ワンルームに吠える犬

 明浦路司は財布の紐が固い。こと自分に関しては。
 何を選ぶにしても価格を基準にしているところがある。例えば五百三十円の半熟卵入りラーメンよりも四百三十円の素ラーメンを選ぶし、食べたいと思った定価のドーナツよりも半額になっているあんパンを選ぶ。主に自分の欲、ああしたいこうしたいを押さえつけて財布が傷まない方を選ぶ。自分の食事だからとにかく腹に溜まればいいのだ。
 それらは全て、青年期からの欠乏に起因している。
 明浦路司の人生において、金が足りていることはほとんどなかった。中学生の頃にいきなり心奪われてしまったフィギュアスケート。始めたくとも莫大な費用が大きな壁となった。親に出してもらうことは出来なかった。もちろん学生の身分の自分で出すことも出来なかった。
 せめて氷には乗りたい、と思ったところで、そもそもリンクへの入場料が高かった。何となくとっておいたお年玉は早々に尽き、アルバイトをしても満足に練習が出来るほどは通えない。
 足りない。とにかく足りなかった。
 成人して念願のコーチが現れても同じだった。コーチがいたとてレッスン代がなければレッスンは受けられない。
 その時の司に出来たのは、自分を削ることだけだった。最低限度、それだけは残して。削って削って削って絞り出したものは出来る限りスケートへ。
 その姿勢は全く褒められたものではなかった。若い頃しか出来ない無茶と言ってしまえばそれまでだが、確実に健康は害していた。周囲はそんな司を叱った。そもそも身体が資本である競技の選手である以上、身を削るのは本末転倒だ。
 それでも、あの時に司に出来る最大限だった。
 だからこそ今でも削ることが出来る部分は削ってしまう。いつの間にか身に染みついてしまった生活習慣だ。それを咎める人もいたけれど、司は笑って誤魔化すだけだった。だって周りには迷惑をかけてないし、というのが内心である。健康を害さない程度の生活は出来るようになってきたのだ。

 そんな男の住居が質素になるのは当然だった。
 質素というより貧相。今時どこに残っていたんだと言いたくなるようなボロアパート。令和を置き去りにして平成を通り過ぎ、昭和に首を突っ込んでいるようなアパートだ。
 一人暮らしを始めた明浦路司は、そんな家に住んでいた。長きにわたり下宿先としてお世話になっていた加護家からようやく独立したのだ。
 今時流行のリノベーション物件、なんてものではなく、正真正銘のボロアパート。い草の香りを出し切った出がらしのような畳のワンルームで司は生活を始めた。
 明浦路司はとにかく安いという言葉に弱かった。それに加えて暮らすのは自分だけなのである。最低限の寝る場所と屋根さえあればいいや。あとは通勤時間とのバランスを見つつ、一番安いところで……。そんな条件で選んだ家。
 だって型落ちのスマートフォンで格安simを利用している男が家賃という最大の固定費を見逃すわけがない。固定費は安ければ安いほど嬉しい! あとはどうにかなる。住めば都、という言葉もあるくらいだし……。

