夜露の音

※有碍書回想「萩原と三木」、イベント「潮風にあてられて」回想、萩原の覚醒後散策ボイス「中庭」の要素を含みます



「はあ……」
 司書室で机に向かう|和仁《なぎと》が、ため息をついていた。ちょうど部屋へ入ってきた室生犀星が、それに気付いて足を止める。
「どうしたんだ、司書さん」
「犀先生……」
「ほらこれ、昨日の潜書についての資料だ。役立ててくれ」
「ありがとうございます」
 和仁は顔を上げた。いつもと変わらぬ調子の犀星の声に安心感を覚える。
「ため息なんて珍しいな。悩み事か?」
 よほど思いつめた顔をしていたのだろうか、犀星の声は気遣わしげだ。ちょうど折よく頼れる相手が現れてくれたタイミングの良さに、十字を切りたくなった──ともすれば信徒としてあるまじき心境になりかねないため、思いとどまったが──。
「……はい」
 司書室には、他に誰もいない。助手である北原白秋も、今は不在だ。
 和仁は、意を決して口を開いた。

 曰く、萩原朔太郎と三木露風の不仲について。
 人見知りをして他人と距離を置くことはあっても諍いを起こす事はない朔太郎が、露風に対しては強く反発し、真っ向から対立している。朔太郎は露風の詩に対する姿勢に否定的で、「形ばかり繕った言葉遊び」とまで言うのだから、相当である。
 2人の仲立ちをしようと思ったこともあった和仁だが、当の露風から「心配はいらない」と言われてしまったという。
「白秋先生にも相談してみたんですけど、『2人ともいい大人だから放っておけばいい』と仰るばかりで……」
「そうだろうなぁ。そもそも、白さんと三木は別に不仲ではないし、言ってしまえば無関係だ」
「それは……はい」
「こればっかりはどうしようもない。朔のあれは生前からのものだ、君が気を揉むこともないと思うけどな」
「……でも、心配です」
 そう言ってうつむく和仁に、犀星は苦笑した。
「難しいか。君は白さんとも、三木とも親しくしているからな。朔のことだって、いつも気に掛けてくれる」
「……」
「なあ、司書さん。……君が心配しているのは、実はもっと他の事じゃないか?」
 眉を下げて笑う犀星に顔を覗き込まれ、和仁は目をしばたたかせた。その表情を見て、犀星は「図星だな」と笑みを深くする。
「この際だから、俺に話してみないか? お節介かもしれないが、俺は君のことも心配だよ」
「僕は……いえ、ありがとうございます、犀先生」
 ぽつりぽつりと、和仁は自らの胸のうちを明かしはじめた。



❀ ❀ ❀



 また別の日。
「おーい、朔いるか……お、いたいた」
 自室で本を読んでいた朔太郎に、犀星が声をかけた。
「犀……どうしたの」
「いや、ちょっと込み入った話で……三木との事なんだが」
「彼について話すことなんてないよ」
 途端に、朔太郎の顔が険しくなった。ぴしゃりと拒絶の意を示され、犀星は苦笑する。不愉快そうに顔を歪めた朔太郎の心情は気掛かりだが、先日の和仁の様子を思い返すと、やはり話しておく必要はあると思うのだ。
「うん、わかるぞ。お前が三木のことを嫌っているのは俺も先刻承知の上で、それをとやかく言うつもりはない。ただ……」
「……なに」
「司書さんがなぁ」
 それを聞いて、朔太郎はぴくりと反応した。ぐっと眉根を寄せた朔太郎に、犀星はやや苦い顔をする。
「……司書さん?」
「うん。ちょっと相談を受けてな。……『朔先生と喧嘩したいわけじゃないのに』って、そう言ってた」
 朔太郎は虚を衝かれたような顔をした。一瞬、動揺したように目が泳いだが、すぐに冷静さを取り戻す。
「……司書さんとは、喧嘩なんてしたことないよ」
「ああ、わかってるよ」
 低い声で呟いたきり黙り込んだ朔太郎に構わず、犀星は続ける。
「司書さんは、三木のことを尊敬している、と言ってた。でも、お前は三木が好きじゃない。つまり、あの子は板挟みになってる状態だよな」
 朔太郎は唇を噛んだ。その表情にはある種の動揺すら窺える。
「まあ、お前たちの仲を取り持つことは俺にもできんよ。白さんだって我関せずを決め込んでるしな」
 犀星が肩をすくめるのを尻目に、朔太郎は小さく吐息した。
「犀が言っている事は、ちゃんとわかってるよ……でも、僕は彼を認めることはできないし、今後好きになることもない」
「うん」
「僕と彼が不仲だからって、司書さんが心を痛める必要はないんだ。心配することは何もないし、放っておいてくれていい……」
「朔……そんな言い方するなよ。寂しくないように司書さんが心を砕いてくれてるのが嬉しいって、お前、言ってたじゃないか」
「そう、そうだよ。でも、それとこれとは別の問題だよね?」
「別じゃない、同じだ。お前と三木が不仲でも、別に困りはしないだろ? 司書さんもそれはわかってるから、お前たちに『仲良くしてほしい』とは言ってない」
 犀星の言葉にも沈黙し続けながら、朔太郎は思案していた。朔太郎は和仁が好きだったが、それは彼の人柄を好ましく思っているだけであって、彼の献身を受け取ることとはまた別なのだ。
「三木と不仲であることによって、お前と司書さんの間もぎくしゃくしてしまうんじゃないかってことだよ。司書さんがお前に気を遣うのなんて、わかりきってるだろ? 自分と親しくしてる奴らの仲が悪いってのは、気になって仕方ないと思うぞ」
「……そう、だね」
 ようやく朔太郎が返事をすると、犀星はほっとしたように息をついた。
「俺達と同じ大人である三木はともかく……司書さんを不安にさせちゃ、気の毒だぞ」
 朔太郎は小さく頷いた。その横顔はどこか憂いを帯びているように見える。三木露風という詩人と相容れる日はきっと訪れないと、確信しているからだった。
「……簡単に割り切れりゃ、楽なのにな。お互いに」
 小さく落とされた呟きは、朔太郎には届かなかった。



