Umbrella (中編)

 海からの風は、うっすらと土と水の匂いを纏っている。


 夜通し降り続いた雨の名残なのか、それともこれから訪れる荒天の気配なのか、それは分からなかった。空を仰ぐと、薄い膜を張ったようにグレーの雲が広がっていた。降水確率は高くはないが、けして晴天というわけではないのだろう。時おり切れる雲間に淡い青が見え隠れする。
 古びた木目が印象的な扉の横に、例の傘が立てかけられているのを見つけた。それは、先日総監部を訪れた青年に返却した雨傘だった。いやに記憶に残っていることに不思議な気分になりながらも、念の為にカフェボードで店名を確認する。ショップカードに記載されているのと同じ店名が、そのカフェボードに描かれていた。
 今日の空模様によく似た、グレーを溶かしたような薄いブルーのその傘を一瞥して、扉の取手に手をかけた。木と木が擦れ合う音がして、やがて香ばしい豆の香りが自分の身体を包むのが分かった。


 薄い雲に遮られてまろやかになった日差しが差し込む今朝方の寝室の景色をふと思い起こした。
 行為の後の気怠さと、今後に関する彼とのやり取りで少し疲れていた。すっきりと起きて彼を見送ることも出来ずにいた。
 ベッドの中で微睡む自分の唇に、彼の唇がそっと重なる。
 その感触を思い出して、唇を親指でゆっくりとなぞった。彼の温度がまだ残っているような気がした。
『では、行ってきます』
 そのやり取りのことを欠片ほども滲ませず、薄明るい光にもぱきりと映えるその白い制服を纏って、彼はささやかな足音だけを残して、出仕していった。眠りの世界と目覚める現実の世界を行き来して、意識ははっきりとせず、それに何かを答えることも出来なかった。
 けれどそれは、彼が敢えてそうしたのかもしれないとも思う。その数時間前に話した事柄は、けして2人の関係にとって希望的なものではなかった。
 意図的に別離を匂わせたわけではない。けれど彼とのそのやり取りは、お互いの背負う任務を最優先にするのなら、いずれはそうなるのかもしれないという一つの結論を導き出してしまった。そんな気がしていた。
 意図せずに、そしてずっと心の中に秘めて蓋をして。向き合って来なかったそのことに。
 距離だけの話ではないのだと思う。距離を解決することで済むことならば、それほど簡単なことはないと思った。自分と彼との間に横たわっているものは、己の心の持ちようだけでどうにか出来るものではない。同じ場所で一番近い距離にいる。そうして同じ性を持ち、同じ目的に向かって歩み続けてきた。そのことは個人的な関わりにおいては、2人を自由から最も程遠い場所に置いていた。
 ひとたび進み方を間違えるだけで、全て失う。痛みを負うのが自分だけならばまだいい方だ。お互いが望んで結びつきを強めるほどに、お互いの持っているものを奪い去るそのリスクは高くなる。そんな薄氷の上に自分たちはいつも立っていた。
 分かっていたはずだというのに、彼と過ごす時間の甘やかさや充足感に紛れて、いつの間にかそれを忘れていたことに気付く。



