大学生と社会人その8



ふたりで一緒にどこへでも行った。
雨が降っても雪が降っても。観光地へも、サウナへも、普通に勤めていては泊まれないような高級なホテルへも。それまではデートと名の付くような用事ではなかったから意識をしなかっただけで。
けれど、ギターマンドリン部の発表会が終わったので打ち上げを兼ねてデートしよう、といわれても、どこへ行けばいいのか分からない。
「で、またうちに来てラーメンを食うだけなのか?」
さっきまでは、カルグクスを先に食べるぞと言ってたような気がするけれど、聞き違いだろうかとジュノは思う。ホヨルの部屋のキッチン部分の照明は明るく、使われない調理器具が輝いている。
「前回はジャージャー麵でした。」というと、ホヨルは「あれは発表会の練習が立て込んでくる前のことだろ。」と眉を上げた。
「お前最近忘れっぽいぞ、アンジュノ。で、尊敬する先輩をインスタ映えする店に連れて行くお前のパーフェクトデート計画はどうなったんだ?」
「!?」
目の前の人はにやにやと笑っている。都会の洒落た店の情報を教えるようにと口を滑らせたせいで、妹からこの人へと情報が漏れたらしい。
「そんな計画はないです。」と下手な嘘でごまかしながら内心で舌打ちすると「ないのか、金が?」と楽しそうな顔をした人生の先輩から、素早いツッコミが入る。こちらの給料日前には一緒にインスタント食品を買い出しに行くような仲になってそこそこの時間が経つというのに、そんなことを今更、言う必要があるのだろうか。
「そもそも、そんな金があったところで、店に着て行く服がないです。」これは、ごまかしではなく本音だった。仕事に行くための服を買いそろえるだけでも思ったより金が飛んでいくという事実は、軍の中にいると忘れてしまう。
「アン・ジュノ、自堕落学生の俺はともかく、今のお前はスーツでなんとかなるだろ。俺に貸せとは言わないけど、いくらなんでも一着くらいはあるはずだ。」
「ないです。そもそも、スーツで行くような場所がいいんですか、」
先輩はどうしたいと思ってるんですか、と言いかけたところで、話の接ぎ穂がなくなって、薬缶がしゅんしゅんと音を立てる。
どうでもいいけど、カルグクスよりよりラーメンの気分になってきたな、とホヨルは呟いた。
とにかく飯の準備をするぞ、と言われていつもの乾物を入れる戸棚を開いてみると、確かに今日はカルグクスしか入ってない。ジュノが来るときにふたりで食べるのは大抵ラーメンで、ずっと食べないでいるカルグクスが残っていくというのが正しいのだろうか。
そもそも嫌いなものをストックしたりはしないと思うけれど、カルグクスとラーメンのどちらが好きなのかをホヨルに聞いたことはこれまでになかった。
「そういえば、スーツな、俺だって一着は持ってるぞ。」
お前も見たことがあるだろ、と言われて、何のことを言われているのか分からずにホヨルの顔を見つめると、二秒ほどしてなんだか膨れ面になってしまった。この間会った時に、ごちゃついたクローゼットの中から無理やり引っ張り出して来た高校時代のチョッキを着て貰って、身につけたままでセックスをした。あのちょっと覗いたクローゼットの中に、ホヨルの言うスーツがあったのだろうか。煽情的な姿以外は、ほとんど記憶にない。あれは、そう、悪くはなかったと思う。少なくとも、ハン・ホヨルの恋人――この人にとってもそうであって欲しい――アン・ジュノにとっては。
「先輩、仕事の面接用のスーツは、窮屈で嫌だと言ってなかったですか?」
「まあ、ヨーグルトの匂いが付いてるジャンパーよりはずっといいだろ。大体、飯を食いに行くための服を買いに行くなんて馬鹿みたいだけど、世間では皆、そうしているらしい。」
そんなものですか、と尋ねると、そんなものだ、とホヨルは笑った。
大学生になっても、ホヨルは目立つ色の服を好んで着ていた。軍隊の中で誰かが残して行った、選択肢のほとんどない中から選んだだけと思っていたけれど、どの服も誂えたように似合っていたので、意外には思わなかった。(そしてそのせいで、この人のことがどこにいても見つけられるところも、少し気に入っている。)とはいえ、ホヨルが服を買いに行くような店についていくと、楽しくないわけではないだろうけれど、気おくれはしそうだった。