「それはおかしい」
 それに真正面から異議を申し立てたのは夜鷹純であった。
 家賃がかからない方がいいというのなら、夜鷹のマンションに引っ越してこればいい。いや、引っ越してくるべきだ。夜鷹はそう申すのである。
「でも自立したくて加護さんの家から出たわけですし……」
「僕たちは恋人同士だろ」
 深い溜息と同じくらい深い皺が夜鷹の眉間に寄せられている。恋人同士、という言葉の甘やかさやむずがゆさにはにかみつつも、明らかに責められている司は居心地の悪さからもぞもぞと目をそらした。
 いきなり司の部屋にやって来た夜鷹は、座布団の上に足を組んで座っていた。
 しかし本当に似合わない。ここがせめて格式高い和室であれば高級料亭のようにも見えただろうが、下に敷かれているのは色褪せた畳だ。こんなところに夜鷹純を座らせた、と知られたら四方八方から苦情が来るに違いない。
 そもそも司自身が一番苦情を申し立てたい。フィギュアスケート金メダリストの夜鷹純をこんな貧相な部屋に座らせるな。招くな。……正しくは招いていないけれど。勝手にやって来るのだ、夜鷹純が。
 しかしその夜鷹純は恋人なわけで、恋人が家にやって来るのはまあ普通のはずで、だからその恋人が夜鷹純である限り夜鷹純がここに来るのは間違っていないわけで。あれ、自分なんぞが夜鷹純の恋人という時点で間違っているのではないか……?
 そう思いつつも司は絶対にその言葉を口にしなかった。絶対に夜鷹の機嫌を損ねるからだ。機嫌を損ねた夜鷹は面倒だし何をされるか分かったものではない。ここ数年の付き合いで学んだことの一つだった。
「……純さんがそう言ってくれるのは嬉しい。嬉しいですよ」
「じゃあどうしたらいいか分かるよね」
「でも恋人同士とは言え、甘える訳にはいきません。あの部屋の家賃を折半なんてとても俺には出来そうにないですし……」
 夜鷹の家はこの県内でも特有の高級マンションだ。夜鷹に相応しく、司には相応しくないマンション。あの家の家賃は、などと考えただけで気が遠くなる。例え折半でも司の月収では到底足りないだろう。
「いらない。だから早く越してきて」
「だからそれだと俺の気が収まらないんですってば。そもそもあの家だと気が休まらないし……」
「慣れればいいだろ」
「慣れるわけないでしょ!」
 夜鷹のマンションとは入り口にコンシェルジュがいるようなマンションだ。コンシェルジュは自分を夜鷹の客人と分かってくれているようで、司が一人でエントランスに入っても深々と一礼をしてくれる。それを見る度ヘラヘラペコペコと頭を下げて自分みたいなもんがすみません……と思う司の心情なんて、夜鷹は全く分かってくれないのだ。汲んですらくれない。司がそんな心情を吐露しても首を傾げるに違いない。慣れなよ、と同じように言う夜鷹が容易に想像出来る。だから司は言わない。
 夜鷹は再び深々と溜息を吐き、煙草を取り出して吸い始めた。とっくに黄ばんでいる壁紙に、司はベランダや換気扇の下で吸ってくれと言うこともしない。そもそも自分以外には住んでいないアパートだ。このアパートの隣の敷地に暮らしている大家からは好きに使っちゃって、と入居の時に言われている。
 司が引き寄せた灰皿に灰を落としていた夜鷹は、摘まんでいた煙草の吸い殻を灰皿、から少しズレた場所に落として、
「ちょ、ちょっと! 何するんですか!」
 司は急いで灰皿を動かし、吸い殻を受け止めた。思わず夜鷹を睨みつけると、夜鷹は同じように司を睨んでいる。
「すぐそこから出ればいい。ここは君しか住んでないし」
「だからと言って……! 故意はダメでしょ!」
「これくらいしないと君は動かないだろ……」
 はあ、ともう何度目かも分からない溜息を吐いている夜鷹を見るとまるで司が悪いような気がしてくるから不思議だ。絶対に夜鷹が悪いのに。
 あまりのことにばくばくと動く心臓を抑えながら、司は深く息を吸い込んで吐き出した。アンガーマネジメントなら得意な方だ。少なくとも目の前の夜鷹よりは。
「……君がここに住む利点と言ったら、セックスの時に君が声を抑えないことだけど」
「はあ!?」
