食べなれ



寿限無寿限無、五却のすりきれ、海砂利水魚の水行末雲来末風来末、食う寝る処に住む処。
満席の客席は、ずっとしんとしていた。
ああ、あかん、底抜けをどこで入れるのかも分からんうちに、最後の下げまで来てしもた。
途中までは確かに、四草に誘われて出たあの徒然亭の会にいたはずやのに、気が付いたら弟子入りしてすぐの、いつかの高座に変わってしまっていた。大きくも小さくもないホールは、トリのオヤジの落語を待つ人たちでいっぱいだ。
『おい、小草若、客席が皆、凍ってしもてるで、』
どこからか、オヤジの声がした。
『お前のしょうもない落語なんか聞いて、誰が笑うねん、稽古せえ、稽古。』
いつかの草々の声が聞こえて来る。
散々ごねてたくせに、草々は驚くほどあっさりと木曽山の師匠になってしまった。
仏壇に線香を上げに行くたびに、顔を合わせるのが苦痛になっていった。オレよりもずっとあの家に馴染んでいる三人の光景の中に、オレの居場所はないと思い知るばかりの日々。
師匠の貫禄が付くのはまだまだ先やけど、こいつは段々師匠らしいになって、オレが子どもみたいに角突き合わせてた男はいなくなっていくんやな、そう思うと苦しかった。
この先、ずっと寿限無だけをやっていったところで、いつかは飽きられてまうやろ。そのくらいのこと、オレかて分かっとるわ。
それでも、出来へんのや。
新しい話は覚えられん、オヤジほどの洒脱も、貫禄もない。
はてなの茶碗をやりたい、と言った時の、『無理、』と断じて曖昧に笑う兄さんの顔が見えた。
これまでに失敗した高座をいくつも思い出したら、なんやあかん、涙が出て来た。
今のオレがべしょべしょに泣いて寿限無やったところで、もうオヤジは来てくれへん。
さくらんぼのサゲみたいに、自分で泣いた池の中にドボンと飛び込んでしまえたらええのや。……出来へんけど。

――せやから、言うたでしょう。今の小草若兄さんの落語には、一文の値打ちもない。

オレの落語をはてなの茶碗に例えた四草の言葉が、ゆっくりと胸の中にこだました。



外から雀がチュンチュンという鳴く声が聞こえて来て、薄暗がりの部屋で目が覚めた。
部屋の中はまだ薄暗いが光が入って来て、一か月前とは違う日の差し方をしてるのが分かる。
「……ティッシュどこやった。」
独り言をつぶやいてから、手を伸ばして誰もいない部屋で枕元の小箱を探すと、そのへんにあるやろ、のそのへんが妙に遠くになってて笑ってしもた。
二、三枚取ってから、目尻に流れる水を拭ってから、ついでに垂れて来た鼻水をどうにかしようとちんと鼻をかんだ。
目が覚めたら泣いてたの、もういつぶりや。

――なんやヒトシ、怖い夢でも見たんか?
――別に、なんも怖いことないし。
――ええからこっちの布団入り、オレもう眠いわ。

オヤジのことをお父ちゃんと呼んでた時代に、何度か布団の中に入って寝たことがあった。声を掛けて来るのはお母ちゃんでも、オレを布団に入れてくれたのはオヤジやった。
オレはオヤジが年食ってから出来た子ていうのもあって、小さい頃は割と可愛がられてたとは思う。
二階の狭い部屋から内弟子部屋に移り住む前のことや。
草原兄さんが弟子入りしてうちの離れに住むことになってからは、子どもみたいに甘えるのは、もう止めなあかん、とオヤジに言われて、オレの子ども時代は強制的に終わりになってしもた。
オヤジの意見は絶対で、そうかて、僕まだ子どもやけど、とは言うても聞かれへんかった。兄さんが出来たんは確かに嬉しかったけど、あれからオレはずっと、寂しい気持ちを抱えたままや。
弟子になってもお前はオレの子どもや、とか、そういう言葉を掛けて来るようなオヤジとはちゃうかったし、『おかみさん』になったお母ちゃんも、オヤジに習ってそういう方針で行くことにしたみたいやった。
それでも。
無理やと分かってても、もっと話をしておけば良かった。もうあの頃みたいに布団に入れてくれる存在は、この世のどこにもいなくて、オレは一人になってしもた。

ぐうと腹が鳴った。
寂しい寂しいと言っていても、腹は減る。

――皆、たんと食べなれ~。

小草若ちゃんの落語、おもろいと思うけどな。
オレにかて、そんな風に言ってくれる人、ひとりおるやないか。
金あるやろか、とコートの内側から取り出した通帳の残高を見て、がりがりと頭を掻いた。
移動する金もすっかりのうなってしまう前に、一遍だけ、小浜行ってみよか。
外はすっかり日が高くなっていて、オレは近くのコンビニに行くために立ち上がった。

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