 彼の枷になるつもりはない。その思いにゆるぎは無い。
 けれど、彼の手を離す覚悟も、今の自分にすぐ出来るわけではなかった。


「……こちらでよろしいですか」
 不意に声をかけられて引き戻された視界に、若い店主の笑顔が映り込んだ。
 柔らかく空気を含んだような濃茶の髪に、自分よりも薄白い肌の色、華奢な体つきの男性だった。上背があるせいでひょろりとした印象を匂わせるが、ぱりと張った白シャツと濃紺のカフェエプロンを沿わせた身体は、思ったよりも硬く筋肉質にも見えた。
 シンプルな茶色の紙袋に2つ豆の袋を入れると、彼は目の前にそれを差し出してくる。店内には開店直後ということもあるのか、自分以外の客は見当たらなかった。
「当店オリジナルブレンドと、季節限定の夏ブレンドです」
「ああ、……どうも」
 カウンター越しにそれを受け取った。そこでようやく、この店を訪れた自分の本来の目的を思い出した。
 紙袋の中身を確かめる。豆の袋の他に小さな紙が入っているのに気がついたのはその時だった。取り出すとそこには、手書きの文字でびっしりと、豆の紹介とドリップ方法などが書かれてあった。
「お好みのドリップ方法で飲んでいただければいいんですけど」
 紙を見つめる自分に、カウンターで作業をしながら彼はそう話しかけてきた。
「……はあ」
「焙煎するときには、ある程度この飲み方ならば一番香り立ちも味わいも良くなるっていうのは想定してます。……強制はしませんけどね」
「……」
「例えばそのシーズナルブレンド」
 彼はそう言って、袋の中の「夏ブレンド」の方を指さした。
「深煎りにしてあるんです」
「へえ、……」
「夏なので、アイスコーヒーで召し上がる方が多いと思って。
 好みによりますが、アイスは氷で味が薄くなっちゃうでしょう。だから苦味をより濃く感じられる、深煎りの豆を使ってます」
「なるほど」
「もちろん浅煎りでも、美味しいアイスコーヒーはできますけどね」
 彼はそう言って、からりと笑った。
「折角飲んでいただくのだから、お求めくださった豆に一番合った飲み方を、一応、提案させていただいてます」
「……そうですか」
「まあでも、好きに飲んでもらっていいんですけどね」
 そう言った店主に曖昧に笑いかけてから、手元の紙に再び視線を戻した。
 抽出する時間や豆の量だけでなく、使う水の硬度まで丁寧に解説してあった。そこには店主の豆に対するこだわりが見て取れた。けれど合わせて、誰にでも出来るような平易な抽出方法も記載されている。その紙に込められた思いはけして押し付けがましくもなく、物事に向き合う、真摯で純粋で誠実なものである気がした。
「参考にします」
 そうゆるりと口元を上げて、紙袋を手に提げる。
 ぱらぱらと、古びた木枠の窓に小雨の当たる音がした。窓の外を見遣ると、入店した時よりも空は薄暗い灰色の濃度を濃くしていた。傘は持って来ていなかったが、走って帰れば濡れないだろうと算段する。財布を取り出すつもりで席を立つと、店主は不意に作業の手を止めて、少し前のめりにこちらを見つめてきた。
 濃いアンバーブラウンの瞳の色は、昨晩深く何度も睦み合った、彼のその目の色にひどく似ていた。とくりと、心臓が鼓動を小さく底に打つ。
「……あの」
「?」
「会計はいいですから」
「え?」
「傘の礼です。そのままお持ちいただければ」
 彼はそう言って、やや前のめりになっていた体をカウンターに収めて、にこりと笑った。慌ててその申し出を断った。
「そういうわけには、…」
「いいんです。あの傘、本当に失くすと困るやつだったんで」
「しかし、あれは私が拾ったわけではないですから」
「それでも。とりあえず誰かに礼を言わないとと思ってて」
「それは、……」
「大事な傘だったんです。礼、言わせてください」
 言い淀んだ自分に被せるように、すらりとした体躯のその店主は小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……」
 返す言葉に逡巡しているうち、店主のその若い男性はおもむろにカップをひとつ取り出して来た。
 微かな雨音に混じって、ゆるやかな音楽が流れている。


「……1杯どうですか」
「え、……」
「試しに、飲んでいきませんか。うちのコーヒー」




「世界で一番美味いコーヒーを飲みに行こうって。一昨年まで世界中回ってたんですよ」
 雨音は続いていたけれど、窓から室内に入り込む光は薄く空に張った雨雲の向こうの太陽の光を透過するように、わずかに淡白さを増していた。
 ランチタイムを迎えた店内にも、ちらほらの他の客の姿が見え始めた。それでも、目抜き通りに看板を掲げる割には数も少ない。この天候のせいもあるのだろう。カウンターに座っているのは自分ひとりで、店主の彼も時おりやって来る常連らしき客にコーヒーを振る舞って、のんびりと歓談するだけだった。
 平日の休暇をコーヒーを飲むためだけに消費することはあまりない。片付けておきたい雑事もあったけれど、それでも目の前のこの店主の誘いに頷いてしまったのは、昨晩の彼とのことを引きずっているからだろうかと思った。
 あの部屋に戻れば、嫌でも考える。ひとりでそのことに思いを馳せるには、まだ十分に疲れが抜けきっていないのかもしれない。
「まあでも結局、一番コーヒーが美味いのは日本だよなって話になって」
「……そうなんですか」
「金貯めてこの店を開いて。……まあ正直、儲けはあんまりですけどね」
 店主はそう言って、湯の湧いたケトルを手に持って、挽いたばかりの粉の入ったドリッパーにそれを注いだ。
 じゅわ、と粉に湯の染み込む音がする。くるりと慣れた手付きで彼は湯を軽く回し入れた。
「新波さんでしたか」
「……ええ」
「海上自衛官なら、艦に乗って世界中回ったりします?」
「いや、そんなことは。…たまに、演習で海外に出るくらいで」
「コーヒー好きですか」
「……まあ、それなりには」
 艦内では自分で淹れることなどほとんどない。
 気が付くと給養の誰かが紙カップに入ったそれを持って来る。美味いも美味くないもあまり感じたことは無かった。惰性のように胃に流し込むその液体を丁寧に淹れようと思い立ったのはいつのことだっただろうか。


