「縁側の月」 サンプル

12月から11月まで。ゆっくり関係を深めていくふたりの様子を、それぞれの目線で交互に描いた作品です。混んだ電車に乗れなくて在宅勤務をしている拓也と、小さなイタリアンレストランで働いている楓。等身大の悩みがある同い年の二人が出会って、それぞれが少しずつ変化していく1年に、一緒にお付き合いください。
劇的なことは起きませんが、今の東京のどこかに彼らが実際いるんじゃないか?と思っていただけるような話にしたいと思って書きました。

サンプルは、12ヶ月分のうち3月と8月の部分になります!

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Mar

拓也


「健さんが、これから毎年恒例にしようって言いだして。だいぶ図々しいですよね」
 そう彼が言いだした時、僕はむしろ嬉しかった。

 楓さんは、あれからもう3回くらいうちに通ってくれている。そう、彼はミモザの剪定が終わった後も、何か用事がない限り、お店が休みの月曜日にうちの庭の手入れに来る、って言ってくれたのだ。
 ミモザ以外にも隣家や道にはみ出していた枝をとりあえず切り、それから庭の雑草もきれいにして、枯れてしまっていた木を抜いたり、病気になっている木に薬を撒いたり。
 僕は月曜の午前中はわりと忙しいのだけど、昼にデータを提出してしまえばいったんは落ち着く。
 最初の時に月曜日は昼を忘れがち、って話をしたら、それ以降彼は少し時間をずらして、近所のベーカリーでパンを買ってから昼過ぎに来てくれるようになった。
 うちで一緒にランチにして、午後は彼は庭仕事をし、僕は仕事に戻る。ひと段落ついたら僕はコーヒーを淹れて、用意しておいた甘いものを一緒に食べる、というのがなんとなくのパターンになりつつあった。

 剪定したミモザの花の一部は彼がロッソに持っていって店に飾ってくれ、女性の日の前後に来たお客様にはミニブーケにして配ったのだそうだ。
 かなり評判が良かったと聞いてすごく嬉しかった。
「大量にあっても捨てるだけならもったいないし。お客さんに喜ばれるならぜひ」
 言いながら、僕はコーヒーを注ぎ分けてリビングに持って行ったんだけど、楓さんは僕の発言に少し考えるような顔をしていた。
「ミモザは成長が早いのは確かだけど、さすがに来年また全く元通りにはならないかもしれないですね。今回かなり強く剪定したから」
「あ、そうか。そうですね。魔法の木じゃないんだし」
 僕はそう言いながら、「魔法の木」なんて子どもっぽい言い方だったと少し恥ずかしく思ったけれども、ちらっと見ると、楓さんはすごく優しい目で僕を見ていた。
「でもうちの店で配るくらいなら十分足りると思う。健さんには伝えておきます。あとは咲く時期さえちゃんと3月8日に合えばいいんだけど」
 自然のものだからそう都合よく咲いてくれるかどうかわからないのか。僕がなるほど、と頷いていたら、彼は続けた。
「でも「毎年」って言ってもらえるのは嬉しいな。来年もここに来てもいいってこと、でしょ?」
 僕はそれに頷いて「もちろん!」って返した。
 本当は嬉しいのは僕の方だ、って思いながら。

