続・天岩戸
「四草へ お前は底抜けに出入り禁止じゃ! 草若」
今夜は関東炊きにしようと思い立って、大根やら餅巾着、はんぺん、練り物などを買い込んで勇んで家に戻ったら、朝には開いていたはずの天岩戸がすっかり閉じてしまっていた。
「……なんちゅう頭の悪い張り紙や。」
思わず出た声に、「お父ちゃん、今度は何をして草若ちゃん怒らせたん?」と隣の部屋から子どもが顔を出した
「草若兄さん、この中におるんか?」と指を指すと、子どもはこっくりと頷く。
「さっきまではうちにいたんやけど、お父ちゃんもう帰って来るかも、って言ったら何か慌てて隣に戻っていったんよ。」
「夜は? 今晩も、稽古以外に予定ないって言ってたか?」
普段、互いの仕事がない日は夕方はぎりぎりまで子どもの勉強を見てその代わりに夕飯を食べていくことになっている。
僕は日暮亭にある旧草若邸の蔵書を借りて、近所の図書館で次の高座のための勉強をしてから帰ることにしているのでほとんどベビーシッター代のようなものである。
男心と秋の空というが、今は春先である。
子どもが良く眠り、朝目を覚ますまではぐっすり寝入っているので昨日は久しぶりに隣に行ってふたりだけの時間を過ごし、多少の仮眠を取って部屋に戻ったが、身体を重ねた後は兄弟子も満足はした様子であったことだし、特段に何かやらかしたという記憶もない。
子どもは腕組みをして何やら考え込んだ後、「そういえば、メシは外で食べてくるって言ってたで。」と言った。
「そうか。」
あの人の、世を拗ねた時の態度――まあ今回は僕が何かしたのだろうとは思うが――は、僕が入門したての頃とほとんど変わっていない。一度臍を曲げたら長引くに決まっているので、舌打ちをしたいような気持だった。
「お父ちゃん、今日はご飯何にする予定だったん? それ作るの、明日にして僕らも寝床行く?」と言ってスーパーの袋の中身を指した。
「関東炊き、分かるか?」
「あ、寝床で食べたことある! お出汁の中にゆらゆらしてる大根と卵とこんにゃく!」
おでんやで、と言って喜ぶ子どもなら簡単だった。
気が付けば、子どもは草若ちゃん、草若ちゃん、とすっかり兄弟子に懐いてしまっている。
何を食うにもあの人と一緒であれば美味い、そうでなければまあ普通やな、という顔をする。まあ自分の舌に合った味が分かって来たということでもあるのだろうが、このところは、お父ちゃん塩の入れすぎやで、と一丁前に味の批判などをするようになった。
あの人の普段からの可愛がりようを見れば、なるべくしてこの仕上がりになったということではあるが、紛れもない僕の子であるという血も感じてしまう。
「僕、菊江おばちゃんに草若ちゃんの昔の話聞きたい!」
(そんで、帰って来たら、今日は僕が草若ちゃんの部屋にお泊りするんや。)とこっそり耳打ちされた。
こういう時、素直にあの人に会いたいと口にできる子どもが羨ましい。
とはいえ、避けられている理由に見当がつかない分からない今、下手に動くことは出来なかった。
お前の子どもと一緒におるの、なんや分からんけど楽しいわ、と本人も嫌がってる風ではないらしいので連日のように甘えていたが、まさか甘え過ぎていたのだろうか。
目下のところ、目の前の扉が開かない理由の九十九パーセントが僕らの個人的な関係に由来しているとしても、(滅多にないことではあるが)普段の育児疲れの可能性も、まあ一ミリくらいは残っているのだ。
「草若兄さんが僕らと顔合わせたないって言ってるのに、同じ店に行ってもしゃあないやろ。」と言って聞き分けのいい子どもの頭の上に手を置いた。
「それもそうやな。」とうちの殊勝な子どもは素直に頷いた。
さて、今から何分持つか。
そう思った次の瞬間、「シャイシャイシャイシャイ! おい四草、お前は何子どもに罪悪感持たせるような話し方しとんじゃ!」間髪を入れずに見慣れた顔を出して来た。
三代目・草若一門には立ち聞きが好きだという悪趣味が通底している。
不自然なほどに物音がしないと思っていたら、やはり、中から外の様子を伺っていたらしい。
すかさず、天岩戸の隙間に靴先を差し込む。
久しぶりに買った靴がドアに挟まれて擦れてしまうが、今はそこを気にしてはいられない。
「四草。お前何しとんじゃ。」
「こんばんは、草若兄さん。」
「……足どけろ。」
「今夜は関東炊きです。それに、『草若ちゃん』と一緒に飯食えるて知ったら、こいつも、すぐに機嫌良くなると思いますよ。」と言うと、男は瞬きをした。
「餅巾着あるか?」
「あります。」
「大根と卵。」
「卵は冷蔵庫にいくつか。茹でた卵の殻剥くの、手伝ってください。」
「草若ちゃん、僕も手伝うからがんばろ!」と子どもが助け舟を出した。
「……しゃあないなあ。」と男は観念したように頭を掻いた。
かつての僕は、おかみさんの、今夜は創作おでんよ、という言葉が楽しみでもあり怖くもあった。おかみさんの作る関東炊きは、大抵が冷蔵庫の残り物のオンパレードで、次からはこの料理、関東炊きと名乗るのを止めたらなあかんで、という師匠のからかいを根に持って、気が付いたら「創作おでん」と呼ぶようになったのだ。
出汁の中に浮かぶトマトの、サラダに入れられ損ねた哀れな姿を見た時には、元気だった頃の草若師匠とふたりで顔を合わせたものだ。
「今日は美味い関東炊きにしましょう。」と言うと「大根はどうせ、冬程美味ないで。」と彼はいつもの憎まれ口を利いてから「まあ、可愛いおちびのために、この草若ちゃんが、底抜けに手伝ったるわ。」と言って小さく笑った。
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