たぶん、AM5:30頃
眠る小宮くんの横顔は、剣呑な眼差しが隠されている分だけ幼く見える。
俺はしばらくの間、彼の部屋の入口からその寝顔を盗み見て、やがてそっとドアを閉めた。グランドコートを羽織って、スニーカーの靴紐をきつく結ぶ。音に気をつけながら、玄関扉を開けた。
街灯にぼんやり照らされて、夜の明けきらない街を歩く。コートのファスナーを上げて口元をうずめた。寒さも一巡したとはいえ、この時間帯の気温は少々こたえる。
人影のない通りをさまよっていると、どこにも自分の居場所なんてないのだと肌で感じる。
人々の眠りと覚醒の境界をすくい上げたように、空には藍色とばら色がまじり合っている。うっすら残る三日月が、昨夜つまんだオニオンスライスみたいだなと、情緒のかけらもないことを考えた。
昨夜は、高校時代の敬愛する先輩方との飲み会があった。十代の頃を知る者どうしの時間は、いつだって楽しくて、得がたくて。現役時代のような枷もなく、つい飲み過ぎてしまった。終盤の記憶が断片的だ。
仁神さんがタクシーで送ってくれた気がするが、肝心なことを覚えていない。肝心なことというのは、仁神さんがどこまで付き添ってくれたのか。
俺はマンションのエントランス前で放流されたのか? あるいは、部屋の玄関先まで送り届けられたのか? ――要は、およそ三ヶ月前から同居している小宮くんが、仁神さんと顔を合わせたか否か。重要なのはこの点だ。
この際、仁神さんに小宮くんとの関係が露呈するのは構わない。ただ小宮くんが、仁神さんと俺との気の置けない先輩後輩特有の親密さを目の当たりにしたとして。そのときの小宮くんの反応が、記憶にないことが不安だった。
小宮くんは大胆なようで繊細で、俺の交友関係を気にしていないようで気にしている。
たぶん、昨夜の飲み会だって、本音では行ってほしくはなかっただろう。決してそれを表に出したりはしないけれど。
「何時に帰ってくる?」
出る前にただ、ぽつりとそう聞かれただけだ。そして俺は酔っぱらって、その時間をとうに過ぎてから帰宅した。
タクシーで貨物よろしく運ばれているときの記憶もブッ飛んで、次に記憶があるのは、トイレでちょっと吐いたこと。あとは、洗面所で小宮くんと交わした会話だ。
シャワーを浴び終えた頃にはだいぶ頭もしっかりしていたが、まだ抜けきらない酒の余韻で気が大きくなって、いつもなら言わないことを口走った。
「しないの?」
「……酔ってる人に、そういうことしたくない」
そう答えた小宮くんはなんだか苦しそうな顔をしていたから、俺もなんだか苦しかった。
そうだよな、と思う。
酔った勢いで「しないの?」なんて言ってみたものの、酔いすぎていて性的同意の判断能力なしと思われたに違いない。
小宮くんはそういうところ、俺よりよほどちゃんとしている。俺みたいに、曖昧に流したり流されたりしない。
初めて挿入をともなうセックスを試みたのは、二週間前。
あのときは、「小宮くんが引退したら、そのときはジャンケンで決めようぜ」とか明るく言って、自ら負担の大きい方に回った。
それでいつか、小宮くんと別れることになったとき、「そういえばトガシくんには、あのとき無理をさせたな」とか、少しでも負い目を感じてくれれば……なんて。そんな薄暗い思惑が少しもなかったかと言われると、否定できないのがつらくはある。
とはいえ、初めからそう簡単にできるわけもなく、そのときは半分ぐらいで断念した。色気も何もあったもんじゃなかった。
「今5センチぐらい。トガシくんどう?」
「あー、もうちょいいけるんじゃないかな」
「結構もうギチギチじゃない……?」
「たぶん向きが……こう、下の方に行ってもらえれば」
みたいな具合で、ここは何の工事現場だ? と思しき会話の数々を繰り広げた。
その中途半端に終わった夜を最後に、二回目の機会は訪れないまま。昨晩は酒の力を借りて分かりにくくも誘ったつもりが、酒のせいで失敗に終わったというわけだ。
「うーん、愚かだ」
だ、のところで顔を上げてみる。
少し先の歩道に、明かりが投げかけられている。コンビニの明かりだ。光に誘われるままフラフラ入店し、ひと通り店内を練り歩く。
「あの、ホットコーヒーのMお願いします。ふたつで」
