金色


右腕が重い。
人の気配を感じて目を覚ますと、隣にクマを作った男がすやすやと寝ている様が目に入って来た。
和久井譲介。
十数年前に手元に引き取って三年だけ面倒を見た子ども。

居候していた神代の山の診療所までヘリを飛ばして朝倉が迎えに来た時、誰が寄越したのかは直ぐに分かった。プライベートジェットに乗ったのは初めてでもなかったが、電話を替わります、と言われて、スマートフォンの数年越しに子どもの声を聞いた時には、笑ってしまった。
お久しぶりです、ドクターTETSU、という呼びかけ。幾度かあったこれまでの再会のようにこちらの不義理を責めたりまくし立てることもなく、軽い問診をした。その後で、僕たちがあなたを治します、という落ち着いた声を耳にして、こいつはもう一端のセンセイになったのだな、と思った。それがもう、一年前のことだ。

三十になっても髭も生えてないような顔をして、好き勝手しやがって。
腕枕にされて使えない右手の代わりに左の腕をそろりと伸ばして、譲介の鼻をつまんで起こそうとすると、左の薬指にある金色の指輪が、朝の光を反射して輝く。
父親との再会の場面を演出するため、必要があって手錠を掛けたこともあったが、あの時の仕返しです、と言って、まさかこんなものを寄越されるとは。いつか法的に拘束されるとしたら、闇医者としての仕事で下手を打ったときだろうと想像していたことはあったが、まさかこんな風に捕まるとは思ってもみなかった。
僕以外があなたの死に水を取るなんて嫌ですから、と格好を付けている譲介を前に、永住ビザを取ったという噂で妙に背筋がうそ寒いような気持になった六十の自分を殴りつけたいような気持になった。黙っていると、こちらが照れているのとでも勘違いしたのか、さっさと付けてください、などと言う。腹が立ってタコ殴りにしてやろうかと思ったが、勤勉な医者の顔をおいそれと殴るわけにもいかないので、代わりにキスをしてやったら黙った。
腹立たしいことに、一昨日食った飯は思い出せないのに、あの日のことは妙に記憶に残っている。
怒ったついでに鼻をつまむと、ふが、と譲介の口から息が漏れる。
肩には、昨日、というより今朝方に付けたばかりの生々しい噛み跡が見える。白衣を着てしまえば見えない場所だ。開放創にしておく方がいいに決まっているが、後で絆創膏でも貼ってやるか、と思う。
「………おい、起きろよ和久井センセイ。」
腹が減った、と呼びかける。
そう。譲介と寝た後は、いつも妙に腹が減る。食い気が有り余っていた昔ほどにはいかないが、朝起きても、夜日暮れた後も、食ってもいいか、くらいの気持ちが湧けばいい方だったここ数年のことを思えば、驚異的なほどだ。
譲介が妙にこちらの体力に遠慮をしていた最初こそ、連れ立って近くのダイナーに行っていたが、慣れもあってか、最初からフルスロットルでエンジンが掛かるようになった今では、『運動』の後は外に出る方が億劫で、じゃあ僕が作ります、というので、毎食がカレーというのでもなくなったことだし、と譲介の好きに任せている。
それにしても、起きねえな、こいつ。
もしや、狸寝入りじゃあるまいな、と思う。それくらい、普段の朝は譲介の方が、起きる時間が早い。恐らく、かっちり六時。山奥の診療所の癖だ、と本人も言っていた。
いい具合に痺れて来たところで枕にされていた腕をはずし、こっちで起こしてやろうか、とごそごそと羽毛布団の中に手を入れると、起きるから待ってください、と譲介が甘えるように言った。
本気の狸寝入り、という訳でもなかったようで、うつ伏せで目を開けようと奮闘している様子に、良く起きたな、と言う代わりに、髪をぐしゃぐしゃとかき回してやった。
枕元の眼鏡を取ってやると、譲介が銀縁の眼鏡を掛けた。
似合っている、とは絶対に言ってやらないつもりだ。
「メシ、何にします?」と言われて、先週の土曜に、白い皿の上に山のように積み上げていた薄っぺらいホットケーキのことを思い出した。上から黄金色のシロップを掛けて、分厚いベーコンを添えた食べ方は、日本でも都会のダイナーに行けば食べられるものだが、妙にこっちに来た、という気持ちになる。
食ってる方は旨い、と思うだけだが、作っている譲介の方が、やけに幸せそうな顔をしていた。
「前にお前が休みの日に焼いたやつがあっただろ。」
「……パンケーキ、ですか?」
「それにしろ。」
「あれは休みの日の専用なんですけど。」
徹郎さん、と生意気にも名前を呼んでくるので、うるせぇ、と言って耳を引っ張る。
「患者と看護師には、朝からイチャついてたから遅刻しましたって言っとけ。」と笑ってやると、お許しが出たので、と嬉しそうに笑って、譲介はこちらに顔を近づけてきた。
「おい、馬鹿。」ベッドの中でとは言ってねえよ、という言葉を聞かない様子で覆いかぶさって来るので、仕方がないから目を瞑った。
まなうらには、パンケーキのシロップのような、腹立たしいほどに美しい金色が輝いている。

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