳ねさせた。
「気にするなよ、イワン、分かるよ、父親なんてみんな殺したいもんじゃないか。そうだろ? 俺だってそうだ。俺の親父は最低の野郎だし、大きな失敗をやらかす前に俺たちに遺産を残して死んでほしいっていつも思ってる。血のつながりなんてそんなもんさ。恥じることはない。みんな多かれ少なかれそんなもんさ。聖書じゃ父親が息子を殺して生け贄に捧げようとするが、殺される方はたまったもんじゃない。自分じゃない人間の神への愛の証明のために殺されるなんて馬鹿げてるよな。それもこれも俺たちが親父どもの『血肉』だとあいつらが思っているからだ。それとよく似たことが現代の俺たちの身には起こってる。だろう? 俺たちを自分の血肉を分けた人形か何かだと思っている。自分がどうとでもできるのだと。だけど俺たちにだって感情はあるよな。血肉だってある、俺たちだけの血肉だ。最初の生と血肉を与えただけの存在に愛と尊敬を感じるべきだろうか? それに仕え、慈しむべきだろうか? これはもちろん反語だよ。そう青い顔をするな。笑えよ。何も恥じることはないんだ。そうだろう、イワン・カラマーゾフ」
「……は」
 イワンはDを見上げた。Dの方もイワンを見下ろした。青い瞳が微笑んだ。Dの後ろに蜘蛛が巣を張っているのが見える。巣の中で蜘蛛が八本足を交互に上げて踊るような仕草をしている。右の二本、左の二本、一本置き、ゆらゆら揺れる。イワンは口元を押さえたままそれらを凝視した。友人の言葉一つ一つに虫唾が走り、吐き気が込み上げる。まるで友人だと思っていた人間が急に皮を脱ぎ捨てて蜘蛛になったみたいだった。熱が出ているみたいに寒気がした。Dの手はますます重く、生暖かくなって、その絡みつくような熱をイワンは嫌悪した。この熱を叩き落としてやりたい。だが、そうする代わりにイワンは口元から手を離し、
「……は、は」
 笑った。

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