男子高校生の日常 その10


屋上には、寒風が吹きすさいでいる。
憂鬱な曇天の下、詰襟のホックを上まで留めて、弁当をかきこんでいると、教室で担任に呼び止められていた徹郎がやっと屋上に顔を出した。
譲介は、風避けのため、食べ終えた弁当の空き箱に蓋をしながら、こちらに近づいて来た徹郎の真横に移動する。
これで寒くはない。
徹郎はどこで買って来たのかコーンポタージュの缶をふたつポケットから出して、これやる、と隣の譲介に言った。
粒が缶に残るような飲み物は飲み残しが出来るのでずっと苦手だったが、秋になると妙に腹が減るのでとりあえず手を伸ばす。
自販機から出して暫く経つのか、さして熱くもなく程よいあたたかさだ。
リレーのバトンのように受け取って、昼飯を終えても冷えたままの指先を当てて暖を取る。
十月の衣替えが終わっても、まだ冬本番の寒さには間遠だ。
それでも、譲介はずっと、秋が嫌いだった。
この土地は、湿って暑い梅雨も、寒く凍える晩秋も、憂鬱な季節だけがやたらと長い。
このところは、徹郎との勉強会も以前より頻繁ではなくなっていた。今日のように七限まである日に徹郎の家にも寄ろうものなら、帰宅する頃にはとっぷり日が暮れてしまうようになったので、図書館で次の日の数学と英語に取り組んだ後、校門で解散することにしていた。
時折徹郎が飲んでいたあの炭酸水が似合う夏が、今は恋しかった。
「自販機、ぬくい飲み物増えたよな。」
ほとんど自販機のある場所へは行かないし自発的には買いもしない譲介は、そうなのか、と問い掛けるのも面倒で「次からコーヒーでいい。」とだけ言った。
徹郎は我儘なヤツ、と笑い、プルタブも開けずにいたポタージュの缶を床に置いた。
秋口から伸ばしていた徹郎の前髪は、気が付いたら元の長さに戻っていた。
おふくろに借りたドライヤーを掛け続けるのに飽きた、と本人は主張しているけれど、信頼できる情報筋からは、ドライヤーで乾かしているときに前髪をひと房巻き込んで焦がしてしまったので慌てて床屋に切りに行ったのだという話を聞いた。譲介は、その時飲んでいた牛乳を危うく吹き出しそうになった。
今も、そう、思い出しては口の端が緩みそうになっている。
無理やりにでも話を逸らすため、来月はどうする、と言った。
今月に入って、雨が降り込む日が多くなった。
もうしばらくすれば、この屋上もすっかり雪に閉ざされてしまうだろう。
「教室か学食か。」
お前が好きなように、と譲介は言った。
こちらの徹郎は、この寒さじゃな、と頷きながら、ポタージュの缶を入れていたビニル袋からアルミホイルの包みを取り出す。
中身は、海苔を巻いた三角むすびだった。しかもばかでかい。
二限と三限の間に早弁をしていた徹郎から分けて貰ったおむすびは、徹郎の母親が朝から揚げたという海老天がちんまりと載っていて、まるでハレの日のピクニックのようだったが、あれは確かに普通の大きさだった。徹郎が今手にしているのは、その倍くらいの大きさがある。
さして不格好でもないが、妙に目立った。
「……それ。」何だ、と口にする前に、「自分で作った。」と答えが返って来る。
「少し練習しとけってオフクロが。」
そう言って、大口を開けしっとりとした海苔に包まれたおむすびを頬張っている徹郎の横顔を、譲介は眺めた。
何の練習かは言わなくとも分かった。
人間は、三食カップ麺で暮らしていくわけにはいかないことくらい譲介も分かっている。
もし大学を機に一人暮らしをするというのなら、自炊の練習というのは、確かに必要だった。
「県外に行くかどうかもわかんねえってのに、気が早いんだよ。」
そんなことはない、ととっさに言おうとして、徹郎が求めているのはそういう言葉ではないだろうと思って口を噤む。
中学の三年間のようなつまらない時間も、永遠に続くと思っていたが終わりを迎えてしまった。
桜は散って、夏が来て、今は紅葉が赤く染まっている。
譲介と徹郎が過ごすこの時間には、はっきりとした期限がある。そんなことは考えずにいたかったが。
「来月、もう十二月か。」と言わずもがなのことを徹郎は言った。明日のことさえまともに考えてなさそうな徹郎がそんなことをわざわざ口に出すのは、学期末と共に迫りくるテストのことを考えたくないからだろうか。平常運転だな、と思いながらコーンポタージュの缶のプルタブを開けた。
一口飲んでみると、トウモロコシの粒が中に入っていて、妙に甘く感じられた。
悪くないけれど、自分で買うほどのものでもないような味だ。
譲介は、会話のハンドルを別の方向に切った徹郎のことを横目で見た。
つまらなそうな顔をしているかと思ったら、妙にちらちらと譲介のことを伺っている。
冬の休みの間のことを話したいのだろうかと、ふと思った。
