大学生と社会人その2


アルバイトの給料が出たときに連絡を入れるようになって久しい。
懐にそこそこの金があるときに先輩の家で食べるラーメンは、三種類の野菜と買い置きのスパムが入ったプテチゲになる。長ネギと葉物野菜と玉葱。鍋に入れるだけになっている野菜は二割引きのシールが付いた袋に入っていて、ラーメンが煮立った汁に入れると野菜のせいで塩気と辛みが薄くなる。健康的でいいだろ、とホヨルは言う。それは確かにそうだとジュノも思う。飯を食った後で腹を殴られることがないと分かっているなら尚更。自由の味が一番で、料理の味は二の次。
ほとんど三人前に見えるラーメンをふたりで食べ終わると、ジュノは箸で摘まめないラーメンと野菜の端切れが残る銀色の鍋を流しに持って行く。こまごました家事という分類に入る労働は、母がいて妹がいる頃には必要がなかったことだが、一人暮らしを始めるようになって以来、ジュノは片付けの何たるかを知るようになった。動くのが嫌になる前に行動してしまうこと、それが一番。
「鍋洗います。」とテーブルから立ち上がり、キッチンシンクの前に立つ。
残飯を排水溝に流してスポンジを手に取ると、ホヨルに「そのままでいい。食器は重ねて溜めておいてくれれば。」と言われた。
「どうしてです?」
夏の盛りというわけではないが、水回りをきちんと片付けないと虫がたかったりするだろう。これまで、何度かここに泊まる機会はあったが、ジュノが風呂に入っている間に食器用洗剤の入った水に浸けて、そのまま次の朝まで放っておかれることが多かった。次の日の起き抜けにシンクで水を飲もうとするときにもそのままで、ジュノはずっと気になっていた。
「ジュノ、お前は俺の家の食洗器になりたいのか?」
「そういうわけではないです。」
家ではずっと、こうしたこまごました片付けを手伝おうとするとそれだけで殴られそうになった。反対に、片付けないというと殴られることも。母もジュノも妹も、父親の機嫌の塩梅で右へ行ったり左に寄ったりする船に乗っていた。ホヨルの家では、そういう暴力を介在させるようなややこしいやり取りに発展することはないはずだと信じて、ジュノは、少しばかり非難がましい家主の声を無視して鍋を洗い始める。
箸まで洗って水を切ると、相手は、アン・ジュノ、と名前を呼んでジュノを手招きした。
ホヨルは、気が付けば食卓から移動してテレビの前にあるソファに腰かけていた。気持ちの上ではじりじりとホヨルからの次の言葉を待ちながら、焚火で魚を炙っているチャ・スンウォンの横顔を眺める。魚は、イシモチだろうか。食べたばかりなのに腹が減って来るような番組は見ないようにしているが、ホヨルの家では、こうした文化的な違いによる衝突は避けるようにしていた。
ほかにも、ソファで隣に座るとき、ジュノはホヨルの顔を見ないようにしている。
その方が相手が話しやすいだろうと思うからというのは建前で、そうすることで、ジュノがホヨルにキスしたいと思ってしまうことが問題なのだった。ベッドの中でもそういう雰囲気になることは稀なのに、なぜベッドの外で雰囲気づくりをしてはならないのか。問い質しても毎回ホヨルが答えを濁すので、この問題についてホヨルの本心を知りえたことはない。
「ジュノ、あのさ。」と、画面の中の魚に火が通って皮が焦げる頃に、ホヨルは口を開いた。
「はい。」
「いいんだよ、さっきみたいなのは。お前がそこまでしなくても。月曜になれば掃除のおばさんが来るんだから。」
掃除のおばさん。
……掃除のおばさん?
「……は?」
「は、って何だその顔。」
「呆れてるんですよ、まさか、家の片付けのために金を払ってるんですか?」
「そうだよ。奥さんや母親がいるでもない家だぞ。不在の間にカビが生えたり虫が大量発生したら嫌だろう。」
「もう軍隊にいるでもないのに?」と言うと、ホヨルは、部屋がいくつもあるんだぞ、手が回らない、と零してから、ジュノがなぜそんなことを言うのか分からないという顔をした。
「それなら俺が手伝いますよ。」と言うと、「お前は客だぞ。」とホヨルは言った。水が合っているのか出会った頃よりニキビ跡が少なくなったと思っていたホヨルの顔を、ジュノはまじまじと見つめる。もしかしたら肌の手入れの方法までそのおばさんから聞き出しているのだろうか。
「……。」
こちらが妙なことを考えているのが伝わったのか、短い沈黙の間にホヨルも妙な顔をした。ジュノ、お前なんとか言え、と口にするときの顔だ。
「先輩がこんな家に住んでいるのに、どうしていつも金がないと言っているのか分かりました。」
静かに非難するようなこちらの目付きからホヨルは顔を逸らし、なぜか立ち上がってヤクルトおばさんの歌を歌い始めた。
ジュノは、誤魔化しても無駄です、と言おうとして、嘆息して考え直した。
ジュノ自身が世知に長けた人間になるにはもう二十年ほど掛かるだろうが、これまでに出会った中で、自分の過ちを認めず、怒鳴る大人を何人も見た。そういう人間は、立場の弱い相手の口を塞ぎ、誤魔化すために、何でもする。指摘の仕方が悪い、そもそも俺は間違ってない。いくつかの言い訳はパターン化されていて、ジュノはそういう会話にもならない言葉にうんざりしていた。それが、ヤクルトおばさんである。
ホヨルの歌は、振り付けも完璧だった。会話をしていて分が悪くなるとヤクルトおばさんの歌を歌い出す男と言うのは、世間一般で言えば、変人の枠に入るだろう。けれど、軍隊の中ではむしろ、稀有な存在だ。ハン・ホヨルという存在を知って数年。アン・ジュノは、そんな風に思い始めていた。
いつかのように手ぶりを付けて踊り始めたホヨルを見ていると、たまには、このヤクルトおばさんの踊りを最後まで見ることがあってもいいんじゃないだろうかと思った。
俺は本来尻派なんだけどと言いながら、ベッドの中でどこまでも平らなジュノの胸を撫でることもあるホヨルの、その指先の動きを眺めていると、瞬間の感情は、アルコールバーナーの中の燃料のように気化してしまう。
「その踊り、」
「ん?」
今はほとんど見る機会もなくなったこのダンスを、今はその、ギターマンドリン部とかいう部活の飲み会で披露しているのだろうか。
「俺も覚えた方がいいですか?」
「覚えたいのか?」とホヨルは尋ねる。何のために、とその目で語る。
手とリ足取り教わりたいとは言えず、そのうち、隠し芸大会で、と言葉を濁す。
お前は言い訳が下手だな、とホヨルは笑い、「寝る前に、腹ごなしの運動でもするか?」と言って首を傾げた。


言い訳はいいよ台所に置いてきて


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