刃景でピノコニーデートの話(途中)
そこは夢の世界だった──文字どおり夢の中だ。
正夢にはならず、かと言って悪夢にもできない、泡沫の世界。美しい夢と表するが、黄金の刻は派手で、豪華で、きらびやかで、激しく、喧しく、毒々しい街並みだ。眠ることを知らない夢の世界は、夜を知っても暗闇を知らず。だが、闇はそこかしこに散らばり落ち、歩く度に危険なガラスが砕けるような音がしそうだった。
刃も景元も、どちらもピノコニーの裏になにか隠されているのは肌で感じ取っていたが、歯牙にも掛けずにテラス席にのんびりと座っていた。輝かしい世界の裏に影があることなど珍しくもなんともなかったし、数日滞在する程度の自分たちには無関係だと思っていたし、なにかあっとしても対処できるという少しの傲慢さがあった。どちらも自己の実力を過小も過大もしておらず、ただただ問題ないと判断しただけだ。
景元は星空を仰ぐケーキと、かれこれ数十分ほど睨めっこを続けているところだった。刃はなにも言わず、彼を横目に雑踏を眺める。空を飛ぶ車に轢かれた間抜けが何人か数え、動き回る看板に負ける観光客に呆れた。ここは夢の世界というよりも消費を促す世界だ。なにが楽しいのやら。
夢に溺れたものたちの乱痴気騒ぎが近くを通り過ぎた。その中のひとりが刃たちを見ていまにも声を掛けて来そうだったが、睥睨を投げれば、可哀想なくらい顔を青白くさせてそそくさと逃げていく。殺気を感じられる程度の分別は残っていたようだ。万が一絡まれた場合、夢の中であるし斬り殺してもいいのだろうか、と詮無いことを考えていると、景元がこちらを見つめてふふっと笑った。
「悪いことを考えているね。眉間の皺は癖になる。せっかくの美丈夫が台なしだよ」
「貴様こそ、ケーキを睨みつけてばかりだと、綺麗な顔が泣くぞ」
「綺麗だと思っていてくれているんだ」景元はぱっと顔を明るくした。
「客観的意見を述べたまでだ」隠し撮り写真が飛ぶように売れている男の顔が悪いわけがない。
「だとしても嬉しいよ。刃が言ってくれること全部が幸せだ」
景元はうっとりと刃を見つめた。せっかくの端正な顔が渋いものになっている。それでも顔がいいのだから、美丈夫というのはお得だなと思う。
人を寄せつけない雰囲気と危険な香りのする美丈夫は驚くほど魅力的で、どこか艶も帯びている。面倒な交流を嫌い、人付き合いに重きを置かない彼が、わざわざ別の星にまで来て、デートをしてくれる事実を景元は噛み締めた。
こんないい男が私のことだけを思って、こうして二人きりでただただ座ってくれているのだ。これを喜ばずしてなにを喜ぶ。
デートは羅浮でもしていた。所謂お忍びデートというもので、大抵は刃も景元も変装をして金人巷で食べ歩きをした。いつも同じでは芸がない、と景元が言い出したのをきっかけに、夢の世界なら身分も容姿もすべて変えられるのだから、変装の必要もないという結論に達したため、ピノコニーまでやって来たのだ。景元は長期休暇を無理矢理取らされていたため、裏から手を回してピノコニーに来航したが、刃がどうやってここに入航したかは知らないし、聞く必要もない。
いまの刃と景元は、星核ハンターの指名手配犯の格好をした一般人と、羅浮の将軍の格好をしたこれまた一般人という設定になっている。なんでもありな夢の世界のおかげで、堂々とこの容姿でデートをしても許されるのだ。ピノコニーに感謝しなければならない。
「俺を見ている暇があったら、さっさと食え」
「そうは言ってもこの子を見ているとどうもね……」
景元が皿を持ち上げ、ケーキから顔を覗かせている魚を刃に向けた。目が合うが、その瞳は空虚だ。
「さっきまで食べてみたいとはしゃいでいた男はどこのどいつだ」刃が大いに呆れていた。「そもそも頼む方が悪い。景元にしては悪手だったな。俺は手伝わんぞ」
「不変に慣れきってしまった身としては、せめて夢の中では冒険家になろうと思っただけだ。いささか勇ましさが足りなかったようだが」
「飲み物にも手をつけていないではないか」景元の右手に置かれた瓶とグラスを顎で差す。「せめてそっちは飲め」
「わざとだよ」景元が小首を傾げたので、ずいぶんと幼く見えた。「シュワシュワするのは苦手なんだ。炭酸が抜けるのを待っている」
シュワシュワ──刃は目眩を覚える──シュワシュワだと? 自分の年をいくつだと思っているんだ。どうしてときどきそういう言葉遣いになるんだ?