「言っておくけど、雪が降ったら、お前の家に通うのは無理だから。」と譲介は言うと、まあそうだな、と徹郎は頭を掻いた。
中間テストが終わった時点で、譲介の成績は妙に高位に安定していた。徹郎の点数を抜かすにはまだ足りないが、赤点スレスレの境界線上にいた頃とは教師の態度がはっきりと違っていることを肌感覚として感じていた。
もう、勉強のやり方は分かっていた。隣にいるにわか家庭教師の手を一度離れてもいいくらいではあったけれど、一度習慣になってしまった放課後の勉強会も金曜日のカレーも、譲介にとっては居心地が良すぎて、なんとなく言い出せないままに十一月まで来てしまった。
「期末までどうすっかな。教室か、図書室か。」
「放課後は真っ直ぐ帰る。」
「正気か?」三学期のテストどうすんだよ、と徹郎は素っ頓狂な声を上げた。
「仕方ないだろ。冬はやることが多いんだから。大雪の日は五時起きだぞ。」
学生なら誰もが通過する道ではあるのだけれど、そのうち、通学にはゴム長靴と手袋が必須になってくると思うとひどく憂鬱だった。学園から支給されるのは伸縮性のある化繊の毛糸の手袋で、これが妙なカラーリングで実にダサい。冬本番にもなると、薄手のスキーで使うような手袋でもないと防寒にはならない上に、学校に近づく頃には人目を気にして外してしまうことになる。
「……気の毒だな。」ブルータスお前もか、と言いながら徹郎は肩を竦めた。
他人事だ、と思ったが、うんざりした顔をしているということは、徹郎もまた家で何か役割分担があるのかもしれなかった。
「っ、とお前にまだ言いたいことあるけど、また後でいいか。時間だ。」と徹郎は腕の時計を見た。
「今言えばいいだろ。」
「………今でいいのか?」
まあお前がそういうなら、と徹郎が口を傾げるので、譲介は早く話してしまえ、と手にした弁当の空き箱の包みを振って先を促す。
「譲介くん、今年のクリスマスは金曜日だけど、うちに来てくれるかしら。チキンカレーなんてどう、……っておふくろが。」
「………。」
徹郎が声真似をする人間は多いが、譲介の知っている中でも最も調子に乗りやすい男が唯一下手なのが、本人の母親の物真似だった。
感情にブレーキが掛かって、笑いを取る方向に行けないのだろう。そんな顔をするなら声真似を止めたらどうだ、と余計なことを言いたくなって譲介は口を噤んだ。それにしてもチキンカレーか……。
いや、どう考えても徹郎が今ここで取り上げたいメインテーマはチキンカレーではない。
「金曜?」と譲介が確認すると、徹郎はうろたえたような顔をした。乗り気になるとは思ってもいなかったという顔だ。
そもそも、自分で作る訳でもないチキンカレーで僕を釣るつもりだったくせに。
「用事があるなら断れ。どうせ抜けらんねえクリスマス会とか、オレに隠して作った女に会うとか、何かはあんだろ。」
人を色魔扱いするな、と反射で徹郎の腹に肘を入れた。そのうち徹郎ばかりが電柱のように伸びてしまったら、肘を入れても腰骨に当たるのではないだろうかと思うが、今の徹郎の身長ならせいぜい肝臓に決まってしまうくらいだ。
「……っ、お前なあ。手加減って知ってるか。」
「くたばれ、徹郎。」
クリスマス会は、確かにあるはある。
徹郎の言う通りだが、そもそも近所の公民館が空いてる土日の日程で先に済ませてしまうのだ。
後はどこかからやって来るサンタがくれる決まった予算の中での文具のクリスマスプレゼントを全員で開封するくらいで、当日の用事は特にない。
「四六時中お前といるのに、そんな時間が僕にあるとでも?」と睨むと、徹郎は妙な顔をした。
それが、母親の名代としての顔なのか、徹郎本人の感情の表出かは分からないが。
考えておく、と譲介が言うと、分かった、と徹郎が言った。




夕方には雲の晴れ間が見えて、夕焼けが空を染めている。
徹郎が一週間の予習を終えたノートを見ていると、このところ手書きの文字が少し雑になって来ている。
それが少しだけ気になった。
ぶらぶらと人のいなくなった校門を出たというのに、徹郎は、そっちに用事がある、と言って譲介の横に付いて来た。
首には青いマフラーをぐるぐると巻いている。長くて、細い毛糸。手触りが、妙に柔らかそうに見える。きっと、機械織で編まれた既製品だろう。編み物は、一般的な冬場の趣味として田舎の人間に膾炙していて、中学までは、太い毛糸で編まれた不格好な手編みのマフラーをしてくるものも多かった。
箪笥から出したばかりの樟脳の匂いが、譲介の鼻先をくすぐって、また消えて行った。
足元は、街路樹から落ちた落葉がガサガサと音を立てる。徹郎は、そのガサガサする音が好きらしく、落ち葉のあるところに寄って行っては踏みしめている。徹郎は、実際の所譲介より成績は上だが、成績の順位と同じくらい賢いわけじゃない。
