出涸らしの愛

 元来、朝は苦手ではない、はずなのだ。休みの日でも決まった時間にすっきりと目が覚めるし、ロケなどで早起きが必要な場合でも特段困ったことはなかった。自己管理も完璧にしてこそのトップアイドルなのだから。
 だが今朝は話が別だ。
 HiMERUは自室のベッドにうつ伏せに寝転んだまま、低く唸った。あらぬ所がズキズキと痛みを訴えている。なんとか腕を伸ばし枕元のスマートフォンを確認すると、時刻は午前十一時――普段ならとっくに起きて活動を始めている頃だ。少しの自己嫌悪に苛まれ眉間を押さえるが、仕方がない。今日はオフ。そして悪いのはHiMERUではない。
 夜の間じゅう隣に収まっていたはずの温もりは、随分前にベッドから抜け出てしまったようだった。
「はよ〜、メルメル。ご機嫌麗しゅう〜」
 HiMERUがリビングに出ると、お手本のように元気な挨拶が飛んできた。語尾に♪か☆マークでも付きそうに上機嫌な声の主は、キッチンに立ってこちらを振り返っている。燐音だ。
「……。おはようございます、『天城』」
「きゃはは、他人行儀! つめてェな〜、昨晩はあんなに愛し合ったのによォ」
「チッ……顔を洗ってきます」
「あってめェ今舌打ちしたろ⁉」
 可愛くねェの〜、などとぼやく声はつんと顔を背けて無視してやった。

 顔を洗って寝巻きを着替えたHiMERUがリビングへ戻ると、燐音はダイニングテーブルにだらしなく頬杖をついてコーヒーを啜っているところだった。香ばしい香りに誘われ、HiMERUも空いている椅子に着く。
「ささ、どーぞどーぞ」
 燐音がニッカリと笑ってマグカップを差し出してくるものだから、HiMERUは何も言わず受け取った。
「粗茶ですが……☆」
「粗茶って。誰が豆を買ってると思ってるんですか」
 ここはHiMERUの部屋だから、当然豆もHiMERUが選んでいる。当たり前だ。口に入れるものは全て管理している。
 燐音の厚かましさにはいい加減辟易するが、それでもHiMERUは行儀よく「いただきます」と小さく断ってからカップに口を付けた。淹れたてのコーヒーは、熱くて、けれどいやに薄かった。
 いつもそうなのだ。
 燐音とセックスをした翌朝はいつも、HiMERUが起きてくるのを燐音が待っている(レッスンに平気で遅れてくるような普段とはあべこべだ)。そして昨晩の出涸らしのコーヒーを淹れてくれる。HiMERU好みの味になるよう角砂糖を三個。
 この男は図々しいまでに『勝手知ったる』振る舞いをする癖に、他人の家の棚や引き出しに入ったものをみだりに取り出して使ったりはしない。見えない線を引かれているようで、しかしそれがHiMERUには心地好かった。どこか信頼すらしていた。
 燐音が、小さな唇を尖らせふうふうとコーヒーに息を吹きかけるHiMERUをにやにやと眺めながら問うた。
「どーよ、具合は?」
「白々しい……良いわけないでしょう。あなたのせいで貴重な朝の時間を無駄にしました」
「まァまァそう言いなさんな。たまの休みに昼まで寝てたからって、罰なんか当たりゃしねェよ。むしろこういう時にしっかり睡眠とっとかねーと、倒れられても困るっしょ」
 笑いながら、つい、と燐音がHiMERUの頬にかかった髪を耳に掛けた。その仕草に昨晩の情事が生々しくフラッシュバックしてしまう。かっと顔に熱が集まり、HiMERUはがた、と大きな音を立てて椅子ごと後ずさった。
「……っ! このっ……」
「……この?」
 可笑しそうに小首を傾げながらにまにまと笑む、余裕綽々といった態度が気に食わない。
「デカマラ絶倫野郎……ッ」
「ギャハハハハ‼ 何かと思えば! お褒めにあずかり恐悦至極だぜェ〜?」
「ハア〜〜〜〜〜〜〜〜……」
 HiMERUは、なんだかもうどうでもよくなってしまっていた。うっかり釣られて笑ってしまうし、腰はひどく痛むし。燐音のせいで何も思い通りにいかないのに、何故だか心は凪いでいるし。
 椅子に座り直したHiMERUはいっそ開き直って、再びコーヒーに口を付けた。
「燐音、」
「へいへい〜?」
「HiMERUは以前にも、噛み癖をなんとかしろと言いましたよね?」
「ン〜、言われたっけか?」
「言いましたね、四回ほど。これで五回目ですおめでとうございます」
「わりィって。でもさァメルメル気付いてるか? 噛むとすっげえ締まるんだぜ? 昨日なんて――」
「……。仕事の前の日に噛んだら、許しませんからね」
「譲歩あんがとさんでェ〜す」
「次はありませんよ」
 ふと視線を落としたマグカップの中。ゆらゆらと揺れる黒に映り込んだHiMERUの表情はやはり凪いでいて。
 ――HiMERUは、とっくに気付いていた。
 おはようの言葉に甘くて薄いコーヒー、テンポの良い軽口の応酬。燐音がこちらを見る時、その青空のような瞳にどれだけのあたたかさを湛えているか、知らないHiMERUではなかった。
 これが愛ではないと言うなら、何を愛と呼べようか?
「……ふふ、」
「なんだァ? メルメルもご機嫌じゃねーの」
「そうですね。今朝のHiMERUは、機嫌が良いようです」
 そう、HiMERUは歌うように答えた。それから渡すタイミングを逸して寝室の引き出しに仕舞い込んでいたこの部屋の合鍵を、今日こそは燐音に押し付けてやろうと心に決めた。
 横暴なようでいて臆病な彼が、身勝手に引いてしまった見えない線を、どうか越えてきてくれますように。
 ひと口啜った出涸らしのコーヒーは、胸焼けがしそうなほどに甘ったるく感じた。

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