「なぜ頼んだ?」スラーダが炭酸飲料だなんて確認せずともわかるというのに。
「甘いから」
景元はケーキの皿を回し、魚と目を合わせた。食べるか、食べないか。そろそろ食べないと、次に百層サンデーが控えているのだ。さらに後ろにはドリームアイスも待っている。さらにその先も考えると、目が回るほどの渋滞だ。
「私が甘党なのは、君とて──というか、君と師匠だけは──知っているだろう」
食べるか、食べないか──いざいかん。景元はケーキにフォークを突き刺した。目を瞑ってひと口食べる。
「美味しい!」
「よかったな」
ここまで何分かかったか。刃はげんなりして、スラーダを飲んだ。甘い。景元流に言うならばシュワシュワする。今度はこの炭酸が抜けるまで待たねばならないのか。
目覚めてしまってもよかったが、景元が幸せそうにケーキを頬張り、刃に笑顔を向けると馬鹿みたいな気持ちになった。どうせ夢だ。馬鹿みたいな気持ちに身を任せてもいいだろう、と刃は目覚めることを諦める。
「ひと口どうぞ」
景元が魚の顔を刃の口元へ持ってきたので、隙をついてフォークを奪い、逆に景元の口に突っ込んだ。彼は不満げに飲み込む。
「どうだ?」純粋に味が気になったので訊ねる。
「……夢の味がする」
「なんだそれは」
「食べればわかるよ」
「不要だ」間髪入れずに拒否した。
刃の態度もなんのその。景元は残りのケーキも美味しそうに平らげ、ストローに──彼は瓶のまま飲むような性格ではなかったが、刃はラッパ飲みをしていた──口をつけた。
ひと口飲み、景元がキュッと目を閉じた。まだシュワシュワ──まずい、景元の馬鹿げた口調がうつっている──していたのだろう。
「困ったね」まだ刺激の強いスラーダを見つめる。「味は美味しいのだが、炭酸が強すぎる」
「普通だろう」刃はこれ見よがしにひと口飲んでみせた。
「意地が悪い」景元が不貞腐れて言った。「夢なのだから、すぐに炭酸が抜けるべきだとは思わないかい?」
「駄々をこねるな」ため息をついた。「今日はやたらと甘ったれだな」
「将軍様ごっこをして恋人とデートをしているだけの一般人だからね。息抜きだとて大事だろう」
甘えるのが下手な景元だったが、将軍を辞めて、昔をよく知っている刃相手だからこそ寄りかかることができた。とはいえ、身につきすぎて脱ぎ捨てられないものもあるため、演技がかっているところは否めなかったが。甘えるというのは思ったよりも難解である。
だが、刃のそばは肩の重荷にならない気楽さがあった。将軍であることに慣れた日常とはあまりにも対照的だった。彼だからこそ寄りかかることができるのだ──たとえ、演技じみていたとしても。
「わざわざそうしなくとも、景元はそのままでかまわん」
何気なく言われた台詞に、どう反応すべきか迷った。刃は相変わらず無表情で、赤い瞳で景元を見つめている。その色に変化はなく、事実を淡々と述べているようだった。好意的に受け止めることにして、景元は笑顔を向けた。自分の思いどおりにならない男はいつだって景元に驚きをもたらす。愛されているなと実感するのは、こういうときだ。
「しかし、これでは君も退屈だろう。観光をしたり、買い物をしたり、観劇したり、カジノにも行きたいだろうに、すまないね」
刃は、退屈かどうかはわからなかった。喧しい場所だが、景元の話を聞き、景元の顔を見て、ときどき行き交う人々を眺める。手持ち無沙汰を紛らわすには充分すぎる。なにより、観光にも、買い物にも、観劇にも興味はない。カジノはまずまずだったが、率先して行きたいものでもない。
「炭酸が抜ける時間など大した長さじゃない」お互い何百年と生きているのだ。数時間だってあっという間である。
「私の気がすまない。少し待っていてくれ」
景元は店員に話しかけに行った。なにやら交渉をし、笑顔で別れる。彼がたかが店員相手に失敗するなどあり得なかった。
「さあ、行こう」
景元がグラスを持ったまま、刃を誘った。グラスの持ち歩きを許可してもらったらしい。彼は軽い足取りで刃を先導した。どこへ行くのか見守っていると、ショッピングセンターへ向かった。道中でなぜか手を繋いできたため、振り払うかどうか迷ったが、夢の中なので甘受する。本当に浮かれている。そのうち空も飛びそうだ。
どこか店にでも入るのかと思ったが、彼は真っ先にアイスクリームのワゴンへ行き──正気か?──ドリームアイスを頼んだ。繋がれていた手が離れ、景元の手は刃よりもアイスを選んだ。
「正気か?」心の声が口をついて出た。ケーキの次にアイスを食べるとは。どこまで甘いものに固執するんだ。
「ああ、そうだよ」景元はアイスを舐める。「刃もなにか頼むといい」
刃は呆れから首振った。見ているだけで胃もたれがする。口の中が食べていないはずの甘味で甘ったるくて仕方ない。塩辛いものが欲しくなった。
景元はスラーダを刃に押しつけ、ベンチに座ってアイスを食べる。刃はしばらくのあいだ景元を見下ろしていたが、わざとらしいため息と共に隣に腰掛けた。
「こうしているのもたまにはいいものだね」
景元も刃も有名すぎた。ベンチで仲良く座り、ぼんやりとできるなんて夢のようだ。実際、夢であったが。
ちらりと隣を見れば、涼しい顔をした刃がいた。アイスを食べる景元を見ているが、心の中はげんなりしているのだろう。はっきり言って刃のほうが食欲旺盛なのだが、甘味に関して言えば景元の胃袋が勝つ。
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