 アンガーマネジメントが得意なんて戯れ言だったかもしれない。いや、それよりも目の前の怒りの原因をまき散らす男の方が悪い。いきなり何を言い出すんだ。
「でもそれなら僕の家だって防音はしっかりしてる。どうしてあそこだと声出さないの」
 そりゃ恥ずかしいからだよ! とはとても言えなかった。あの家のとてもいいベッドの上で羞恥に耐えている時のように、司は下唇を思いきり噛んだ。付け加えればちょっとカマトトぶっている部分もあるのだが、それはまあ、割愛。
「そもそもこんな環境じゃ声なんて漏れ放題だ。この前も君の喘ぎ声に合わせてそこの犬が吠えてたよ」
「はァ!?」
 ここらの外飼いの犬と言えば、このアパートの斜め前の鈴木さんの家のチャッピーだ。茶色の雑種犬で、司が通りかかると尻尾を振って寄って来てくれる。そんな人懐っこいチャッピーの顔が浮かんできていたたまれない。飼い主の鈴木さんからは畑で採れすぎたという茄子やきゅうりを頂いたこともある。すみません、俺のせいで吠えさせてしまって……。
「ねえ、話聞いてる?」
「あなたがいきなり変なこと言うから!」
「変なことじゃなくて事実」
「事実だとしても……!」
 言っていいことと言わなくてもいいことがある。これは完全に後者なのではないだろうか。いや、言ってもらってよかったのだろうか。このままチャッピーに無駄吠えさせ続けるのも申し訳ない。
「君の声が漏れるような環境でセックスするのは嫌だ」
「じゃあしなきゃいいんじゃないですかね……」
「いいの?」
 覗き込んできた目は澄んでいる。それに反論出来ない自分も自分だ。自分の薄っぺらい煎餅布団で抱かれるのは、夜鷹の荒々しさが伝わってきて悪くないのだ。司はそういうのが嫌いではない。それが絶対に目の前の男には伝わって欲しくなくて、司は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……じゃあするときは純さんの家行きます」
「そのまま住みなよ」
「だからそういう問題じゃなくて……!」
「最終的には一緒に住むんだから同じだろ」
 呆れたように夜鷹は言う。夜鷹にはきっと今の司が駄々をこねるこどものように見えているに違いない。
 しかしこのままはいそうですねで夜鷹の言葉に従ってしまうのも癪だった。
「でも例えば、同棲がきっかけで別れるかもしれないじゃないですか」
「別れない」
「何があるか……」
「別れない」
 司の言葉に夜鷹は即答した。食い気味の返事に司の方がたじろいでしまう。
「純さんに出来るんですか? 生活のすり合わせとか、譲歩とか」
「今だってしてる」
 だからこうして君に会いに来てる、と言われてしまえばぐうの音も出ない。
 でも、と臆病な部分がどうしても顔を出す。それは普段あまり見ないようにしているものだった。それでもいつも司の心の隅の方に居着いているものだった。でもそのうち別れるんじゃないの、絶対なんてないし……。
「司」
 夜鷹は真っ直ぐ司の目を見ている。
「正直無駄な抵抗だとは思ってる。……でも司の好きにすればいい。別れる気もないし」
 どっしりと座っている夜鷹は長期戦だと腹を括ったらしい。そのうち適当なところで諦めてくれないかな、と思うが、たぶん無理だということも分かっている。一度手に入れると決めたものは絶対射止める男だ。射止められてしまった前例を身を以て知っている手前、司にはどうすることも出来ない。

 結局、司は夜鷹の家には週四で通うことになった。元々週二のペースで行っていたから単純に二倍だ。
 その代わり週三で夜鷹が司の家に来ている。呼んでいるとかではなく、勝手に来ている。司が自宅に帰ると、おかえり、と夜鷹に出迎えられることも珍しくなくなってしまった。……合鍵を渡した覚えはないけれど。司は深く考えるのをやめた。
 そのうち本当に合いの手のように吠えている犬の声を聞いたり、どうせ毎日会うなら暮らしやすいところで生活した方がいいのでは……? と気が付いた司が週七で夜鷹の家に帰るようになる日も、そう遠くなかったりする。

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