頸と心・番外 青春
頁の破り方には、要領がある。
土井は忍術学園に入って以来、密かにそれを研究していた。学園長に教わったわけではない。『別に教わらんでも自然にできる』と学園長は言った。だから自分で試した。最初はうまくいかなかった。虚空を掴もうとしても指が滑る。何もないところには何もない。当たり前のことだ。けれども学園長はあの日確かにやって見せた。あの皺だらけの指が何もない空間に引っ掛かり、紙を裂くように虚空を破った。
できるはずだ、と思った。自分は一度やっている。崖から落ちた時、命懸けで。
半年かかった。
最初に指が引っ掛かった時の感覚は忘れない。虚空の中に、僅かな段差があった。紙の端のような、布の縁のような、目に見えない境界。それを摘まんで、引く。力加減を誤ると指が滑って何も起きない。強すぎると裂け目が大きくなりすぎて制御できなくなる。
慣れると存外便利なものだった。
離れた相手に事付けができる。数日分の頁をめくって先の天気を確認する。あるいは数日戻って、見落としていた情報を拾い直す。跳べるのはせいぜい数日だ。それ以上は力が足りない。六年分の時を超えるには相当な力量がいる。あの時は命懸けだったからできたのだ。
けれども検証を続けるうちに一つ気づいたことがあった。
破れは、塞がないと塞がらないのだ。
多少の自己治癒力はあるようだった。小さな破れならば放っておいても数日で閉じる。だが大きな破れは違う。放置すると塞がりきらず、端がめくれたまま残ったり、最悪の場合、変なつながり方をする。本来隣り合わない頁同士が癒着して、妙な経路ができてしまう。
土井は、ふと思った。
自分が落ちた時の穴は──今どうなっているのだろう。
二年前、崖から落ちて頁を破った。あの時の裂け目は命懸けで破っただけあって相当に大きかったはずだ。閉じられた頁へ繋がる裂け目。あれがまだ塞がりきっていなかったら。
気になり始めたら止まらなかった。
土井は休みの日にあの崖を訪れた。二年前に落ちた場所。山田家の野遊山の場所にほど近い切り立った崖。崖の縁に立ち、目を閉じた。指を伸ばして虚空を探ると──。
あった。
指先に、段差が触れた。普通の頁の破れとは違う。もっと古く、もっと深い。端がめくれ上がり、繊維がほつれたまま固まっている。古傷のような破れだった。あれからもう二年経っている。大方は塞がっていたが、けれど完全には閉じきっていない。
土井は指先で裂け目の大きさを測った。随分小さくなっている。おそらく破ってみても上半身を半分覗かせるのがやっとだろう。とても人一人が通れるような大きさではなかった。あと数年もすれば完全に塞がるだろう。
覗くべきではない。閉じられた頁だ。続きは書かれないと、学園長はそう言った。覗いたところで何がある。何も変わらない。──何も変えられない。
けれども、指は裂け目の端を掴んでいた。頭が止めろと言っている。だが二年の間、この身体はずっと覚えていた。忘れることを許さなかった。あの声を。あの温度を。あの目を。
土井は裂け目を広げ、上半身を押し込んだ。
光が変わった。空気が変わった。季節が違う。初冬の匂いがする。落ち葉と、湿った土と、微かに煙硝の混じった冷たい空気。見覚えのある山肌が広がっている。あの山だ。あの集落に近い場所の──。
やはり、変なつながり方をしていた。
本来あの穴は、二年前に自分が落ちた崖といま自分がいる世界の崖を繋いでいたはずだ。だが塞がりかける過程で経路がずれたのだろう。繋がった先が、少し違う。崖下ではなく、山の中に出ている。穴はちょうど茂みの中に埋もれるように出現している。
目の前に──人がいた。
しゃがみ込んで、茂みの中に手を突っ込んでいる。罠を仕掛けているらしい。枯れ葉と縄を使った簡素な仕掛け。その手つきに見覚えがあった。あの手だ。あの指だ。長い指。腱の浮いた甲。爪の先まで神経の行き届いた、あの──。
「……そんなところで何をやってる」
声が聞こえた。
声の主が振り向き、目が合った。
あの利吉だった。
十八の。冷たい瞳の。隙のない──でも黒の前でだけ僅かに緩む、あの利吉。
