験担ぎ


チケット良し、スマートフォン良し、財布良し、パスポート良し。
荷物を詰めたキャリーカートはちゃんと鍵を掛けてある。
ウォークインクローゼットの中からいつもの靴を持って出て行こうとして、譲介はクローゼットの中の靴のある一角の並びを探した。
……ない。
そこに並んでいるのは、譲介とTETSU、ふたりの靴だ。
フォーマルに使うプレーントウの黒。似合うと言ってくれたダークブラウンのウイングチップ。マーケットに行く時のいつものナイキと青のニューバランス。その横には彼の黒ブーツのスペアが二足。
その中に、学会に履いて行くためのいつものブラウンのオックスフォードだけがない。
譲介は、にっこり笑いながら、今日はベッド上で譲介の見送りを済ませてしまおうとしているらしいずぼらで可愛いパートナーを振り返った。
この家にいたずらな小人がいないのだとしたら、犯人は一人しかいない。
「徹郎さん、僕の靴、知りませんか?」と言うと、TETSUは眉を上げた。
ここに入れておいた茶色の革靴です、と譲介が重ねて言うと、彼は眉を上げて「……あー、アレか。」と言って頭を掻いた。
「修理に出しといた。」
なるほど。
「修理ですか……修理?」
じゃあ今はどこにあるんです、と譲介が血相を変えて問い詰めるとTETSUは「黒いのかウイングチップのがあんだろ、そっちを履いてけ。靴底だ、戻って来るまでに二週間は掛かるとさ。」と妙に呑気な返事をした。
「学会はあれでないと、」と反射的に言って、譲介ははっと口を噤んだ。
なるべく『こういうの』はこの人の前では出さないでおこうと思っていたのに。
「何だァ……拘りでもあんのか?」
「すいません、」と断りを入れてから、「あのブラウンの靴は、僕が最初に学会で発表した時から使っているもので。いわゆる験担ぎというか。」と釈明した、というかしてしまった。
この人は、そんな迷信なんかを気にしてる暇があったら、身一つの実力で飛び込んで行けという人だ。
ちら、とTETSUを見ると、やはり、というか。
「なるほどなァ、道理で。踵がすり減ってたわけだ。」そう言って、譲介の困り顔を眺めてニヤニヤと笑っている。
寝転んでいたベッドからゆっくりと身体を起こした彼は、全裸の腰に緩くシーツを巻きつけたままこちらに近寄って来て、こつんと譲介の頭に拳骨を落とした。
「靴は上っ面を磨くだけじゃなく、底んとこもちゃんと見とけ。スーツをクリーニングに出す前にな。かなり利き足が擦り減ってたぞ。別のまともな靴を履いて、とっとと出てけ。」
譲介の暴力的なヴィーナスは、至極真っ当な論調で三十一歳年下の男を教え諭した。
言い返すことも出来ずに、譲介は、小さな子どもの顔で彼を睨む。
何も、出てけなんて言葉を使わなくてもいいじゃないですか。そんな風に本音を言えば、甘えンな、とこれより痛い拳骨が飛んでくることは想像に難くない。
確かに、彼は譲介のために靴を修理に出してくれていたのだ。それこそ、絵本の中の親切な小人のように。譲介は、腹の底で吐いたため息を飲み込む。
「じゃあ、今日は黒とウイングチップどっちがいいと思いますか?」
譲介はクローゼットの中に戻り、普段遣いはしないよそ行きの革靴を二足持ってきて、まるでシンデレラにガラスの靴を差し出す王子の従者のような手つきで並べ、TETSUの足元に差し出した。
「好きに決めろ。空港行きのリムジンバスに乗り遅れちまうぞ。」
「でも僕は、あなたに決めて欲しい。」
その方がきっと、発表をつつがなく終えられると思うから。
「黒にしとけ。こういう時にゃ、無難がいい。」と彼は靴を取り上げて、譲介の足元に置いた。
無難、か。
パーティーでもない、ただの学会だ。まあ、ただの、というよりはクエイド大学の関係者が若干多いことはあるにはあるけれど。壇上で話をする誰もかもが革靴と言う訳でもない。スニーカーでも、本当は構わないのだ。
しゃがんだまま、顔を上げて、じゃあこれにしますね、と言おうとしたとき。
「……どうせ省吾のサポート役も兼ねてんだろ。」と彼は言った。
小さく零したTETSUのその言葉の中には、彼が拗ねた気配がどこかにじんでいるような気がして。譲介は、明後日までこの人の顔を見られないという寂しさが、すっかり吹き飛んでしまった。
自分には、そう、学会の発表の出来を気にするよりも、もっとずっと大事なことがあるのだと、ふと思い出した。
「完璧な発表をします。それを終わらせたら、僕は真っ直ぐに、あなたのところに帰って来ますよ。」
靴も履かずにぎゅう、とハグをすると、驚いて腕を振り上げたTETSUの腰から、巻き付けただけのシーツがするすると床に落ちていく。
スーツの上下を着た譲介の腕の中に、昨夜一晩で散々噛み跡を付けた彼の身体が――すっぽり、とまではいかないが――いい感じに収まっている。
「おめぇなァ……これから出掛けるってのに、その脂下がったツラは何だ。」
TETSUは譲介を見下ろして、腹を立てているような厳しい顔をこちらに向けた。
表面通りの顔を取り繕ってはいるけれど、耳が少し赤くなっている。
「あなたが言うように、とっとと行って、とっとと戻ってきます。」
戻って来たら、またセックスしましょう。
譲介は、照れた年上の人の、赤くなった耳元に囁く。
「譲介ェ……。」
そこまで言ってねぇ、と凄まれたところで、こんな嬉しい出来事は早々忘れられるはずがない。
「見送りついでに、交通安全のおまじないもお願いします。」と笑って、譲介は彼にそっとキスをした。


powered by 小説執筆ツール「notes」

793 回読まれています