『美味いな』
 静かに微笑む彼の顔が瞼を覆うように思い浮かぶ。
 新波さんの淹れたコーヒーが飲みたい。放っておいても「群司令」の彼にならば誰かが必ずそれを用意するだろう。与えるのは自分でなくてもいい。
 それでも、彼は2人きりの時に幼く少しぎこちない笑みを浮かべて、けして外では紡がない名前を呼んで、そう言うのだ。


『歳也さんと、一緒に飲みたい』
 そんな小さな記憶を少しずつ積み重ねて来た。この数年、ままならないこともあったけれど、ずっと。



「コーヒーを美味く淹れるコツは『蒸らし』です」
 ほのかに泡立つように盛り上がるフィルターの中の粉に視線を落としながら店主の彼はそう言った。
「蒸らす時間を調節することで、コーヒーの味わいは変えることが出来るんですよ。例えば、すっきりした飲み口が好みなら、蒸らしは短い方がいい」
「……へえ、……」
「コクのある味わいが好きなら、少し長い方がいいかな。でも、蒸らしが長すぎるとエグみが出ちゃうんで。加減が難しいですけどね」
「……奥が深いんだな」
「ええ、だから、好きなんですよ」
「好き、……?」
 ドリッパーから一滴ずつサーバーに垂れ落ちる濃茶の液体は澄んで、濁りのないその向こう側の景色も透けて見える気がした。琥珀色の世界がそこに広がっていた。
 最後の一滴が落ちるまで、店主の彼は目を離さなかった。愛おしい誰かに向ける視線がそこにあるような気がした。やがて出来上がった1杯分をカップに注ぎ入れて、店主はそれをこちらにすいと差し出してくる。底まで見通せるようなその液体が、ゆらりと鏡面のように自分を映して揺れた。
「まるで人と人との関わりみたいでしょう」
「……」
「薄いあっさりとした付き合いもあるし、濃くて、苦味の強い関係もある。好みは人それぞれで。
 深く関わるのを避けて薄いものばかり好む奴もいれば、どっぷりハマって、その苦味から抜けられなくなる奴もいる」
 雨音は変わらず、絶え間なく響く囁きのように屋根を打って耳に染み入り続ける。側面に触れたカップは熱く、わずかに冷えた指先を温めた。
 あの曇り空の色の傘を手にして、大事なものだったからと繰り返し言ったその姿が、目の前の店主の小さな笑みに重なっていくようだった。


 ――俺は、竜太の枷になりたくはない。
 竜太が、俺がいることで苦しむのだとするなら。



「すっかりご馳走になってしまって」
 小さく頭を下げると、自分と同じ高さの目線で、店主の彼はふわりと口角を上げて笑いかけてきた。
 この屈託の無さと愛想の良さは、顧客に振りまくだけの営業用のものなのかもしれないと思う。つい裏を読もうとするのは人と交渉することの多い自分の仕事のせいだろう。ただ、商売だからとそう思い切るには、彼がこちらに向けてくる笑みはどこか半透明の膜に覆われたような薄暗さも含んでいた。理由は分からない。
 艶めいて室内の照明を反射する木の扉を片手で開きながら、店主は小さく肩をすくめて言った。
「いいえ、これでお礼も出来たので。俺としてはすっきりしてますよ」
「そうですか」
「まあ、また機会があれば来てください。豆が切れたときにでも」
「ええ、また。……機会があれば」
 全くの世辞というわけでもないが、この店を再び訪れるのはずいぶんと先になるような気がした。
 紙袋の中の豆はぎっしりと詰まっていて、ひとりで使い切ろうとするなら長い時間がかかるのは目に見えて明らかだった。その2つの豆の袋をひとりで飲むとはこの店主も思っていないのかもしれない。