 伯母の家は、広々とした玄関を入ると右に北向きの台所がある。古いダイニングテーブルも置いてあるけど、僕自身はそこはほとんど使っていない。料理はほとんどしないし、特に冬は冷え込むから。
 居間は庭に面した広々とした和室になっていて、冷暖房がしっかり入っているから、日中はほとんどの時間をそこで過ごしている。
 畳の上にカーペットを敷き、壁際に大きなデスクを置いてモニターを2台設置し、そこで仕事をし、食事もし、同じモニターで配信も見る感じだ。
 居間の中心は伯父の自慢だったアンティークの革のソファで、以前はテレビに向かって置かれていたけれども、僕はテレビをあまり見ないので、今は庭を見るための席みたいになっている。
模様替えはしたけれど、家具の多くは伯父と伯母が暮らしていたころのままで、ソファの前には籐の古めかしいコーヒーテーブルが置いてあった。
 僕はコーヒーと一緒に、昨日伯母の見舞いに行ったあとに買ったクッキーの缶を開けた。
「すごい、めっちゃ凝ったクッキーだな」
「見た目に釣られて買ってしまったので味はわかりませんけど」
 内心では、「これはきっと美味しい」っていう確信があったけど、僕はとりあえずそう返した。でも楓さんは目を輝かせて首を振った。
「いや、絶対美味しいでしょ」
 そう言って嬉しそうに彼が手を伸ばすのを見ながら、僕は彼の隣に腰を下ろした。
 この部屋で他にある椅子は仕事用のゲーミングチェアくらいで、床の絨毯の上に直接座らない限りそこしか座る場所はない。ソファは大きくて大人3人でも余裕で座れるサイズだから別に何の問題もないはず。
 それでも僕はまだ若干緊張する。
 仕事をしている様子を眺めるのが楽しくてお店に通っていた相手が、毎週うちに来てくれているって、まだ何か現実として認識しきれていないんだ。正直言って。


『実家というか父親も兄も庭師で、結構手伝わされて育ってきたから、最低限の手入れくらいはできると思うんですけど。
 やらせてもらってもいいですか? 本当はこれだけの庭なら、プロに任せるほうがいいのかもしれないんだけど……』
 彼は最初そんなふうに言ったけど。紹介してもらった庭師さんの番号に掛けるのも躊躇したまま、別の人から「通学路なのに危ない」っていう直球のクレームを受け取ってしまった僕にとっては、彼はまさに救世主だった。
 道具は伯母が物置に一通り、きちんと片付けておいてくれていたから、作業をする点で問題は全然なかった。
 楓さんは脚立に上がって庭木の剪定をしたり、大きな竹熊手を使って落ち葉を集めたり、見る見るうちに庭をすっきり整えつつある。
 店にいる時とはだいぶ違って、長い手足が映えるというか、見ていて飽きないと言うか、正直言って僕は時々仕事を忘れて見入ってしまっていたくらいだ。
『ジャスミンと桜も剪定したほうがいいけど、花が終わってからの方がいいと思うし、しばらく通ってもいいですか? 本当はまとめて終わらせた方が簡単だと思うので、迷惑じゃない範囲で……』
 そう言いかけた彼を遮る勢いで僕は返した。
『楓さんこそ、せっかくの休日にうちになんか来てていいんですか?』
 そしたら彼はすごく優しく笑って言ったのだ。
『言った通り、前からこの庭がすごい気になってたし、今は庭なんかないアパート暮らしなのでいろいろできて嬉しいし。それに、毎回美味しいものを頂いてるし』

 
「っ!」
 突然楓さんが盛大なくしゃみをした。
 僕は慌てて、ソファの脇に置いてあったティッシュを箱ごと差し出したんだけど、彼はそこから1、2枚つかみ取りながらも、さらに何度か連続でくしゃみをした。
「花粉症?」
 そういえば彼はいつもうちに来るとき、眼鏡とマスクと帽子、っていう普段店で見るのとはだいぶ違う様子だった。僕がそう聞くと、答えはすぐ返ってきた。くしゃみの合間に。
「うん。薬は朝飲んできたんだけど、ずっと外にいたから、切れたかな……」
 鼻をかんでティッシュを捨てたあとも、彼は両手を目に押し当ててすごくつらそうな様子だったので、僕は心配になって聞いた。
「薬持ってる? うちには花粉症のはないけど」
「ああ、うん。ある」
「じゃあ水を」
 慌てて台所に水を取りに行って、それからたった今のやり取りを思い出して、僕はちょっと笑いだしそうになった。

