クリスマスツリー
十二月。
四十近くにもなってくると、気が付いたら仕事中心の生活になっていて、子どもの頃からのクリスマスの記憶がすっかり塗り替えられてしまった。
あの頃は、買い物が出来る年になると、既に男を渡り歩く生活を確立していた親から自分へのプレゼントを好きに選んで来なさいと金を渡されるようになった。
クリスマスというよりはクリスマスイブの記憶の方が頭の中の抽斗から容易に取り出せるのは、この頃の記憶の印象が強いからだろう。
子どもらしく、サンタがプレゼントを持って来るという期待していた年もないではなかったが、それも一度限りのことだった。僕の母親は、お年玉の前借のような小さなポチ袋に入った金を無造作に手渡すことで、そうした子どもの、子どもらしい願望とか幻想のようなものを見事に打ち砕いてくれた。
僕はサンタが乗ったダサいバターケーキの一切れと、チキンとシャンメリーを買い、ケーキを食べられたらそれでいいということで自分を納得させていた。
何年もそうしたことを続けていると、段々食べた後の容器を片付けるのも億劫になって来て、それなら喫茶店に入った方が早いとも思ったが、ナポリタンが食べられる母親の気に入りの店には『子どもひとりはダメなのよ、坊や』と言われて門前払いを食らった。
そうした時期に学んだのは、残った金で好きなプレゼントを自分で買いなさいと言われようと、手を繋いでケーキを持ってくれる親は買えないということだった。
ひとりで喫茶店に入れる年になってからはずっとクリスマスの前日と当日の予定が決まっていて、この顔に金を貢いでくれる年上の女と一緒に、どこへなりと連れ回されていた。プレゼントを贈るのはサンタクロースではないと分かっている同士で、甘いばかりのケーキを食ったりホテルに行って指輪を贈られてその後に寝ていたりはしていたが、年上の女が熟女と言われる年になると年下の女が貢いでくるようになって、落語家でもプータローでも構わないという相手とそうしたサイクルを続けていたが、気が付いたらそういう女とはすっかり切れて、妙な顔つきをした兄弟子と朝飯を食っている。
テレビの横には、寝床寄席をやった後に使ったトナカイの耳飾りがまだ捨てられずに置いてある。
「今からクリスマスツリー買ってきて、枕元にプレゼントを置いといた方がええですか?」
「なんでやねん。」と兄弟子がいつもの不機嫌そうな声を出した。
「プレゼントがないからそういう顔をしてるんかと思いました。」
そんなんとちゃうわ、と言いながら兄弟子は炊いたばかりの米を納豆と卵でかっこんでいる。
まあこれまでと同じだといえば、同じように見えなくもない。
草若襲名という大問題の前から逃げていく前に聞いたときよりは多少なりと動揺しているようにも見えるが、半分はこちらの思い込みということもあるだろう。
何を考えて敢えて逃げるという選択肢を取ったのかは、分からないでもないし、後になって考えても仕方のないことだが、秋が終わって冬の風が吹く頃になると、子どもの頃に母親が腹が減ってなくても何か食べなさいと言っていたことを思い出した。
母親は着道楽で、軽くて脱ぎやすい洋服が好きだった。物心付いたばかりの頃にはまだ手作りしていたよそ行きのワンピースも、気が付いたら気に入った服屋を雑誌で見つけてきて買うばかりになっていた。
料理を買いに行くのも面倒なときには近所のそば屋に子どもを連れて行き、そばが美味いで、という店主を毎回無視してきつねうどんを頼んでいたが、既製服を着たいから太ってしまうのが嫌やと言っていた割には炭水化物しかない夕飯だった。
兄弟子と過ごした日々を思い出すと、僕の方は適当に店に入ってうどんなりを食べて食事を抜くことだけは避けていたものの、この人はなんだかんだと拗ねたり料理を買いに行くのが面倒とか言って、食事を抜いた日の方が多かった。
今思い返せば、あれはふたりで暮らしていたというよりは、ひとり暮らしの人間がふたり、ただ身を寄せ合っていただけだった。
不規則な生活を続けていれば、ひとりでに気持ちが荒れていくこともあるだろう。