レジでピースサインをつくると、アルバイト店員が厚紙のコップを二つくれた。たぶん俺よりうんと年下の、海外からの留学生のように見えた。若いのにえらいなあ、なんておじさんくさいことを思う。明け方に来ただけの単なる一顧客に向けるにふさわしい、無関心な視線がありがたかった。
コーヒーマシンが唸り声を上げながら、コップにコーヒーを注いでゆく。蒸気と一緒に、香ばしい匂いが立ち込める。
昔から、周囲の視線には人一倍敏感だった。それは好意や羨望だったり、失望だったり、色々だ。
俺のこと好きなんだろうなあ、という子と付き合っては、最終的にフラれるか、良くて自然消滅。相手にとって俺の評価は、付き合い初めをMAX値として減点方式的に下がるので、当然といえば当然だ。
いずれも相手から流されるようにして始まった交際とはいえ、それでも互いを知るうち、相手を好きになったりもした。あの気持ちに嘘はない、と思いたい。
どういう形にせよ、人を慕うということは恋に似ていると思う。
誤解を恐れずに言うなら、鰯第二高校の面々のことがそれぞれに好きだし、元同業の樺木くんや森川さんだって、慕ってくれている自覚がある分、こっちも好意を持ちやすい。俺にはたぶん、好意の対象があちこちにある。
このへんの感覚は、俺と小宮くんとは相容れないだろうと思う。
二人分のコーヒーにプラスチックの蓋をはめて、両手が塞がった状態で再びフラフラ外へ出る。
今までの恋人達と同じように、小宮くんとも半ば流され絆されて付き合ったようなところはある。だから、これまでと同じように、いつか減点方式でゼロかマイナスを叩き出してフラれる日が来るんじゃないかとも思っている。
想像するだけで、苦しくて、寂しい。たぶんそれは俺の中で、当初想定したよりも小宮くんへの好意が加速しているからで。
「……幻滅されたくないな」
コンビニを出てすぐ、目の前のガードレールに尻を乗せてコーヒーをすする。なるべく小宮くんの思うカッコいいトガシくんでありたいけれど。
俺は酔っぱらって時間も守れないし、小宮くんの不安を分かっていても全部には寄り添えないし、セックスはうまくいかない。
ちびちびコーヒーを口にしていたら、不意に二区画先の角から、トレーニングウェアをまとった黒い影が飛び出してきた。
なんだかバラバラなフォームで慌てたように通りを横切ってゆくから、別人かとも思ったが、よくよく見たら家で寝ていたはずの同居人だった。
「……小宮くん?」
つぶやき程度の声量をとらえ、小宮くんが俺の方をぱっと振り向く。
「あ、え、な、なん……」
言語未満の言葉を発しながら、前髪の奥、だんだん小宮くんの眉が下がってゆく。そうして最終的に、見たことないほど哀愁ただよう顔になったので、うーん飽きないなあ、とぼんやり思う。
「……出て行ったかと思った」
「え、俺が? 家出したと思ったの?」
うん、と頷いた男の目が暗い。慌ててスマホを確認すると、五分前に「どこいるの」「帰ってくる?」とのメッセージが来ていた。というか、五分でここまで探しに来たのか。気も足もはやすぎる。
「散歩してただけだよ。これ小宮くんの分」
とりあえず、コーヒーをひとつ差し出す。餌につられた手負いの獣のように、小宮くんがそろそろ近寄ってきた。
「ちょっと話があってさ」
そう言うと、動きがピタッと止まった。前髪の下から睨まれる。
「……それ、聞かないとだめ?」
「え、聞いてくれないの」
思わぬ返しに、ちょっと笑ってしまった。隣のガードレールの端に腰かけた小宮くんに、今度こそコーヒーを手渡す。
そのときだった。
視界に入った小宮くんの手に、ふと違和感をおぼえた。思わず指先をつかまえる。
「深爪になってる。痛そうだね」
大丈夫? と聞こうとして、小宮くんの顔を見れば。
動揺に瞳を揺らして、うつむいた。みるみる耳が赤くなってゆく。
――しまった。これは、言うべきじゃなかった。
毎日髭を剃ることすら面倒だと言う男が、こんな爪になっている理由なんて、ひとつしかないじゃないか。
そう悟った途端、ゴム越しに内壁を掻く、遠慮がちな丸い指先を思い出す。こんな道端で。つい、うっかり。
俺は頭を抱えたくなった。
「言ってよ……」
「な、なにを?」
「二回目しても良かったなら、そう言ってよ……。ていうか俺の話って、そのことだったんだけど」
「あ、そ、そうなんだ」