 彼にとっては僕は「店のお客さん」だからなのか、僕らの会話は今日までずっと、お互い敬語のままだった。
 僕は相変わらず水曜日の夜はロッソに行ってるけど、自宅でも会っていて、ぽつぽついろんなことを話すうちに、年も同じだとわかっていたわけで。
 正直、この感じをいつまで続けるんだろう? って思っていたんだ。慌ててたから敬語が抜けたけど、むしろ違和感はない。
 なのに。
「どうぞ。飲んで」
「あ、ありがとうございます」
 僕が持ってきた水を渡すと、楓さんはまた我に返ったみたいに敬語で返してきたから、僕は言った。
「そろそろ止めません?」
「え?」
 すごくびっくりした顔で振り返られて、僕は薬を飲むように促しながら返した。
「敬語でしゃべる必要ないかな、って」
「あ、ああ、そっちね」
 彼はほっとしたような顔をした。もちろん「もう来なくていいです」なんて僕が彼に言うわけがない。
「うん」
 僕があえてそう返したら、彼は僕を見て少し驚いたような顔をし、そして続けた。
「……うん。俺もそう思ってた」
「よかった!」
 僕がそう返したら、彼は笑いだしながら続けた。
「店でも会うし、やめどきがわかんなくて」
「僕も。でも言えてよかった。
 ……で、ついでじゃないんだけど」
 そう言いかけたら、彼は警戒するように僕を見た。
「なに?」
「花粉症の人に3月に庭仕事なんかさせて申し訳ないし、毎回言ってもお礼を受け取ってくれないから、今日は晩ごはんとか、どうかな?」
「え?」
 素で驚かれて、急に心配になって僕は慌てて付け加えた。
「用事ある?」
「いや、別に。今日のメインイベントはここに来ること、だったし」
 その台詞に、僕は思わず笑った。

 




『敬語でしゃべる必要ないかな、って』
 そう言われたときは本当にびっくりした。彼はなんかすごく育ちの良さそうな雰囲気がにじみ出ていて、敬語に違和感がなさすぎたから。
 それにどちらかというと、俺がいろいろお願いしたから付き合ってくれてるだけなんじゃないか? と思っていたからだ。
 しかも、外でご飯食べようって話になるなんて。

 健さんが俺を普段「楓!」って名前呼びしているせいで、彼は俺の名前を名乗る前に知っていた。本人は俺に「鈴木です」って名乗ったけど、俺は彼の名前を、あの家が彼の家だと知った日に、表札を見て知ったわけで。
 敬語でしゃべるのをやめようって話した後に、俺は彼を拓也くんって呼ぶ、って宣言した。
彼が俺を「楓さん」って呼ぶから「さん」のがいいかなとも思ったんだけど、俺としては「拓也くん」の方がしっくりくるし。
 俺は完全に作業着って格好だったし、花粉を浴びまくっていたから、いったん帰って着替えてから出直すのを提案した。場所は任せると言うから、前から行きたかった店の中で予約できそうなところを慌てて探して。
 で、8時に彼の家と俺の家の中間の駅で待ち合わせになったんだけど。

「月曜から遅い時間になっちゃってごめん。この時間しか予約が取れなくて」
時間通りに現れた彼は、心なしかいつもロッソに一人で来るときとも、もちろん家で仕事しているときとも雰囲気が違った。
 彼は今夜は春物のコートを脱いだらカジュアルなジャケットを着ているのがわかり、それがすごく良く似合っていて、俺は「あ、会社員なんだよなこの人」って妙な感想を抱いた。少なくとも、俺はジャケット着て仕事したことないし。
「近いし全然大丈夫。でも、こういう店に来るのすごく久しぶりだから緊張する」
 もっとも、服装が普段と違うのはむしろ俺の方だった。店では黒か白のシャツが制服で、彼の家に行くときには「作業」目的だから、いつもデニムにパーカーみたいな恰好だったわけで。でもジャケットは着ないから、春物のニットを着てきた。
「緊張、はする必要ないでしょ。連れが俺で申し訳ないけど。
 一応こういう店、研究のために来てみたいんだけど、さすがに一人だと敷居が高いから助かった」
 本当は緊張してたのは俺の方だ。すごく言い訳っぽい言葉を並べながらも、すっかりデートの気分だったから。