利吉は変わっていなかった。閉じられた頁の中では時が止まっているのか。いや──止まっているのではない。あの頃のままそこにあるのだ。着物に焦げ跡はない。顔に傷もない。追手の影も焙烙火矢の煙硝の匂いもない。これはあの穏やかな日々のどこかだった。二人で隠れ家に住み、罠を仕掛け焚き火を囲み、書物を語り共に眠った、あの日々の中のとある一日。
変なつながり方をしている。黒が飛んだのはもっと後の、追手に追われた最後の日だった。だが裂け目が塞がる過程でずれたのだろう。繋がった先が、あの日々のどこかに落ちている。
ということはこの利吉にとって、黒はまだここにいるのだ。
家の中で眠っているか、水を汲みに行っているか、いずれにせよ利吉をどこかで待っている。だから利吉も自分を見ても驚かない。黒がこのあたりにいるのは当然のことだからだ。
この利吉は黒がいなくなることを知らない。追手が来ることも焙烙火矢の爆発も、黒が崖から飛び降りることも知らない。ここではまだ何も起きていない。
もしかしたら──閉じられた頁の中で、この利吉はずっとこうしているのかもしれない。あの頃の黒と二人で、あの家で、あの山で。続きは書かれないと聞いた。だが書かれた分は消えない。穏やかな日々が閉じられたまま、進むことも繰り返されることもなく、ただそこに在り続けるのかもしれない。
何か言わなければ。何か──。
声が出なかった。
喉が詰まっていた。目の奥が熱い。二年ぶりだった。閉じられた時の向こうに置いてきた顔が目の前にある。あの目が。あの声が。手を伸ばせば届く距離にある。
「もう少しで雉が捕れる。少し待ってろ」
利吉はそれだけ言って、茂みの奥へ歩いていった。
土井は──黒は、裂け目の縁に指をかけたまま、利吉の背中を見つめていた。弓を背負った後ろ姿が木立の間に消えていく。
声が出ない。
呼び止められない。待ってくれとも、行くなとも言えない。二年分の言葉が喉に詰まって、一つも出てこなかった。言いたかったことは山ほどある。お前が夢に見た場所で教師をしている。お前が守った頸で生きている。お前がくれた名を、ずっと覚えている。
何一つ、声にならなかった。
利吉の姿が木立の向こうに消えた。少し待ってろ、と利吉は言った。待っていれば戻ってくるのだろう。雉を手に、何食わぬ顔で。あの無造作な足取りで。
けれども黒は知っていた。この穴はもうすぐ塞がる。自然に静かに、閉じていく。次に来た時にはもうないかもしれない。これが最後かもしれない。
裂け目の縁が、微かに狭まった気がした。
黒は目を閉じた。そして、一つだけ声を出した。
「──ああ。待ってる」
それだけ呟いて──身体を引き抜いた。裂け目が狭まり、端がめくれ上がり、古傷のように閉じていく。最後に向こう側の空気が一筋だけ頬を撫でた。冷たかった。初冬の、煙硝の混じった風だった。
抜け出ると、裂け目が閉じた。完全にはまだ塞がらず、だがもうきっと上半身すら通らない。指先がやっと掛かるほどの、小さな綻びになっていた。
黒は崖の縁に座り込み、膝を抱えた。空を見上げた。こちらの空は、春の空だった。向こう側の初冬とは全く違う、穏やかな青い空。
目尻を、涙が伝った。
泣きたいわけではなかった。閉じられた頁の中に置いてきたものを、涙で引きずり出すまいとずっと思っていた。でも、声を聞いてしまった。顔を見てしまった。あの何でもない声を。少し待ってろ、という、ただそれだけの声を。
──もう少しで雉が捕れる。
お前はいつもそうだ。いつも何でもないことのように言う。何でもないことのように黒の傍にいて、何でもないことのように雉を捕りに行き、何でもないことのように命をかける。あの頁の中で、お前はまだそうやって生きている。あの頃の黒と二人で。今の自分がどれほど前に進んでも。
黒は涙を拭った。立ち上がった。忍術学園に戻らなければならない。土井半助に戻らなければならない。ここに来たのは、黒としての最後の寄り道だ。
──待っている。
あの言葉は嘘ではない。ずっと待っている。利吉が追いついてくることを。いつか足音が聞こえることを。
土井は崖を離れた。山道を下り、学園への道を歩いた。背中に春の風を受けながら、土井は一度だけ振り返った。
崖の上には、もう何もない。ただ青空だけが広がっていた。
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