大学に進学したら、こっちが見てないところで妙な女や妙な宗教や、麻薬とか、あるいは、かつての譲介と同じくらいにはイカレた男に引っかかるのじゃないかと。そんな風に考えてしまう。徹郎は、譲介の弟でも兄でもない。ただの他人だ。そう思っていなければならないはずなのに。


秋が深まるにつれて、買い食いだの何だのと理由を付けて、時々、徹郎はこうして帰宅途中のところまで譲介に付いてくることが多くなった。
人の多い道に出ると、オレこっちだから、と言って譲介とは別の道をぶらぶらと歩いて行く。一度、どんなところに行くのだろうか、それこそこの近くに徹郎の目当ての娘がバイトをしている喫茶店でもあるのだろうかと気になって後を付けたら、ぐるりと回っていつものバス停のふたつ手前のところで、大人しく単語帳を開いてバスを待つだけだった。そのうち、ぱらぱらと雨が降り始め、鞄の底から出して広げた折り畳みの濃緑の傘が徹郎の顔を隠してしまったので、譲介も、思い付きの張り込みごっこを諦めて駅に向かって走った。徹郎の家からは譲介の使う駅を挟んで逆の方向にある。バス系統が色々な方向に別れる手前のところに家があるので、十五分も待てばバスは来て、徹郎が去って行った。
それを見て、譲介は妙な気分になった。
こんなことを思い出してしまうのも、昼に、徹郎がクリスマスの話なんかをしたせいだ。
譲介は、他人を惹きつける整った顔をしていることを疎ましく思っていた。こうして表面だけを見て好かれることや、憎しみや蔑みの対象になることには慣れていたけれど、徹郎は、なぜか飽きずに譲介と付き合っている。来月になっても、あるいは年を越えても、こうして譲介の隣にいるつもりらしい。譲介の方も、大して楽しくもない話を、徹郎の口から聞くのは嫌いではなかったけれど、どう考えても徹郎の方が物好きの度合いが強い。
襟のホックを外していた徹郎がこちらの視線に気づいて「……なんだよ。」と譲介に言った。
「別に。」
何か言わなければ、と思ったけれど、何も思いつかない。
今日首に巻いている濃紺のマフラーが、妙に暖かそうだと思うだけだ。
「それ、いつから。」
「……ああ、マフラーか。中学のときにしてたのは、去年の受験の帰り道に忘れてそれっきりになっちまった。」
「ふうん。」と譲介がいうと、徹郎は居心地が悪そうな顔をした。
「おふくろが、この時期になるといいのが安かったから、っつうから。」
カシミヤ、と徹郎が口にすることばが、ウールとかポリエステルといった毛糸の種類なのか、ミンクとかキツネとか、動物の名前なのかは譲介には分からない。ただ、こんな顔をしているということは、きっと値が張るものなのだろう。
「お前は、マフラーしねえの。」
「そのうちな。」
衣替えは終わっている。譲介に割り当てられたのは、かつてあさひ学園に住んでいた誰かのお下がりのセーターの毛糸を解いて作ったマフラーで、首に巻けばチクチクと肌を刺す上に、好きな色でもなかった。
くだらない話をしていると、あっという間にこの間も別れた三叉路に来てしまった。
信号待ちは、譲介が気付かない振りでぐずぐずとボタンを押さずにいるせいだが、そのうちに救急車が走り来るサイレンの音がしてきたので、手を伸ばそうと思ったらしい徹郎もその場で立ち止まっている。
徹郎が、譲介、とふと名前を呼んだ。
隣を見ると、徹郎がぐるぐるに首に巻いたマフラーを外している。
人がいない間に、真田の家の坊ちゃんらしく格好をつけた巻き方に直そうかという腹積もりなのだろうか。
あるいは、クリスマスをどうするかの答えを待って、じゃあな、のひとことを言いあぐねているなら、譲介の方から口にした方がいいかもしれなかった。
お前に貸しとくわ。
不意に徹郎が言って、カシミヤのふわふわが譲介の首に巻かれる。
「樟脳くさいけど。今日しか使ってねえし、まあいいだろ。」
クリスマスに返しに来い、と徹郎は真面目くさった顔つきで言って、譲介に背を向けて走って行った。
「馬っ、おい、………。」
いらないからな、とひとこと言って突き返すためだけに走って追いつけないことはなかったけれど。
今それをすると、予定の電車を一本乗り過ごす羽目になる。マフラーを戻した挙句、寒いホームで一時間近く空腹を抱えて佇むしかないとしたら、それこそ馬鹿のすることだ。
中学の時なら、道端に捨てていただろうが、カシミヤには罪はない。
首に無造作に掛けられた青いマフラーは、徹郎の体温が残っているのか妙に暖かい。
これが手放せなくなったら困るな。
そんなことを思いながら、譲介は、クリスマスまでの借り物のマフラーを、丁寧に巻き直した。

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