 その店はいわゆるダイニングバーという感じで、暗すぎずうるさすぎず、でも料理はちゃんと美味しい、という俺の希望をかなえてくれそうな雰囲気だった。
 月曜だっていうのに満席で、適度にフレンドリーなスタッフが通りかかるたびにちらりと視線をよこし、料理が出てくるのも皿が片付けられるタイミングも申し分なかった。

「なんか不思議だな」
 拓也くんがふいにつぶやくようにそう言って、俺は警戒しながらも聞き返した。
「……どのへんが?」
「つい最近まで、楓さんは「ロッソに行くと会える人」で、普通に話したりよそにご飯食べに行ったりするなんて、全然想像してなかったから」
 常連客とスタッフから、家の場所を知っている関係になり、少しずつ個人的な話もするようになって、「顔見知り」の域は出て、普通にため口で話すようになって。
 確かに不思議だ。俺はそう思って笑い、でもついでに切り込んでみた。
「それって俺に会いに来てくれてたみたいに聞こえるけど?」
 ずいぶん図々しい台詞だけど、彼は笑い飛ばしたりせず、少し目をそらすみたいにして言った。
「ロッソに通うようになったのは健さんの料理が美味しいからだけど。でも、それもあるよ」
 
 はっきり言わないのはずるいよな、って思いながらも、俺はそれ以上突っ込まなかった。
 同性の友人との距離感、というのは人によってすごく違う。相手がゲイだってはっきりわかっているとか、すごくはっきりしたアプローチがない限り、下手なことはできないし、拓也くんは少しシャイな雰囲気があって読み切れないし。
 最初にミモザの剪定をしに行った日、帰ろうとしたら封筒に入った現金を渡されそうになって慌てて断った。けど、彼が気にしているのもわかっていたから、このお誘いは本当に「お礼」に過ぎないって可能性も大いにある。
 でも今いるのは普通に友達と飲むのに選ぶ雰囲気の店では全然なくて、それも伝わってるから彼もちょっといい服着てきた感があるかな、と思えるし。
 さて、正解はどれだろう。
 正直言ってこの、お互いに距離を測り合ってる感じも悪くないけど。

「拓也くんが「幸せだな」って思うのってどういうときなの?」
 最初に頼んだ料理は一通り出てきて、二杯目をオーダーしたあたりだった。
ふと思いついた、なにげない質問だった。どんなふうに距離を詰めていくのが正解なのか計りながらの。
 でも彼は驚いたような顔をした。
「? なんのテスト?」
「テスト? そんなんじゃないよ。純粋に興味があって聞いてる」
 なんとなく感じてたけど、彼はめちゃめちゃ真面目なタイプなんだよな。俺の普段の友達付き合いにはあまりいない、きっとすごく頭のいい大学出てるんだろうなって感じの。
 仕事は、「ドイツの会社でアナリストをやっている」ってざっくり聞いたけど、たぶん仕事の内容を詳しく聞いても俺には理解できないだろうなって思った。月曜の午後にお茶してた前後の時間に、仕事の電話が掛かってきて、彼が英語で対応しているのも見たことがあったし。
 で、彼は俺のなにげない質問に真剣に考えて言った。
「なんだろう。朝早く目が覚めたけど、今日は休みだからまだまだ寝てていい、って気づいたときとか? それか散歩の後にたまたま見つけた店がすごくいい店で、料理がおいしくて居心地がよくて通いたいなって思ったとき……」
「ロッソのこと?」
「……そうだね」
 俺はふざけてガッツポーズをして見せ、彼は笑って返した。
「ほんとありきたりだな……。こういうふいの質問に気の利いたこと言えたためしがないんだよ。楓さんは?」
 本当に、俺の方も深い意図があってした質問じゃなかった。だから答えを用意してあったわけじゃなかったんだ。
けど。
「そうだな」
 俺は少しだけ考えて、そして頭に浮かんだことをそのまま言った。
「季節は初夏で、湖とか川がすぐ近くにあって、友達とか家族とか、結構大人数で焚火を囲んでて。まだ暮れきってないけど、日はだいぶ傾いてる時間で。
 暑くも寒くもなくて、みんな好き勝手にしゃべってて、旨そうな匂いもする。湖から渡ってくる風に、どこに咲いてるのかわからない花の香りが混じってる。
 飲んでる連中はもうだいぶご機嫌になってて、誰かがギターを持ち出す。
 俺はそれまでずっとBBQの番をしながら飲んでたんだけど、とりあえず一段落ついて、火から少し離れた場所に座って、だから風の匂いもわかって、音楽を聴きながら気持ちよくなって目を閉じる。
 そしたら隣に座ってる、誰か、俺の大好きな人が言うんだ。
「ここで寝るなよ?」って、すごく優しい声で。
 そう言われると、別に眠いと思ってたわけじゃないはずなのに、逆にそこに転がって寝ちまうのもありかなって気がしてきて目を閉じる。そしたら、隣から呆れたような笑い声がする。
そしたらきっと心から「幸せだな」って思うだろうな」

