出血
リビングの絨毯の真ん中に落ちている一足の野良靴下。
またか……。
「草若兄さん、靴下あっち持ってってください。」
「後でな~。」
「今持ってってください……今。第一、あちこちに置いてるこういう服も入れるとこにちゃんとしもといてくれんと困ります。」
呑気にテレビを見ている兄弟子の背中から、一昨日来ていたシャツを引っ張り出す。
化繊のシャツが多いから毎回シャツを洗うということもないということで、洗濯はいいとして、これはどないかせんと、正直子どもの教育に悪い。
「……やっとくて。」
「後でて言うたら、結局際限なく広げてまうでしょう。明日履く靴下なくなったら、」
「オヤジの足袋あるからそれ使うわ。」
「………!」
口だけは達者な兄弟子連中への不満が爆発する午後。
「なんぼなんでも、家の中まで足袋て、何やねん。」
「分かります……。草々兄さんも最近は稽古のときでも靴下、て時が多いですし。子どもがふざけて、草々兄さんの寝てる時、その靴下を『落とし物です~♪』て、顔に載せるんですよね……それでまた朝から怪獣大戦争ていうか。」
ああいうの、どこで習ろて来るんやろ、と妹弟子が真剣にため息を吐いている。
そら、この場にいない男しかおらんのと違うか、と茶々を入れる代わりに、残りのうどんを啜って腹に入れた。
「……子どもがいないとほんま不便やな。」
便利の問題でもないが、聞き分けのいい子どもが「ええよ草若ちゃん仕事で疲れてるし。僕がやっとくから。」と言い出すタイミングがないと、どこまでも堕落する人だった。
こっちが角を出したところで、どこまでも馬耳東風。
裸足の足引っ張って、ここまで脱げてるなら昨日の続きでもしますか、てこっちが言うまでは梃子でも動かんわけや。
後で不満たらたらに腰が痛いと零してるのは僕にも半分理由があるとしても、発端は明らかにあっちに問題があるというか。
「……それはなんか分かりますけど、草々兄さんも割と、人のこと棚に上げて子どもに説教しはるときあるから、ああいう草若兄さんでも、いてくれて、うちはほんまに助かってるていうか。」とそこまで言ってから、若狭はバツが悪そうな顔になった。
兄弟子に向かって『草若兄さんでも』はないやろ、と言うのは、流石にこっちが指摘する前に気付いたらしい。
まあ確かに、あんなんでも、おらんよりはおった方が百倍ええていう気持ちは分からんでもないけどな。
この年になって、あちこち探し回らされるのはお互いキツい。
「まあ、あんまきつく言うても、子どもはグレてまうとか言うからな。」
ゆるく育てたとこで、僕みたいになるケースもある訳やけど。
水を飲んで、ごちそうさん、と手を合わせたタイミングで、若狭も定食を食べ終わった。
おごりの昼飯タイムは終わり。後は草々兄さんとこに寄って、師匠の蔵書からあれとこれ借りて、家に戻って草若兄さんの洗濯の成果を取り込んで……。
「四草くんと若狭ちゃん、今日は話弾んでるみたいやね。はい、お疲れのふたりにご褒美デザート。」
「お咲さん……!」
若狭が地獄で仏を見たような顔をしている。お盆に載せられてやってきたガラスの器の中には白くて四角い、見慣れたあの……。
「杏仁豆腐ですか? 美味しそう……!」
若狭の弾んだ声に、一時期、延陽伯で昼のレディースセットが余った時に毎日これ食ってたな、と思い出した。
周りのお客さんには、その美味そうなんこっちにもくれ、と言う声が聞こえて来る。
「ハイハイ~、初回限定サービスや、次からはセットで頼んでくださいね。」
とまあ、調子のいい声で答えるお咲さんの声を聞くと、一応は商売の話でもあるとこちらにも分かる。
「東京モンやあるまいし、こういうのはただやからええんやで。」
こういう返しが出て来るのも、大阪ならではというか。
新規の客層開拓を目指してか、最近はこうした試作品をあれこれ作らされてる店主の熊五郎さんが奥から出てきて「咲、こないなもん作ったかて、どうせ商売あがったりやぞ。」と呆れた声を出している。
「そうかて、日暮亭のひとりのお客かて寄り付きやすい店にせんとあかんやろ。……というわけで、若狭ちゃん、四草くん、ここで食べてる写真撮らせてもらってええ?」
「……はい?」
なんでいきなり写真撮影、と思ったが、お咲さんがレジの横から引っ張り出して来た置物のようなカメラは大概年季が入っている。
どっかの事務所でなんや見たことがあるというか。こないだ若狭鰈を食べてるちゃぶ台の視線の先にあったカメラとよう似てるなというか。
「いや、私、今日は化粧のノリが。」
とかなんとか演技したとこで、お前の顔がもうほとんど上沼恵美子なんは、もう大体の客が分かってるからな。
お昼奢りますから、て言うから来てみたら、今日のこれは、どんな茶番や。
「四草くん、今日のお昼ロハにしとくから、な。」と熊五郎さんまで口添えしている。
そもそも僕はそういう話でこのアホの妹弟子に連れられて来たんですけど。
「まあ女の一人客を引っ張って来たいなら、僕だけでええのと違いますか?」
「四草兄さん……!」
よくぞ承知してくれました、という顔で、レフ版を持たんばかりの勢いで立ち上がった。
若狭、お前、ほんまに何もなかったら、ここに来づらくなっても知りませんからね、て顔してるやろ。
「その代わり、出演料は定食のチケット十一枚綴りで。」
「……分かった、出血大サービスや……!」と熊五郎さんが言う横でお咲さんが肘を付いている。
どっちが高くついたか、と思いながら、杏仁豆腐の横のスプーンを持ち上げると、ハイそのまま、という声が聞こえて来た。
愛想笑いをする気もおきないのでそのままの顔でいると、そのまま、もう一枚、という声でフラッシュが焚かれる。
定食十一枚は安すぎたかと思っても、まあ後の祭りというとこや。
まあ、ただ食べに来るでは能がない。次に草々兄さんとこのアホ面の弟子に会うた時に、賭けの出汁にでも使わせて貰うか。
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