「――本気の恋なんて、するもんじゃないですよ」



「俺『たち』に、『そういう』のは、たぶん無理ですから」
「――……え…?」
 庇から落ちる水音に混じって背から降った声は、確かに店主の声だった。
 自分にかけられた言葉なのかどうか、一瞬迷ったけれど振り返る。振り返った後で、それが悪手であることに気が付いた。振り返ることは心当たりがあるということで、それは何よりも、自分が『そう』だということを示しているに他ならない。
 どくりと心臓がひとつ音をたてた。気配ほども滲ませなかったそのことを、まるで初めから見抜いていたかのように、店主の彼は薄く、三日月のように口元に弧を描いて微笑んでいた。
 指先がわずかに震えた。動揺を悟られないように、口の端に力を入れた。
「すみません」
「え、どういう……」
 彼は続けた。
「少し俺は、勘が良くて。客商売なんてしてると特に、人を観察するのが癖みたいになるんで。……だから、なんとなく、分かるんですよ」
 こちらを陥れようとか、弱みを握ってやろうとか、そんな空気は見て取れなかった。こちらを脅したところで彼に何のメリットがあるというのか。彼とはほぼ初対面で、薄いというほどの繋がりもない。けれど警戒しておくに越したことは無いと思い直した。
 何より。彼のことは絶対に知られてはいけないと思う。自分よりは表に出ることの多い彼には、1ミリほどのスキャンダルも許されない。
 目に疑わしげな色を浮かべたのを感じたのだろう、店主の彼は少しだけ眉根を寄せて、困ったように笑みを深くした。
「あなたが、『そう』か、『そうでない』か。その程度ですけど」
「……」
「俺も、『そう』なんで。すぐ分かりました」
「……あんたが?」



「新波さん、あなたが『そう』で。
 今、何に苦しんでるのかも。なんとなく、分かります」


「……」
「俺にも、経験があるので」
 開けた扉の隙間から、雨の匂いを含ませた潮風が吹き込んでくる。
 ぽつりと、一粒雨の雫が頬を撫でた。中にいる時よりも雨音は大きく、そして耳の奥に染み付くようにさざ波のような静かな音を響かせ続ける。そして雨だれが地面を打つ音に重なるように、彼の声もわんと脳の奥を揺らした。
「『恋で死ぬのは映画の中だけよ』」
「え?」
「映画、知ってます?『シェルブールの雨傘』。けっこう有名な台詞なんですけど」
「……」
「それが無けりゃ死んでしまうような恋なんて。現実には存在しない」
 自嘲気味な、ほんのわずかに濁った笑みが色素の薄い彼の口元にすっと引かれるのをただ見つめた。
「俺『たち』の恋愛は長く続かない。だから本気になるだけ、人生の無駄だ」
「……」
「あなたは多分、どっぷりハマってボロボロになる方の人だろうから。気をつけてください。……まあ一応、余計なお世話ですけど」
「あんたは何を、……」
 言いかけた言葉を遮るように、彼は店舗のポーチに立てかけてあったあの曇り空の色の傘を握り込ませてくる。
 長く筋張った指先が唐突に自分の手に触れた。指の1本1本を絡ませるように傘の柄に触れさせるその指の温度は少し低く、骨のごつごつとした感触が直に伝わる。
 水仕事を繰り返して少しかさついたその指先の感覚にびくりと大きく肩が震えた。それが怯えたように見えたのか、店主の彼はふ、と呆れたような笑みを零した。
「傘、持って来てないでしょう」
「……」
「どうぞ、使ってください。返すのはまた今度で構いませんので」
「けれどこれは、……」
 あんたの大事な傘なんだろう。そう言おうとした唇は上と下が張り付いたかのように閉じて、上手く言葉を紡げないでいる。
 核心に近い部分に準備も無く触れられた小さな衝撃が、そうさせているのだと思った。不安というのでもない、目の前のこの店主に対する恐怖というほどの感情でもなかった。けれど断るだけの言葉が簡単には出てこなかった。
 傘を握ったまま、2人狭い空間で見つめ合う。雨脚はわずかに強まって、雨の筋がはっきりと見えるほどには降りしきり、足元の地面をしっとりと濡らしている。
 ほんのわずかに温く吹きかかった彼の息に、踏み留まったままだった足を一歩のけぞらせた。肩に雨が降りかかり、じわりと羽織ったシャツが、雨染みを形作ろうとしている。
 彼の指がそろそろと離れるのを、肩を強張らせたまま見つめた。彼は一瞬目を伏せて小さな息を吐く。
「折角の豆が濡れても嫌なんで」
「……」
「あなたが濡れるのも、気になりますし。だから、いつでも返しに来てください」