 考えながらぽつぽつ言葉にしたのは、ふわふわした雰囲気みたいなもので、特に内容があるわけじゃなかった。
 地元でBBQするのはまったくそんなおしゃれな雰囲気はなくて、日常の延長線上にある雑なイベントだし。
 でも友達とだらだら外で過ごして、大好きな人もそばにいる。そういえばそんな時間を久しく過ごしてない、って気づいたのは話し始めてからだったと思う。
 
「ごめん。変に長くなった」
 驚いたような顔をした彼がじっと俺を見てるのに気づいて、俺は急に恥ずかしくなってそう付け足した。
 でも拓也くんはすごくふんわり笑って言った。
「まさか。素敵だよ。楓さんはきっとすごくたくさん友達がいるんだろうな」
「……んー、地元のダチ、ならたくさんいる、けど最近はだいたい結婚しちゃって、子供が生まれたりして忙しくなってて。
 いや、集まりがないわけじゃないんだけど、それはそれで無駄に気を利かせて女の子紹介してくれようとしてくれたりするから、なんか最近面倒になってきて」
 そう言った途端に、拓也くんはわかりやすく俺を改めて見た。
 彼がなにか言いあぐねている気配を感じながら、俺は彼を見たまま言った。
「俺がゲイだっていうのは、ほんの数人にしか言ってないから、しょうがないんだけど」
 ついさっきまで「どんなふうに距離を詰めていくのが正解なのか」とか思ってたのに、結局俺はそんなふうにまっすぐ言ってしまった。これでもう来なくていいって言われちゃったら残念だけど、それならそれであきらめもつくし。
 でも、返ってきた答えは、意外なものだった。
「そんな、簡単に、言えることじゃないよね」
 それって一般論として?
 それとも実感があって言ってる?
 俺は疑問符だらけになって、思わず見つめ返しちゃったわけだけど。
「……僕は、ほんの数人どころか、ほぼ誰にも言えてないよ」
 その瞬間、俺は内心のガッツポーズを隠せていなかったと思う。
「驚かないの?」
 すごく驚いた、って顔で拓也くんはそう聞き返してきた。
「君は? 驚いた?」
「……僕は今まで、あんまり「分かった」ためしがないから」
 なんとなくわかるもんだ、ってみんな言うけど、本当にそうかな? 俺もこの瞬間まで半信半疑だった。
「期待はした?」
 うん。畳みかけた俺に、彼は言葉にはせず、ただ困ったように頷いて見せた。
 それを見たときの感じを、どう言ったらいいのかわからない。嬉しいのと、照れと、舞い上がるなよ落ち着け、って思ってる動揺が全部混じってる感じ。
 俺はにやけないように気をつけながら、別の質問をした。
「……ねえ、花見に行くならどこがいい?」
 お互いゲイだとわかったとして、でもどちらかというとそれは、スタート地点に立ったに過ぎないわけで。 
「千鳥ヶ淵とか? いっそ浅草とか?」
 中目黒とかいくらでももっと近い場所があるのに、俺はあえてそんなめったに行かないような地名を挙げた。だってデートだから。
でも、とたんに拓也くんの表情が曇るのがわかって、俺は慌てて付け加えた。
「あ、ごめん。花見なんて興味ないか」
 わざわざ花見て回ってるのは俺の趣味であって、たいていの男は花になんか興味ない。拓也くんはこないだまでミモザの名前も知らなかったわけだし。
でも彼は慌てたように首を振って、そしてたっぷり躊躇したあとに続けたんだ。
「僕は、人混みが苦手で、混んでる電車とかに乗れなくて」
「あ、俺もラッシュが嫌いで、それでチャリで店まで通ってるところあるよ」
 俺はついそう軽く返してしまったんだけど、彼は改めて首を振った。
「……でも、僕はそれで仕事やめて、1年くらい無職でいて、やっと完全リモートの仕事を見つけたんだ」
 それにはさすがに驚いた。