「アンジュノ、クリスマスでもバレンタインでもないのに。ただのデートを堅苦しく考えるな。仕事じゃないんだから。」と言いながら、ホヨルは薬缶で沸かした湯を鍋に開けて、乾麺とかやく、赤い色がついた出汁の粉を入れている。経験豊富なようなことを言うけれど、この人はこちらが思ってるより人付き合いの面での経験値が高いわけではないことは、短い付き合いでもそれなりに見当がついている。だからこそ、デート、という気持ちで出かける行き先を選ぶのは難しかった。
「仕事の方がずっと、肩の力を抜いて考えられる気がします。」
「馬鹿だな、アンジュノ。」とホヨルは笑う。
俺は。
落胆しないことが大事だという人を落胆させたくない。
堅苦しく考え過ぎだと言われるだろうから、口には出さないでいると、デートは普通逆なんだよ、と年上の人は言った。
「気軽に考えて、そうした方が楽しいと思う方を選べばいいんだ。俺たちは、もうずっと外にいるんだから。俺だって、たまには自分の下手なマンドリンより本職のギターとか聞きたくなるもんな。」と脈絡のないことを言って、さっきまで菜箸で麺をかき回していたホヨルは、床に置いた地味な書類鞄を取り上げて中をごそごそと手探りし、小さなCDケースを出してきた。
中身は、今度こそCDだろう。この間テレビの横の目立つ場所に置いてあったのは、外側だけがクラシックで、中身は大学の同級生から借りて来たらしいエロ動画集だったが(DVDの表面に手書きでそう書いてあった。)今日はきっとまともなCDが入っている、はずだ。
とりあえず「それ、何ですか?」と聞いてみる。
「イタリアの、何とかいう作曲家の曲が入ったCDだ。金がないから借りて来た。」
「マンドリン部の人から?」
「人っていうか……まあこの中に入ってるのが次に弾く曲だから。」
この人がCDを借りたという人は同じ大学生で、部活が一緒で、と押し黙ってぐるぐると考えていると、おい、アンジュノ、と名前を呼ばれる。顔を上げると、額にデコピンされてしまった。
「痛いです。」
「痛くしたんだから当たり前だ。」
こちらをからかう時のにやついた顔でも、何を考えてるのか分からない顔、でもない。
「アン・ジュノ、こういうのは指揮者とかオーケストラとかが違う、同じ曲で別の盤ていうのがうじゃうじゃある。トランプのカードか麻雀牌みたいにな。」
うじゃうじゃ。
「そう、うじゃうじゃ。」とホヨルが訳知り顔に頷く。
どうやら、心の中で思っていただけのつもりだが、口に出ていたらしい。
「有名どころでバッハとかモーツァルト。レコードと合わせたら世界で一万枚以上出てんじゃないのか。定番の曲になると、景気のいい時代に歴代OBと指揮者の先生が残して行ったのがあと十枚ほどあって、部活には、管弦楽部と共通で使っている物置にストック置き場もある。これは数年前の先輩が置いていったのを棚から拝借して来たやつで、一週間したら元に返す。練習しながら、お前と一緒に聴こうと思ったけど、今夜はやめとくか?」
寝る前に、この人がマンドリンを、箱の中から取り出すことが出来たら、大体九分通りはセックスの了承を得たと言ってもいい。
こうなると至って現金なもので、う、と言葉を詰まらせると、先輩はにやっと笑って「お前もたまには、まともな文化に触れたらいいよ。」と言った。俺の妙な音ばかり聞いてないで、と腕を卑下するような言葉は、聞かなかったことにした。
ヘッドホンは付けないからと言って、音量をつまみで下げているうちに、ステレオから分かりやすい練習の音が流れて来る。ライブ録音だからこういうのが入ってるんだよ、というホヨルの解説を聴いていると、ギターの音が流れてくるより先に眠くなってきた。
キッチンの椅子でうつらうつらしているうちに、ほら、待たせたな、と言って、どこかの中華料理店で見たことがあるようなラーメンの器がふたつ、前に置かれる。
こんなものをいつ買ったのか。
買ったとしたら俺のためかもしれない、世界にふたつとないラーメンの器。こういうものを買うのに付き合えというなら、どこにでも付いていくのに。
「ホヨル先輩、」
「うん?」
「俺と予測不能なことをするのは楽しいと思いますか?」
「まあ、大体は。」
「落胆もしない?」
「そうだな。」
目の前の器に入ったラーメンの汁は赤くて、かやくで入っているワカメはやたらと少なく見える。
次はやっぱり、外に食べに行きましょう、と言うと、天邪鬼な年上の恋人は、デートの誘いはこれからラーメン食うような時にするもんじゃないぞ、と言って、目の前の箸立てから銀色の箸を取り出した。


Mimuetto,op.11-5/ Boccherini

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