 ――待ってますから。


 その言葉に弾かれたように、店を後にした。
 傘を突き返すことも忘れてただ、雨の道を急ぐ。水の溜まりを靴がはねる、その水音がやたらと耳に響いた。
 手渡された傘は開かれることなく、ぐっしょりと濡れそぼった自分の身体は、ダルトーンのブルーを溶かした梅雨前の空に、その輪郭を溶かしてしまいそうに思えた。


 ーーー


 ドリッパーにフィルターをセットする。
 キャニスターから、粉を数杯掬い取ってドリッパーに入れた。それを合図にするように湯が沸くケトルの電子音が響く。
 慎重に粉の山の中心に湯を注ぐ。粉に十分に湯が染み込むのを待って、数十秒ほどそれを見つめる。最初の湯が染みきったところで再び、中心から時計回りに円を描くように、ドリッパーの縁までゆっくりと二度目の湯を回し入れる。
 手順通りに行ったつもりでも、どこかの手際が悪いのだろう。サーバーに落ちる液体は、今日見たほどには透明で澄んだ色にはならない。けれどそれは素人なのだから仕方がないものだ。1杯分が出来上がったのを確かめて、マグカップにそれを注いだ。
 ふ、と湯気をとばすように息を吹きかけてから、カップの縁に口を付ける。舌で幾度か転がすようにしてから、喉へ送り込む。
 豆の特質なのか、それとも挿れ方の問題なのか、いつもよりも苦味の強いそれに、ひとり小さく眉を寄せた。不味いのではなくて、これはこれで味わいがあるのだろう。ただ今は、その苦味が一際強く感じられるだけだと思う。
 一口二口、カウンターで立ったまま飲み下してから、ソファへ移動する。ハンガーにかけた制服が目に入った。アイロンをかけてぴんと張った白い布は一切の濁りを取り払ったように、外の湿気を取り込んだ部屋を、清涼な空気で清めていくような気がした。
 肩章は彼の金色のものとは違って、黒に幾本かの金色のラインが縫い取られたものだった。
 佐官から将官への昇任は、尉官から佐官への昇任よりもさらに狭き門だ。机上の知識や技術だけでない、広い人脈、交渉力や政治力の高ささえも求められる場所だった。
 退官までの時間を考えれば自分が彼のように巨大な組織全体を見据えて働くイメージはもう湧かない。それよりも海の上にいるほうが気が楽だと思ってしまうのは、貪欲さに欠けると言われても仕方のないことだろう。
 それでも、自分は是が非でも上に立ちたいとも思わない。求められれば拒みはしない。けれど元々、そういう質の人間ではないのだと思う。
 確かに彼とはあの巨大な空母を統括する席をめぐって競い合った。叶えたい理想はあって、その形に向かっていく熱量は今も自分の中では変わらずにあると思う。けれどそれは、立場を奪うことで成り立つ種類のものではなくて、だからもうそれほどに、掴むことに対して積極的な姿勢を見せることは無くなった。


 いつまでも見ていたい。
 彼が、どんな世界を描くかを。その軽やかで聡明な翼で、どんな場所へ飛んでいくのかを。
 その隣に自分が立つ幸福を感じていたいと、彼の描く世界を共有していたいと、ただ、自分が願うのはそのことだ。
 けれどそれが、そう願うことがもし彼の枷になることなら。