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Aug

拓也

 おかしな夢を見た。
 僕はなんかのはずみで新しく同僚になった人に嘘をつくんだ。2020年当時イタリアに住んでた、って。
「ロックダウンがあった年だ、大変だったでしょ?」
 とか言われて、僕は嘘を重ねる。部屋に一人で孤独だったって話だ。
 窓から、停めっぱなしのゴミ収集車が見えたとか、ある日そこに誰かが詩を落書きして、それを書き写して暗唱したとか。
 そんな嘘すぐにばれるに決まってるのに、僕はすらすらと嘘をつき続けるから気が気じゃなかった。夢の中でくらい、むしろ大嘘つくのを楽しめばいいのに、って思うのに。

 そんな変な話をしたら、楓さんは違うところにびっくりしたみたいだった。
「夢見ながら、「ばれるに決まってる」とか思ってるの?」
 そう改めて聞かれて、僕は逆にそれっておかしいのかな? と思った。僕の夢はいつもそんな感じだから。
 でもそれ以降、楓さんはうちに泊まるたびに「今日はどんな夢みた?」って聞いてくるようになった。
 それで僕は起きる前、なんとなく意識が現実に戻ろうとするときに、少し前まで自分がいた夢の感覚を繰り返して、忘れないようにしようと努めてみたりするようになった。それでちゃんと覚えていられるって保証はないし、たいていはふんわりした断片しか残らないけど。

「雨が降ってる海岸に楓さんが立ってて、僕は後姿を眺めてた」
「桜が満開を過ぎて、強い風が吹いてすごい勢いで散ってて、楓さんは根元に寝っ転がって雪みたいだ! って喜んでた」
 そんな話をするたびに、彼は「また俺の夢?」って笑ったけど、呆れてるというより本当に嬉しそうだった。
僕は「作ってない?」とか聞かれて、本当は少し恥ずかしいんだけれども、首を振って返すわけだった。
 だって本当に僕はこのところ、彼のことばかり考えて暮らしているから。


 目覚ましで起きて、アラームが日付と曜日を告げた。
 月曜日。
 でも今日は彼はいない。
 お盆で、ロッソは今日だけじゃなくあと3日くらい休みになる。楓さんは週末から実家に帰っていて、甥っ子たちをプールに連れて行くんだと言っていた。

『そうか外資系だと「お盆休み」とかないんだ?』
 お盆の話になったとき、彼はそう言って目を丸くした。
『みんなバラバラに長い休みを取るんだけど、8月は本社の人は半分くらいいないから、なにも話が進まなくて暇なんだ。だから日本支社の人も休む人が多い』
 そう説明したけど、僕自身はたまに仕事の手が本当に空きそうな日に気まぐれな休暇を取るくらいだった。一人でどこかに旅行するとか考えないわけでもないけど、結局実行せずにいたし。
『拓也くんは実家帰らなくていいの?』
 そう問われて、僕は曖昧に言葉を濁した。
『別に帰ってこいとも言われないし』
『秋田涼しそうだけど』
『涼しいよ。そりゃあ、関東よりは』
 でも僕の顔を見て、楓さんは察したように続けた。
『まあ、でも、この家は快適だもんな』

 遮光カーテンがしっかり閉められた部屋は、アラームを消してしまうとまた真夜中のように暗く静まり返った。朝から切り離された、紺色のプールの底に寝ているみたいな気分になる。
 すぐ隣に体温や吐息を感じない、ドアの向こうから水やりをしたり朝食を用意してくれている気配を感じないことが、こんなに「空白」を思わさせるものだなんて。

