お米マイスターになりたい話。
「お米マイスターになりたい」とローが言ったとき、ゾロは(あ、こいつ酔っ払ってやがるな)と即座に思った。酔っ払いの戯言は聞かないようにしているが、基本的に酔っ払っても意味不明な戯言を言わないタイプのローが聞き慣れない単語を口にしているのが面白くて、ほぉ、と相槌を打ってやった。するとローは、平素と変わらぬ顔のまま、ワイングラスをふらふらさせながら「お米マイスター、いいよなぁ」と陶然と繰り返した。
だからそのおこめまいすたーっていうのはなんなんだと思ったが、なりてぇなぁ、と繰り返すローの物言いに、どこか哀憐みを感じたので棘のある声を出さずに柔らかく聞いた。
「それはなんなんだ?」
「知らねぇのか、ゾロ屋…あんなに米が好きなのに…」
「いや。お前ほどじゃねぇけど」
ローは米が好きだ。ここで言う「好き」とはパンよりも米の方が好み、などというレベルの話ではない。ローの「好き」は、米を「美味い米」として食すことに並々ならぬこだわりを持って生きている、というレベルで「好きだ」という意味である。
具体的にどういうことかというと、まずローの部屋に炊飯器はなく、代わりにあるのは米専用の土鍋だった。ローはそれを使って、丁寧に丁寧に米を炊く。スイッチ一つでどうにかならないものはさぞ面倒だろうと思うのだが、全く面倒ではないらしい。ゾロからしたら俄かには信じがたいが、ローが文句を言っているのを聞いたことがないので本当なのだろうと思う。ローは実験をするような正確さで米を炊き、つやつやに炊き上がったそれを食卓に並べる。食って消えるものにこだわるというのは、案外理にかなっている。金をかけて集めた末に興味が失せてゴミになるということがない。
そして米というやつは、終わりがない。こだわりに終着点がないというのは、こだわるやつの興味を惹き続けるらしい。何しろ、ローの賢い頭の中には全国にあるブランド米のほとんどが入っている。そしてそのブランド米は不定期に増えるらしい。恐ろしいことにローは、各種ブランド米が何と何を掛け合わせて生まれたもので、どう食すのが最も美味しい米であるか、ということまでをほぼ把握している。ゾロはローと暮らすようになって、米には銘柄だけでなく名前がついており、それぞれの品種によって味・香り・食感に違いがあるのだということを初めて知った。おにぎりを美味く食べるためだけに開発された米があるだなんて、ローと暮らさなければ一生知らずに生きていただろう。
で、なんだっけ。
「お米マイスターは、米の専門家だ」
「だろうな。予想できたよ」
「全国に三千人くらいしかいねぇんだ。多いか少ないかで言うと心臓血管外科医とほぼ同じだ」
「…そこ並べられてもピンとこねぇけど。なりてぇならなればいいじゃねぇか。なれよ」
「なれねぇ」
「なんで。試験は得意だろうが」
肘をついたまま平坦に返した。何気ない一言だったはずだが、なぜかローは空中に彷徨わせていた視線をぴたりと止めたかと思うと、そのままゆっくりとゾロを見た。かちりと視線が交わる。自宅のダイニングなのでどれだけ見つめ合っていてもいいのだが、酒でとろんとしてきている目で見つめられるのは居心地が悪い。なんだよ、と促すと、ローがふっと口元を緩めて言った。
「ゾロ屋がおれを褒めたのが嬉しかった」
「おれがいつお前を褒めた?」
「試験は得意だって言っただろう、今」
「褒めたんじゃなくて事実だろ」
ゾロが返すと、ローは同じだ、と短く言ってから残っていたワインを飲み干した。タートルネックから喉仏がちらりと見える。ゾロは皿に入っているドライフルーツを摘んで口に入れた。天井に取り付けたスピーカーから知らない国の音楽が流れている。ローとは音楽の趣味が全く違うので、ローに選曲を任せると何語かもわからない言葉で歌う曲がリビングに流れることになる。趣味が違うというだけで合わないわけではないのが不幸中の幸いだった。今夜はどこの何というアーティストだったか。飲み始める前のローが何か説明していたはずだが、全く覚えていない。
で、なんでなれないんだっけ。酔っ払いに引っ張られると思考がとっ散らかっていけない。
「米穀店に勤めなきゃならねぇからだ」
「どれぐらい?」
「五年」
「なげぇな」
「バイトするという手もあるな」
「無理だろ。絶対。M&Aで米屋を買うって言い出した方が百倍リアルだぜ。止めるけど」
「米に詳しくなれるぞ」
「今でも十分詳しいだろうが」
「ゾロ屋はおれがマイスターになれなくてもいいのか」
「おれは構わねえけどな…」
呟くように言うと、先ほどよりも瞼の重そうなローがゾロへとゆっくりと視線を移した。眠そうだな、と思っていると、ローが突然音がしそうなほどにこーっと笑った。さすがにぎょっとして顎を引く。
「ゾロやはおれならなんでもいいのか」
「酔っ払いやがって! なんなんだ、今日に限って!」
「きかせろよ」
「……お前、それ明日覚えてなかったら簀巻きにして横浜港に沈めるぞ」
「ぜったいおぼえてる。おれのきおくりょくはばつぐ」
「お前ならなんでもいいよ、トラファルガー・ロー」
「ハハハ。さいこうだ」
満面の笑みでローは言ったかと思うと、そのままゆっくりとテーブルの上に崩れていった。数秒丸い後頭部を眺める。やがて規則正しいすぅ、すぅ、という寝息が聞こえてきた。ゾロは呆れた顔のまましばらくそれを見つめてから、ローが飲んでいたワインのボトルを開けた。そのまま口をつける。年の若いシャルドネが喉を通っていく。
ゾロは静かに目を閉じた。寝息と知らない国の音楽は、存外ゾロの耳に心地が良かった。たまにはこんな休日があったっていいなと思った。
(翌日、このやりとりをローが覚えていたので、記憶力がありすぎるのも問題があるなとゾロは思った。)
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