「新波さん」
 不意に降った声に我に返る。振り返ると、制服を着た彼が立っていた。
 ベージュ色の照明が制服の白に溶けていく。しっかりとした筋肉のついた肩口から、締まった腰元のラインに沿うその制服は、今でもきちんと鍛えられた彼の身体の美しさを表しているようにも思えた。
「……竜太。帰ったのか」
「ええ、今日は少し、早く帰宅することが出来た」
「そうか」
 そう相槌を打つのを聞いて、彼は手にしていた鞄をフロアスタンドの側に置いた。時刻を確認する。灰一色の景色が続くここ数日は日の出や日没の感覚が曖昧で、知らぬうちに夜を迎えていたことに気が付いた。
「新波さんはどうだった」
「どう?」
「休暇。……少しは、休めたか」
「ああ、……そうだな」
「まあ、私が言うことでもないな」
 寝かせなかったのは私だからな。そんな風に冗談めかして呟いたのを小さく笑って受け止める。
 努めてその話に触れないことが彼の意思なのだろうと、心の中で湧き上がって浮遊し続ける自分の心は、底に押し込めた。少しだけ温くなったマグの中のコーヒーを、もう一口喉の奥に流し込む。
「……今日は、濡れてないか」
 そう言うと、彼は制服の裾を軽く指だけで引っ張った。そうしてやんわりと笑む。
「総監部を出る頃には小雨だったので」
「そうなのか」
「昨日の反省を生かしてタクシーには入り口ぎりぎりまでつけてもらった。だから今日は濡れていませんよ」
「……そうか」
 耳の奥で鳴り続ける雨の音は、今は止んでいた。そのことに気が付いていなかった。窓の外から小さく窓を打つ音も今日は聞こえない。
「あの傘は?」
「え?」
 制服を脱いで整えながら、彼がそうおもむろに尋ねてきた。
「玄関に立てかけてあっただろう。水色の傘。あなたが買ってきたのか?」
「いや、――……あれは、……」
『待ってますから』
 胸の底が波打つように鼓動をひとつ打った。
 開くことのないまま玄関に放り投げたその傘に、今日出会ったあの店主の、何かを見透かすような視線がじわりと重なっていく。心臓の音はわずかに忙しなくなって、こくりと喉に唾を押し込めた。けれど考えないようにすればするほど、今日の一連のやり取りが次々に思い起こされて、心を埋め尽くしていった。低すぎず高すぎない、けれどどこか含んだ色を滲ませた、彼の声が耳の奥で響く。


『あなたが『そう』か『そうでない』か』
『何に苦しんでいるのかも。なんとなく、分かります』


『――本気の恋なんて、するもんじゃないですよ』



「――借りたんだ」
 ようやく形にした言葉が歪な声になっていないだろうかと彼の顔を見上げた。彼はこちらを見下ろして、尋ね返してくる。
「借りた?」
「ああ、買い物に出た先で。雨が強くなったからと、借りて」
「……そうか」
「また返すよ」
「…そうですか。分かりました」
 それ以上は尋ねても口を開かないだろうと彼も悟ったのか、深く追及することはなく部屋着を身につける。
 制服を着ていた群司令の顔を取り払うように肩を少し回すと、身分証の入ったIDホルダーをチェストの定位置に片付けて、ようやく長く細い息を吐いた。
 一瞬、ぴんと空気の張り詰めた部屋に、またゆるりとした柔らかな流れが戻って来る。誤魔化せたとは思っていないが、言いたくないことなのだろうと彼がこちらに気を遣って引き下がったことにやや安堵した。
 けして後ろめたいことをしたわけではないけれど、それでも今日のやり取りを彼に話すのならば、お互いに底に押し込めているそのことをもう一度、直視しなければならないのだろうと思った。避けていいことでないのはお互いに痛いほどに分かっていた。それでも、もう一度曝け出して結論を出すことを、彼も自分も、どこか躊躇しているような気がしていた。