『水やりは真昼間にやらないでね。朝か日が落ちてからのほうがいい。庭木は念入りにやらなくてもいいんだけど、鉢の類とあとアジサイはしっかり』
 もう、この家の庭の持ち主は彼の方だった。せめて少しは手伝おうと思っただけで暑さでひっくり返るような僕は、数日ここに立ち寄れない彼に念入りに水やりの指示をされる始末で。
 月曜日だ。起きて、水やりして、何か食べて、仕事しなきゃ。
 そう思うんだけれどもなかなか起き上がれなかった。
『ほら、ご飯できてるから食べて!』
 そんな声で急かされないと起きれない、なんて、いつの間にそんな甘ったれたこと言うようになっちゃったんだろう?

 午後遅くなると縁側は隣家の影になる。その時間を待って、僕は縁側に座って、クーラーが効いた部屋の中からしばらく庭を眺めて過ごした。
 この家の庭に植えられている中で、アジサイと桜以外で僕が名前を知っていた木はサルスベリだけだった。名前の由来と見た目がこんなにわかりやすい植物もなかなかないと思う。
ガラスの向こうでは、真夏でなにもかも暑さにやられているように見える。強烈な日差しが作る強いコントラストの中で、鮮やかな赤い花が際立って作り物みたいに見える。

『真夏に咲く花っていいよね』
 数日前、帰省する前にそう言った楓さんの声がまた聞こえた気がして、僕は自分の重症っぷりにめまいがした。 







 ロッソは今年のお盆は4日休むことになった。月曜日の定休日プラス3日だ。俺がここで働き始めてから盆休みはいつも3日だったから、ちょっと特別感がある。
『え、4日も?』
 最初に聞いたときに思わずそう言ったら、健さんはちらっと笑って言った。
『普段、人と休みが合わなくて大変だろ?』
 その台詞には若干の含みがあったように聞こえた。敢えて聞き返したりはしなかったけど。
 
 うちの親たちは、盆は当然実家に帰ってくるものと思っているから、俺はとりあえず通常通り帰省した。
 炎天下墓参りに行って、兄貴たちと飲みすぎてそのまま座敷で寝て、翌日はお盆で激混みのプールに子供3人連れて行ってへとへとになった。
 3日目は子供たちがBBQしようというので付き合い、日が暮れるころ兄貴夫婦の車で駅まで送ってもらう。
「楓ちゃんなんでもう帰るの?」
「明日もプール行こうよー!」
 帰る前に、芹と柚真がひとしきり騒いで、二人と赤ん坊を母さんに託した俺たちは逃げるみたいにして車に乗り込んだ。
「またすぐ来るから!」
 そう言って手を振ったけどすごいブーイングを食らった。こんなふうに懐いてくれるのもあと数年かも知れないから、もったいない気がしないでもないんだけど。でも俺は東京に帰りたい理由ができちゃったし。

 新幹線の駅までのドライブは、しばらくは青々とした田んぼに囲まれた道を行く。でも駅が近づくにつれ、新しい家が目立つようになる。コロナで在宅勤務というのが増えてから、たまに新幹線通勤すればいい環境の人たちがこの辺に住み始めたらしい。東京よりずっと安く一軒家が手に入るから。
 数年前にその話を聞いたときには、東京の会社に勤めてる人がここに住む、なんて全然想像ができなかったんだけど、今はあまりにも身近に拓也くんの例があった。
 彼なんか今の会社で1年以上働いているけど、いままで3回くらいしか出社してないらしい。それなら、例えば彼の家がこの街にあったって全然問題ないわけだ。

