趣味


「こんにちは、和久井です。」と言って、譲介は玄関の引き戸を横に開いた。
駒形地区にある坂本さんのお宅はご夫婦の二人暮らしだが、昼を過ぎたこの時間は、奥さんひとりきりになる。
普段なら譲介がチャイムを押す必要もないのだが、今日はどうも違うようだ。
台所で居眠りか、あるいは手の離せない煮炊きでもしているのだろうか。
確かに、今日は問診もさっと終わり、いつもに比べたら巻きの状態で早く回れてはいると思っていたが。坂本さんの問診はいつも三時四十五分と言ったところで、今は、……まだ三時にもなっていない。
「少し早く来すぎたのか?」
いつもは玄関のチャイムを押す必要もないのに、と思いながら、譲介は一旦扉の外に戻って、もう一度チャイムを押してみる。
「いらっしゃいますか?」
パタパタというスリッパの音がして「あら、譲介君いらっしゃい。そうよね、今日だったわね。」と言いながら、坂本さんの奥さんが髪を撫でつけながらやってきた。
(よそ行きのワンピース……なぜ?)
この村では、妙齢の女性とふたりという状況にも色事の心配がないと、ずっと思っていた。
これまで、二か月に一度は化粧もしない素顔で往診に当たったこともあった。麻上さんからも太鼓判を押されたくらいなので、坂本さんとはそうしたシチュエーションになりようがないだろうと思っていたのに。
散らかってるけどどうぞ、というのもいつもの坂本さんらしからぬ言葉だった。
「お邪魔します。」
緊張しながら玄関からほど近い居間に通されると、譲介はその様子に目を瞠った。
積み上げられたDVDディスクと大きなテーブルに広げられた雑誌、数冊。
雑誌は写真付きで、きらびやかな舞台セットの中に立つ美形の写真が譲介の立ち位置からも良く見えた。確かに、いつもぴしりと片付けをしていらぬものを出していない普段の坂本家の居間の様子から見れば、この状態は、一見して『散らかっている』ように見えなくもない。
「恥ずかしいわ、もう。今片付けるから、そこの座布団のところで待ってて頂戴ね。」と早口で言われて、譲介はことの次第が分からないながらも棒立ちになっていた自分を叱咤して、診療鞄を下ろして座布団に腰を落ち着ける。
「今日ね、丁度三時から私の贔屓の子が出るレビューがあって。」
贔屓。
「あ、レビューって言っても譲介君には分からないわよね、舞台の種類でそういうのがあるの。」
レビュー。
「歌劇団の舞台、本当にとっても楽しいのよ。録画はしてるんだけど、終わった後で遠方のお友達とビデオチャットでおしゃべり出来るから、放送時間に見ておきたくて。」
そうですか、録画。
言葉がいちいちオウム返しになってしまう。
それにしても、と譲介は思う。坂本さんの奥さんが頬を染めている様子は、この家の大黒柱である旦那さんの横にいるときにも見たことがない。
「しゃべりすぎちゃった。服も着替えて来た方がいいわよね。」と言われて、譲介はお願いします、と頷いた。
ブラウスとスカート、あるいはTシャツとジーンズでも、女性の服――まあツナギは別だけれど――セパレートになっていなければ診察は難しい。
「待っていますので、ごゆっくり。」と言うと、譲介は付いているテレビを眺めた。
ケーブルテレビに時代劇専門チャンネルやアニメチャンネルなどがあって、ここT村でも御家庭で契約している人がいることは、譲介も知ってはいた。
テレビ画面に桜ヶ丘歌劇団のブルーレイディスクのCMが映っている辺り、坂本さんのお宅も、きっと同じように契約しているのだろう。テーブルの雑誌の中をちらりと見ただけでも、人を魅了する雰囲気のある舞台の世界が広がっているのが分かった。



「……それで、一時間半か。」
「薬を持って行く用事も明日にずれ込んだからこのまま診療所へ直帰の予定だったので。少しくらいならいいかと。」と言いながら、譲介は診療鞄を足元に置いて、K先生の横にある椅子にへたり込むように座った。
診療所に戻ったのが六時半。
明日の準備をしようと脳が指令を出しているというのに、譲介の身体は直ぐには立ち上がれない。
麻上さんが、お疲れ様、と言ってほうじ茶を入れた湯呑を持ってきてくれた。
普段なら、いつもこの時間は師であるK先生の横で立ったまま今日の往診で気づいたことと、患者のこれまでの既往症とのすり合わせを行うところだけれど、譲介の頭は、今日詰め込んだ桜ヶ丘歌劇団の知識でパンパンになっている。
舞台の種類から、歌劇団の団員養成学校のこと、ご贔屓という、所謂「推して」いるスターについての来歴と主だった舞台の名前に役名。今日の坂本の奥さんの話は、雑談と言うよりも譲介にとっては一種のプレゼンテーションだった。
あら、もうこんな時間、と坂本の奥さんに言われた時には既に日が暮れかけていて、譲介は結局電話を借りて今日は少し戻りが遅くなりますと診療所に連絡することになった。
夕焼けの茜色が差す居間で、診療鞄の他に持たされた数枚のディスク。雑誌は丁重にお断りした。
「麻上くん、坂本さんのことは言ってなかったのか?」
「半年前の坂本さんから、私はK先生にはいいけど、譲介君にはちょっとまだ照れくさいって口止めされてたので。」
「なるほど。」とK先生は頷いた。知ってたんですか、と思って譲介は更に脱力する。
「こういう時は、どうやって切り上げればいいんでしょうか。」
譲介は、K先生にも見えるよう、借りて来たDVDディスクをトランプのように広げてみせた。
バスチーユの薔薇と言った昔の名作漫画が原案になった話から、相方、と言った譲介も名前を知っている民放ドラマが原作の警察物まで。幅広い作品のディスクを、見る時間がないですと断ったものをこの五枚だけ、と押し付けられてしまったのだ。
次の診療まで五週間あるから、坂本の奥さんにしてみれば、一週間に一枚づつの計算だろう。
「……相手の気が済むまで付き合うことだな。」
そっスか……。
「まあ、冬や夏みたいな厳しい季節じゃないし、譲介君もたまには力を抜いて息抜きしたら……ってあんまり抜けてなさそうね。」
「麻上さん、あの、一緒に見ませんか?」
五枚のうちの一枚でも一緒に見てくれたら肩の荷が少しは降りるだろうと譲介が思っていたところ、麻上さんは譲介の手にしていたディスクのうちの一枚を取り上げて「先生、しばらくは食事時に流してみんなで見るのはどうでしょうか。夜はシャドー練習があるでしょうし。このところ、夜のスポーツ中継も減ってますから、これもいい機会じゃないですか。」と先生に向けて笑っている。
それが助け船か、譲介が乗っている泥船に乗って一緒に沼に沈みましょう、というお誘いかは譲介には分からない。
「うむ。」と頷く先生は、滅多に観ない虚無の顔になっている。
「じゃ、話が決まったところで、とりあえず今日のイシさんのカレーを食べましょうか。」
麻上さんがこの話題を一旦切り上げようとしているのが分かったので、譲介はそれに乗ることにした。
「今日のカレー、なんスか?」
「筍の入ったグリーンカレーですって。味見させてもらったけど、結構辛いわよぉ。」
辛いカレーなら、むしろ歓迎だ。譲介は、ディスクを持って診療所のテレビの横に置いた。
ご飯大盛で行きます、と譲介が言うと、そうだな食事にするか、と先生も笑っている。

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