 向き合えば、今、自分たちの出せる答えはひとつだ。
 そうしてこれからも。どんなに違う可能性を探ったのだとしても、きっと何をしても、その答えに辿り着く。



「……何か、飲むか」
 そう告げてソファから立ち上がる。きしりと、小さくソファがたわむ音が響いた。
 自分の動きに合わせるように、真新しい豆の燻したような香りが空気を揺らした。数歩彼に近寄って、知らずしらずの内に硬く引き結んだままでいた唇の端を緩めた。ほんのわずかに訝しむような色が彼の目に浮かぶのを確かめる。何もないのだと言うように、言葉を続けた。
「豆を切らしていたから、買ってきたんだ」
「そうか、」
「総監部じゃインスタントばかりだろう。美味い淹れ方を聞いてきたから、今から淹れてやるよ」
「ああ、……そうだな」
 念を押すように微笑みかけた自分に、彼が何かを飲み込んだように少しだけ苦い顔をして、そうして口元にゆるやかに笑みを浮かべるのを確かめた。



「新波さんの淹れたコーヒーが、飲みたい」




「――歳也さん」
 伸ばされた腕に抱き留められるのは一瞬だった。
 表情を隠すことも出来ずに、そのまま明け透けに零してしまう自分の不甲斐なさに、感情がどうにかなってしまいそうだった。任務ではあり得ない。相手に自分の思惑を気取られることなど、あってはならない。
 奥の心を簡単に引きずり出されるのは、彼の前でだけだ。そうすることを望むのも、彼に対してだけだった。
 この場所でただ2人きりでいるから、だからいけないのだと思う。けれどそれが失くなってしまえば、自分が自分として立っていられるのかも不確かで、先が見えない。
 肩口に引き寄せられる。ほんのわずかに汗を染み込ませたような彼の湿り気を纏わせた肌に、自分の頬が触れる。後頭部に手を押し当てて、彼はきつく身体を抱きしめてきた。せり上がる嗚咽のような熱い何かを、もう零すまいと下腹の奥に押し込める。
「すまなかった」
「……、」
「あなたにあんな話をするのではなかった」
「竜太」
「もっと、きちんと方向性が見えてから、あなたには話をするべきだった」
 耳元で響く彼の声は細く、どうにか形にしたかのように床に力なく溶けて消えていった。
「あなたに、負担をかけてしまった」
 彼のその言葉に耳を澄ませながらも、方向性などあるのだろうかと思った。方向性とは何なのだろう。人事は彼の思惑の行き届かない場所にあって、どんなに手を加えられる場所にあるのだとしても、彼がそれに甘んじるはずもない。
 どんなに時間をかけて考えたのだとしても、何を選んで、何を捨てるのかは何も変わらないはずだ。それは彼も自分も同じで、だから考えた末の彼の考えをたとえ聞いたのだとしても、自分の選択がゆらぐことは無い気がした。



 望むものと選ぶべきものは、永遠に平行線を辿って重なることはない。2つ並んだその制服を纏い続ける限り。
 降る雨をしのぐ傘を差すことは、自分たちには永遠に出来ない。




「――あんたを、苦しめたくない」
「歳也さん」
 手のひらで、彼の頬に触れた。ほのかに赤らんだ目尻に指先で触れて、その指先で丁寧に、その精悍なラインをなぞるように頬を包んだ。彼は自分を腕の中に抱き寄せたまま、その自分の指の動きに従っていた。
 長い睫毛に彩られた虹彩は錆茶を混ぜたような薄い色をして、揺らぐことなくこちらを映している。鼻先がもう少しで触れそうな距離で見つめ合うと、その美しさが手に取るように分かる。その距離にいることを許されているのは自分だけで、そのことがあまりにも幸福で、幸福だったからこそ忘れそうになっていた。
「俺は、あんたの夢の邪魔をしたくない」
「邪魔など」
「あんたの重荷や、負担になるくらいなら。俺がいることで、苦しまなければいけないなら」
「苦しんでなどいない」
 飽きることなく、そうして刻みつけるように頬に触れていた指を静かに外した。目を一瞬閉じて、息を吸う。びりびりと裂けるかのように痛みを放ち続けていた喉から、その言葉を押し出した。背を抱く力が強くなった気はしたけれど、それさえも愛おしくて、そして悲しいと思った。
「――俺は、あんたの手を、離さなければいけない」
「歳也さん」




「俺は、竜太の枷に、なりたくはない」




 それが無けりゃ死んでしまう恋なんて。現実には存在しない。
 曇り空の、ほのかに濁った青い色の傘が、瞼の裏で揺れた。止んでいたはずの雨音が、またさらさらと流れて落ちる涙のように外から聴こえてくるのが分かった。






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