「ほんと新しい家が増えたね」
 なにげなくそう言ったら、助手席にいた久美ちゃんが振り返って笑った。
「お義父さんが、楓ちゃんこっちに帰ってくればいいのに、ってたまに飲むと言うのよ」
 両親とはついさっきまで一緒にいたけど、そんな話はしていなかった。
「飲食店のアルバイトなんかいつまで続けるつもりなんだ? 将来どうするんだ?」みたいな台詞は少し前までは嫌というほど言われていたんだけど、そういえばいつもセットになっていた「結婚相手はいないのか?」って台詞も、今回は言われなかった気がする。
「帰ってきたら兄貴が雇ってくれる?」
 冗談でそう返したら、それまで黙って運転していた兄貴がぽつりと言った。
「家だけじゃなくて店も増えてるから、こっちでレストランやったらいいんじゃないか、って」
 それは意外な話過ぎてびっくりだったけど、どうやら驚いたのは久美ちゃんも同じだったみたいだ。
「あ、そういう話なの?」
「楓にその気があるなら投資してもいいってさ」
「お義父さんが投資とか言い出すとか!」
 久美ちゃんは面白い冗談を聞いたみたいに笑ったけど、俺はあっけにとられていた。
 なんであの人は俺に直接言わないんだろう?
「でも俺は自分で料理するわけじゃないし?」
「誰かと組めばいいんじゃないか?」
「こっちで?」
 料理人を探して、物件を探して、レストランを始めて、こっちで暮らす? 
「別に今すぐって話じゃない」
 そりゃあそうだろうけど。俺はすぐに何も返せず、兄貴もそれ以上何も言ってこなかったから、話はそこで終わりだった。

 車はすぐに駅前のロータリーに着き、俺は車を降りた。
「じゃあ次は秋だね」
 休み中の話題は、ほぼ芹と柚真の七五三の話だった。お祝いにたくさん人が集まるし、俺もまた帰る。
「楓ちゃんもおしゃれしてきてねー! 写真撮るから!」
「俺はいいよ」
 そう言って笑って、車を離れようとしたら、兄貴が言った。
「さっきの話は急ぎじゃないけど、考えておけよ?」
 本気? そう思ったのは顔に出てたと思う。久美ちゃんがフォローするみたいに言った。
「末っ子は可愛いもんだからね。一回ちゃんとお義父さんと話したら?」

 新幹線に乗ってしまえば、東京駅までは1時間ちょいで着く。駅に着いたらすぐに拓也くんにメッセージを送って、前に「デート」をした店で待ち合わせをした。
 家族には言わなかったけど、今年はもう一日休みがあって、明日は拓也くんも休みを取っている。
 なにをして過ごすかは考えていなかった。どこに行っても暑いし、ふたりでだらだら過ごすのも悪くない。というか、ふたりとも休み、っていう状況を楽しむにはきっとそれが一番いい。

 予約した時間より少し早く着いたんだけど、すぐに席に案内された。窓辺の席で、すぐ隣の敷地が結構な広さの更地になってるのが見えた。お盆なんて関係なく、いつものように人がたくさんいる、少しごみごみした街の一角が、そこだけがぽっかりとなにもない。
 前に来たときはこの窓の視界はこんな開けた感じじゃなかった。それは確かだ。けど、じゃあ前に何があった? 考えてみても思い出せない。

 少し前、夕方拓也くんと近所を散歩してたときに見慣れない空地の前を通りかかった。
『あれ、ここ空き地じゃなかったよね? なにがあったんだっけ?』
 本当に何にも思い出せなくてそう言った俺を見て、彼はびっくりした顔で言った。
『ここは青い壁のアパートだったよ。覚えてないの?』
 俺は肩をすくめるしかできず、彼は笑いながら続けた。
『どこに何が植えてあるかはあんなによく覚えてるのに!』

 建物にことさら興味がないわけじゃないけど、消えたものなんかすぐに忘れてしまうのが俺だ。
 一方で彼は、見たものを大事に記憶のどこかに残しておくタイプな気がする。
でも俺は、そのときの彼の呆れ顔はしっかり覚えていた。それを思い出してちょっと笑ったところで、店の人に案内されてこっちに歩いてくる拓也くんの姿が見えた。
「おかえり」
 レストランで交わす挨拶としてはおかしな一言が、胸にしみた。
「ただいま」
 ほんの数日会わなかっただけなのにな。そう思いながら、俺は返した。




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こんな感じで淡々と続きます。全年齢作品。

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