食うものを食っていなかったら腹立たしくなることも、辛くなることも、逃げたくなることもある。それなら、と内弟子修行を終えてからはずっと距離を置いていた、『メシを作って食わせる側』になってみることにした。今の暮らしが前より上手く行っているかどうかは分からない。片付けから何から手間のかかることばかりで、腹立たしいことの方が増えてはいくが、若い頃の慣れというのはおかしなもので、今思えば、師匠の元で暮らしたたった数年の、あの習慣が身体に染みついてしまったのか、煙草を好きに吸えないこと以外は、そこまで苦にもならなかった。
朝飯を食べ終えた兄弟子は、ごちそうさん、と手を合わせた。こういう所作だけは、妙におかみさんに似てる、ような気がする。
「仕事から戻って来たら昨日みたいな時間になるから、寝たいときは先に寝ててください。」
「十時なら起きとるて。」
「今日はサンタ待って寝てるのかと思ってました。」
「なんでやねん。」
「イギリスとかだと、ツリーの下にプレゼントが置いてあるのは二十六日の話らしいですよ。」
「知らんわ。」
味噌汁を啜った兄弟子はふてた顔をしている。
「寝床行っても迎えに行けないので、外で深酔いはせんといてください。」と立ち上がって片付けを始めると、年下の男は興味がなさそうな声で、適当に稽古しにいくわ、とだけ言った。
普段よりはずっと男の客の方が多く、前列の辺りは埋まっているが後ろの方には何列かきっちりとした空き席があるのもクリスマスらしいところだった。
寝床寄席の終わった後で寝床を掛けるというと草原兄さんに笑われたが、熊五郎さんの歌に引っ掛けた枕を話そうとした途中で、ふと客席にサングラスの男の姿が見えた。
妙に席が空いているというのに前の席が埋まってしまった不幸な客が、前座を終えたタイミングで勝手に指定席を横に移ったので、視界の端に『見えた』のである。
何を意地を張っているのかと笑いたいような泣きたいような気持になったが、そんなセンチな気分でいられるほど高座は甘くはない。噺に入る前だというのに、客席が妙にざわついた気配になってきた。
稽古をしに行くと言っていた落語家である男が、同業者らしく舞台袖から様子をのぞき見するでもなく客席にでんと居てるというのが妙な話で、兄弟子の隣に座っている女の客が、二度見して通路側の隣の客のセーターの袖を引っ張っている。
普段とは違って少し長い枕にしようかと思っていたのに、これでは台無しだ。
「枕の途中ですけど、今年の僕の高座3回見たて人、手を挙げてください。」と言うと、はい、はい、はい、と十年前の妹弟子のような勢いで手を上げる人間が多いこと多いこと。
「はい、拍手。したら10回。」
思ったより手が下がらない。
そもそも、兄さんの隣に座っている女ふたりの手がそこで下がらないのも妙な気分だった。
「……わりといてますね。1回も来る予定なかったて人、いますか?」
ちらほらと億劫そうに手を上げるような男客が数人いた。くすくすとさざなみのように笑いが起こるが、そこを気にしてはいられなかった。
「はいそこ、素直に手ぇ上げてください。隣の人、腕持ったってもええですよ。」
扇子で御指名すると、サングラスの男の肩が揺れた。隣の女がどうですか、と声を掛けている様子がここからも分かる。触るなブス、と言いたいがここからでは難しい。
「はい見えた。アレ2年前きりどっか行ってしもてた、うちの一門のクリスマスツリーです。」
わっと客席が沸いた。
「誰がクリスマスツリーやねん!」と言って兄弟子が立ち上がると、客席の笑い声がさらに大きくなった。とりあえずマイクを持たせたいところだったが、ここからは巻きで行った方がいいだろう。
「化けの皮が剥がれましたね。もうええですよ座って。見ましたね、皆さん。都合よく人間になったとこで、後で何か一席話してもらいますんで。」
はい拍手、とこちらから言わずとも、慣れた客席からは拍手が沸き上がった。
「下手な寿限無を聞くことが決まったところで、下手な浄瑠璃好きの話を一席。」
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