つかまえていた小宮くんの指先を離そうとしたら、今度は逆につかまった。俺よりも少し、彼の指は冷えている気がした。
「さっきはトガシくん結構酔ってたから、心配で断っただけで」
「うん、わかってる」
小宮くんのかさついた指が、ただ俺の指をつかんで固まっている。まるで、知らない場所で不安がる迷子の子どもみたいに。
「トガシくん、仁神さんに抱きかかえられて帰ってきた」
「……ごめん」
「いいよ。きみ、ドア開けるなり『楽しかったのに! なんで小宮くんいなかったんだよ!』とか喚いて、仁神さんも『次は二人で来たらいいよ』とか言うし。気が抜けちゃった」
「ああー、はは……」
「なんか嬉しそうに写真撮影もしてたよ」
「えっ、えっ!?」
あたふたとスマホをポケットから引っ張り出して、カメラロールを確認する。ぱっと目についたのは、居酒屋でこちらに笑顔を見せる鰯第二高校のみんな。これは記憶にある。
でもその後の、このスリーショットはまるで記憶にない。
苦笑ぎみの仁神さんと、表情筋の死んでいる小宮くん……の首に抱きついて……というより、もはやぶら下がって、とんでもなく嬉しそうな俺。しかも連写になっている。いかにも酔っぱらいの自撮りって感じだ。衝撃に手が震える。
「これは、ひどい……!」
「それ、僕にも送っといて」
「やだよ!?」
「楽しそうでかわいいよ」
本気か冗談かつかない声色に、小宮くんの顔を盗み見る。
夜明け前の街にそっと溶け込むように、凪いだ表情をしていた。
「トガシくんにとって必要なら……安心できる場所とか関係性とかが、たくさんあってほしいって、今は思ってる。僕にはそういうの、理解できないけど」
「……うん」
「僕はつまらない人間だし、他人にあまり興味がないし、交友関係も狭いし。このまえだってトガシくんに気を使わせてばかりで、僕がうまくできなくて」
言いながら、どんどん丸まっていく背中を慌ててさする。ネガティブ小宮くんの再来だ。こうなると俺はもう、彼をよしよししないと気が済まなくなる。小学生の頃からそうだ。
「いや、うまくできなかったのは俺も同じだし……。小宮くんは全然つまらなくなんてないよ。それに他人に興味がなくたって、べつにいいだろ。交友関係広い方が人間的に偉いわけでもないし」
小宮くんは背を丸めたまま、顔だけこちらに向けてジメッとした目で俺を見た。
「……トガシくんはさ、昔からそうやって人のこと全肯定して。僕をどうしたいわけ。僕にそんなこと言ってくれるの、トガシくんだけだよ」
謎にキレ気味だった。口がへの字になっている。
現実的には、小宮くんを肯定してくれる人なんて世の中にごまんといる。なにも、彼の近くにいるのは俺じゃなくたっていい。でも俺はずるいし負けず嫌いなので、そこまでは教えてあげない。
互いに理解も共感もできない部分を尊重し合って誰かと生きるには、それ相応の努力とトレーニングが必要だ。俺はその意味を今になってようやく知りはじめたところだし、きっと小宮くんもそうなんだろう。
たぶん、100メートルに人生を捧げてしまったことの他に、俺たちに何かを分かり合える実感など存在しない。でも、それで充分だった。
だからこそほんの一瞬でも繋がり合えたら、こんな幸福なことはないと思える。
「小宮くん、帰ろうか」
「……うん。コーヒー、ごちそうさま」
店内にゴミ箱あったかな、とコンビニの方を振り返ると、さっきのアルバイト店員と目が合った。ものすごく良い笑顔で、サムズアップされた。なんでだ。
いや、そうか。傷心まるだしでコーヒーふたつ買って出て行った男をただならぬ様子の男が迎えに来て、何やら親密な雰囲気を醸しながら指を触り合うなどしていたからか。……よく見てるね。
「それ、捨ててくる」
深爪ぎみの小宮くんの指先が、俺の空にしたコップをさらう。
俺はなんだかまた急に恥ずかしくなってきて、小宮くんが店内のゴミ箱に紙コップを捨てているすきに逃亡した。
でも小宮くんはすぐに真顔で追いかけてきて真顔で並走してきたので、俺たちはそのまま駆け足で帰った。途中、少しだけ、子どもみたいに手を繋いで走った。
そのあと、何時に日が昇ったのかはよく覚えていない。
《たぶん、AM 5:30頃・完》
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