❀ ❀ ❀



 ある日、露風から『真珠島』への潜書許可を求められた和仁は、きょとんとして首を傾げた。
「侵蝕箇所の報告はきてないですけど……」
「いえ……今回はそうではなく。あの海を見に行きたいと、請われたものですから」
 和仁は「ああ」と合点がいったような声をあげた。
「わかりました、問題ないですよ。有碍書ではありませんけど、一応お気を付けて。僕の権限の範囲で処理するので、手続きはいりません」
 あっさりと承認されたことに、露風は瞠目して、思わず口を開く。
「いいのですか」
「え? 侵蝕がないとは限りませんよね? だから定期巡回のルートに加える形で……却下する理由にはならないと思いますけど……」
 ほんの少し首を傾げて、和仁は微笑む。
「それに、三木先生は、意味のないことはなさらないと思ってますから」
「……そうですか。ありがとうございます」
 そこにあるのは信頼だ。露風は眩しそうに目を細めながら、頭を下げる。和仁は恐縮し、それからふっと相好を崩した。



❀ ❀ ❀



 そうして、数日後。
「あ……司書さん、」
 朔太郎が、おずおずと司書室を訪れた。
「今、大丈夫……?」
「朔先生。はい、大丈夫ですよ」
 和仁が笑顔で答えたのを見て、朔太郎はほっとしたように肩の力を抜き、和仁が座る机に近付いた。
「ちょっと……話がしたくて」
「はい。……あ、ちょっと待ってくださいね」
 和仁は席を立ってドアを開け、「来客中」の札をドアに掛けた。これで、緊急の用件以外で誰かが訪れることはないだろう。
 普段、司書室でこの札を使うことはあまりない──ほとんどの場合、来客は館長室か応接室で迎えるからだ──。しかし、気難しい朔太郎がわざわざ訪ねてきたということは、それだけの用件が彼にある、と思ったのだ。
「どうぞ、座ってください」
「うん……」
 朔太郎は所在なさげに、机のそばの椅子に浅く腰掛けた。和仁が席に戻ったのを見て、朔太郎は長い睫毛を伏せ、しばらく机を見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……あのね。この前、海へ行ったんだ」
「はい」
「白秋先生は、司書さんの采配のおかげだって仰ってたけど……聞いてない?」
「お手紙で伺いましたよ。犀先生と、……三木先生もご一緒だったって」
 和仁は、朔太郎の前で露風の名を出すことをややためらったが、予想に反して朔太郎は何の反応も示さず、ただ小さく頷いただけだった。
「でも……僕は何もしてませんよ。『真珠島』に潜書したいって申請があったので、問題ないですよって答えただけです」
「あれ、知ってるんだ……ううん……あの……」
 何か言いたげにしていたが、何を言ったらいいのかわからないという様子で、朔太郎は眉を下げたままだ。
「みんなが思う『海』を理解できるかなって思って……ずっと、景色を眺めたり、波打ち際を歩いたりしてた」
「そうなんですね」
「足が砂まみれになって、髪もごわごわになって、すごく疲れたけど……いいこともあったよ。白秋先生と犀が、詩を諳んじたり……」
「白秋先生も? わあ……いいなあ、僕も聞きたかったです」
「うん……きらきらしていて、優しくて、どこか切なくて……」
 和仁が目を輝かせると、朔太郎も嬉しそうに微笑んで、しかしすぐに表情を曇らせてしまう。その目は不安げに揺れている。
「……司書さんの海は、どんな海?」
「僕の、ですか?」
 和仁はしばし考え込んだ。
「僕にとっての海は……決して特別なものではなくて、当たり前のように、近くにあるものでした。地元に住んでいた時は、よく港を散歩してたんです」
「司書さんは、佐世保から来たんだっけ……海の街だよね」
「はい」
 和仁は懐かしげに微笑んで、懐かしむように目を閉じた。その瞼の裏に、故郷がよみがえる。
