良い夜

 十二少はお気に入りのスニーカーで階段を一足飛びにかけあがった。必要最低限のものしか置いていないせいでずいぶん素っ気なく見える部屋に入ってすぐのところの簡易ベッド。その上で横たわっている洛軍をみとめ、十二少はぴたっと立ち止まり、それからゆっくり男の側へと近づいた。
 陳洛軍はひっそりと眠っている。かなり大きな足音を立てたうえ、こんなに近くで覗き込んでみているのに、およそ目を覚ますそぶりはなかった。
 十二少が洛軍と出会うよりもいくらか前のこと。酒の席で信一が語ったところによれば、ここ九龍城砦にやってきたばかりの陳洛軍は手負いの獣みたいな目をしていたらしい。城砦に入り込んだその夜、信一たちと一戦交えたあとで龍捲風にぶちのめされたのだからまあ実際に手負いではあった、回復は人並み以上に早かったが、とは四仔の談である。あいつの目すげえぎらぎらしててさあ、と口にしながら煙草の煙をくゆらせる信一が、なんだかいつになく楽しそうに見えたのを、十二少は覚えている。
 かつて獣であった洛軍が安らかに眠りに落ちている現在の姿は、どちらかといえば人に慣れた猫のように思われた。洛軍が深く息をできて、眠れるようになってよかったと素直に思う。悪い夢にうなされることも人の気配を警戒しておびえることもなく、自分の居場所を定めている。徐々に城砦に馴染んでいく洛軍の姿は、たびたび幼少のみぎりの自身と重なった。
 このまま寝かせておいてやろうと思い直して、十二少はそっときびすを返す。部屋に足を踏み入れたときとは反対に、なるべく音を立てないように歩み去ろうとしたとき
「十二?」
 かすれた声が背にかかった。振り向いた先では洛軍が身を起こしている。
「お、起きた。おはよう」
「おはよう……」
「悪いな。いいよ寝てて」
 洛軍はベッドの近くに立っている友人をしばらくぼんやりと見あげたあと、薄暗い部屋と階下から届くがやがやというざわめきで大体の時間を察したらしく、はー、と大きなため息をついた。ばつが悪そうに十二少から目をそらして、手がせわしなく首の横あたりを幾度かなでる。
「いや、いいんだ。寝過ごした」
 今日の仕事を終えたあとで仮眠をとって、夕方までには目を覚ますつもりだったのだとつぶやく。もうすっかり晩飯時である。普段からきちんと規則正しい生活を送っている洛軍にしてはめずらしいことだ。十二少は腕を組みながら、いいんじゃねえの、と思ったままを口にした。
「たまには休めってことだよ」
 再び十二少を見あげた洛軍はちょっと困ったように眉を寄せ、それから用向きを目で問うてきた。
「麻雀の面子足らねえから誘いにきたけど、寝てたから帰ろうとしたとこ」
「ああ……」
 逡巡するように視線が床に落ちたのもつかのま、
「行く」
 と明瞭な声が返ってきたので、十二少は思わず笑ってしまう。
「来る? よっしゃ」
 洛軍はいつでも決めたら行動に移すのが早く、今もさっそくベッドから立ち上がっては、大きくぐっと伸びをしている。腕をまわした拍子に、信一からのおさがりだというシャツにかくれた肩の骨がバキッと鳴るのが聞こえる。その簡単な身支度の様子は本当に、城砦のあちこちで見かける猫に似ていた。靴をつっかけるようにして雑に履き直した洛軍が十二少の左肩に軽くふれ、起き抜けの手のひらはジャケットの生地越しにも伝わるくらいに温度が高い。
「お待たせ。行こう」
「おー」
 微笑む洛軍ににっと笑い返す。今度こそふたりで一緒に出口へとむかう途中、十二少はふと、こいつと友だちになれてよかったな、と思った。獣にたとえられた両目がすがめられたときにはこんなにも優しくなることなんて、もうずいぶん前から知っている気がした。

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