2023/11/14 09.バニラ
「心配です」
ぽつりと、小さな声が清潔に整えられた厨房に落ちた。視線を向ければまだ若い料理人の青年だった。最近ようやく皿洗いだけではなく野菜剥きも任せられるようになったばかりだった。
青年は自分のつぶやきが思いのほか大きくなり、視線を集めたことに狼狽しながらも先を続けた。
「その、若君、あんまり食べてないじゃないですか」
その言葉に思わず他の料理人たちも唸るように視線を天井やらよそへとむける。彼らが仕えているツェアフェルト伯爵家の若君ことヴェルナーはそれはもう忙しい。最近学園が休学になったそうなのだが、それで楽になったとはとても言えない。
もともとヴェルナーは座学に槍術の自主訓練にと、前からオーバーワーク気味だった。それ自体も心配されていたのに、こころのところはさらに冒険者ギルドや傭兵ギルド、商人などとの打ち合わせなどで明らかに仕事量が増えている。
それに伴い食事もゆっくり取れていないことが、料理人たちには心配の種になっていた。本人も下手に食事を抜くと動けなくなることは理解しているようで――あるいは以前やらかしているので二の舞にならないようにと自戒しているのかもしれないが――最低限は食べているのだが、本来の彼は食べ盛りの成長期である。この辺りはヴェルナーのかつての意識と、今の肉体の必要量に乖離があるのは否めない。
働き盛りだったとはいえ、通信、交通網が発達した世界のホワイトカラーだったかつてと、あちこち駆けずり回っている成長期の今では当然必要量が後者の方が多いのは当然だろう。
今のところ夜食にとパウンドケーキを差し入れてはいるが、毎晩それと言うのも心配だ。この時代、まだ栄養学といった概念は存在しないが、それでも経験として菓子ばかり食べていると体調面に支障があるのはわかっている。
他に何か、と考えるのは料理人ならば当然だろう。
「その、ケーキに肉とか野菜とかって入れられないですかね」
「ケーキに?!」
若い料理人の言葉に、ベテラン勢がぎょっとしたように目を見開いた。何言ってるんだお前、と言う視線に若い料理人が委縮したように肩を落とすのを「いや」ととどめたのは屋敷の製菓担当の料理人のリーダーだ。
「いいかもしれん。砂糖をなくして甘くないものなら……」
組み合わせや分量はこれから考えなければいけないし、場合によっては作り方から変えなければいけないだろう。しかし、ただでさえ細いヴェルナーは最近はさらに――特に顎のあたりが随分と細くなっているような気がするのを、彼らも感じていた。
「料理長」
「うむ、やってみる価値はあるな」
材料や素材に関しての権限を持っている料理長に声をかける、腕を組んで顎を撫でた料理長と呼ばれた男は一つ頷いた。
この日より、ツェアフェルトの料理人たちの挑戦が始まったのである。気合を入れる一同の姿に、この場にヴェルナーがいたら脳裏に地上の星が流れていたかもしれない。
「ん、なんだこれ、甘くない?」
「新作だそうです。サラミと、キノコだとか」
「ほー」
その日も机の上に山盛りのせられた書類を捌いていたヴェルナーは、小休止だと使用人たちが用意した夜食に顔を上げると、ひとまずペンから手を離した。
両腕を上に組んで大きく伸びをすると、ゴキッと嫌な音がしてため息が出る。フィノイから戻ってから、全く持って勝利の山が減ったような気がしない。
そして出されたそれを口にしたヴェルナーは甘くない、どちらかと言えばしょっぱいそれに目を見開いた。そんなヴェルナーの問いに、リリーがニコリとほほ笑んで答えた。
――あれか、ケークサ、なんとかっていう甘くないやつか。
なんかシャレオツなランチとかでテレビで見た記憶があるよーな、ないような。などと思いながらヴェルナーは一つをぺろりと食べ終えた。
頭脳労働には甘いものがいいとはいえ、どちらかと言えば甘い菓子よりもしょっぱいものが好きな方だ。
「うん、うまい。甘いのも引き立っていいな」
もう一つの方はいつものパウンドケーキで、ヴェルナーは珍しく目を細めるよう笑みをこぼした。そんな彼の姿に、リリーは嬉しそうに微笑む。心配そうにしていた料理人たちに、いい報告が出来そうだ。
「どうぞ」
「あぁ」
食べ終わったタイミングで差し出すのは少しバニラの香り強い茶葉だ。甘いバニラの香りはリラックス効果があるということで、今日のお茶に選んだのである。カップを手にした後、ふっと唇を緩めるヴェルナーの横顔を見ながらリリーは嬉しそうに微笑んだ。
これよりヴェルナーだけではなくインゴへの夜食にも『しょっぱいケーキ』が追加されることになるのである。そしてそれが魔王討伐後にマゼルやラウラから王宮に伝えられることとなり、製菓の歴史に一石を投じることになるのだが、今はまだ誰も知らない未来の話だ。
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頑張ってる若様のために、知恵を絞る皆さん
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