 潮の香る港町。海に向かってひらける空と、その空を映して青く光る海。寄せては返す波の音と、潮の引く音。港を行き交う艦船の音、目を閉じても眩しい水面の煌めき。
「……海に親しんできたんだね」
「はい、とても」
「……寂しくはない?」
「僕のこと、心配してくださってるんですか? ありがとうございます」
 和仁は微笑んで、「大丈夫ですよ」と続ける。
「……そう。ならよかった」
 朔太郎は安堵したような表情を浮かべて、ほっとしたように息をついた。その答えは、朔太郎の不安を払拭したようだった。
 露風との諍いは起きなかったと白秋から聞いていたので、和仁は密かに安堵していた。白秋と犀星──2人の存在が、朔太郎の精神安定に寄与したのかもしれない。
「……彼とのこと、なんだけど」
「彼?」
 聞き返してすぐ、露風のことであると、和仁は察した。名をまともに呼ばないほど嫌っているのは、もうどうしようもないらしい、と少しだけ切なくなる。
「はい」
「彼のこと、……いや、彼の詩は……嫌いだよ。でも」
「はい」
「案外、ふつうに話ができることもあるんだなって……今回のことで、わかったよ」
 朔と少し話してみるよ、と言ってくれた犀星が、あの後どんな話をしたのか、和仁は知らない。が、彼が朔太郎と露風の関係に気を揉んでいるということは、おそらく伝わっているのだろう。
「少なくとも、僕の詩や作風を、彼は否定しなかった。『それはそれで大事』って、言ってくれたんだ。気遣ってくれたのは、わかったよ。……正直、癪だったけど」
「……そうだったんですね」
 彼らが『真珠島』の中で何を話したのかも、和仁は知らない。白秋も犀星も、そして露風も何も語らなかったし、和仁も尋ねようとは思わなかった。それはきっと、朔太郎が自ら語ろうと思った時が最良のタイミングなのだと、みな一様に思っていたからではないか。
「仲良くすることはできないし、理解しあうこともきっと無理だけど……でも、いがみあわずにいられる道を、探ってもいいかなとは、思った」
「……」
 和仁はそっと瞼を閉じた。朔太郎にとって露風は今もなお、複雑な感情を抱く相手なのだ。波立たせずに御すことは難しく、歩み寄ることもできない。ゆえに、その感情はそのままに、ただ共存できたら──ということかもしれない。
「わかりあうことはできないけど、一緒には戦える……ということですか?」
「……うん。きっとね」
 彼らの在り方は人それぞれで、衝突することも少なくない。それでも、理解しあうことはできなくとも、共に戦うことはできるのだ。
 何故なら──「文学を守りたい」という、その気持ちだけは、同じだから。
「わかりました。……たくさん考えてくださって、ありがとうございます」
 彼らがそうすると決めたのなら、それを見守るのが、司書たる自分の役目だと、和仁は思っている。
「……ごめんよ」
 ぽそり、と、消え入りそうなほど微かな声で、朔太郎が呟いた。それはきっと、彼の本心に違いないのだろう。
「僕、朔先生の詩が読みたいです」
「え……?」
「今回のことで何を感じたのか、それをうたった詩を」
 朔太郎は和仁の言葉にきょとんとして、それから何度か瞬きをした。和仁はただ、朔太郎の心を受け止めるように、静かに微笑む。
「朔先生がお心のままに、ご自分の文学を示してくださることが、僕の望みで、願いです」
 朔太郎の唇が震えるように動いて、かすかな声が零れる。しかしそれは、言葉として綴られることなく消えていく。
 ──今はまだ、書けそうにない。
 朔太郎は一度目を伏せ、またゆっくりと目を開く。そしてもう一度和仁を見た。その瞳には、静かな意思の光が灯っていた。
「必ず、書くよ」
 今の朔太郎にとっては、それが精一杯だった。

 ──「僕としてもとても楽しみだね」

 その背に優しいまなざしが向けられていることを、和仁は知っている。

powered by 小説執筆ツール「notes」

6 回読まれています