囀り
一
土井半助が採点の手を止めたのは、廊下の空気がわずかに変わったからだった。風の通り道でもないのに障子の桟がかすかにゆらぐ。殺気ではない。けれども確かに誰かがそこにいる、という気配の密度が廊下の向こう側に生じている。教え子たちのそれとは質が違う。重さがなく、それでいて消し切れていない、わざと残された輪郭のような──短い春を見送る高山の空気にも似た気配がそこにあった。
「土井先生」
障子が開く前に声が届いた。明るく、よく通る声だ。山田利吉は陽の高いうちに学園を訪れるとき、必ずこの職員室に立ち寄って行く。父である山田伝蔵の在不在に関わらず、学園に何か用がある時もない時も、まずはここに来てその呼びかけを置いていく。
「利吉くん。よく来たね」
土井は筆を置き、文机から膝の向きを変えた。利吉は部屋に入ると正座して、懐から包みを取り出して板間の上に置く。
「母からこちらを預かりました。先生にも、と」
それは干菓子の包みだった。山田の奥方は時折こうして、息子に土産を持たせてくれる。土井が礼を言うと利吉は小さく頷き、それ以上何も言わずに包みを押しやった。その仕草の端正さに、かつて囲炉裏の前で膝を抱えていた幼さの残る面影はもうない。父親譲りの涼しい目元が、机の上に広げられた出席簿と赤墨の筆を一瞥して苦笑した。
「採点ですか。お疲れのご様子で」
「一年は組のテストだよ。今回はとくにひどい」
土井はそう言いながら、湯呑みを二つ取り出して茶を注いだ。利吉は礼を述べて受け取り、一口含んでから静かに湯呑みを膝の前に置く。
それは何でもない時間だった。窓の外では雀が軒先の枯れ枝を奪い合って甲高い声を上げている。利吉がこの部屋に寄るのはいつもほんの僅かな間で、茶を一杯飲み干すか干さないかのうちに立ち上がり、伝蔵がいなければ父の居場所を尋ねて去っていく。ただそれだけのことを、彼は忍術学園を訪れるたびに繰り返していた。
ふと土井の口をついて出たのは、ずっと片隅に転がっていた、小石のような問いだった。
「利吉くん、そういえば──いつの間にかお兄ちゃんって呼ばなくなったよね」
利吉の手が、再び湯呑みに伸びかけたところで止まった。それはほんの刹那のことで、指先はすぐに何事もなかったかのように湯呑みを取り上げて口元へ運ぶ。
「急にどうしました?」
「いや、ふと思い出してね。昔はそう呼んでいただろう」
昔──その一語が指すものを、土井は今でも正確に測ることができる。山田の家の、自分に与えられていたあの奥まった部屋。炉の火が揺れる静かな夜に、まだ声変わり前の少年が布団の中からこちらを見上げて『お兄ちゃん』と自分を呼んだ。氷ノ山の底冷えする夜気の中で、その声だけがいつも温かかった。
利吉は湯呑みを膝前に戻し、姿勢を正した。彼が何かをはぐらかすときには、逆にこうして背筋を伸ばすことを土井はいつからか知っている。
「──私は山田利吉ですので」
それは答えであって答えではなかった。土井が問いを返す前に、利吉はすでに立ち上がって着物の裾を軽く払い、障子に手をかけていた。
「母からの言伝てがありますので、父を探してまいります」
「利吉くん」
呼び止めた声に、利吉は振り返らなかった。ただ障子の前で足を止め、横顔だけをわずかにこちらへ向けた。口元には笑みとも取れない薄い線が引かれている。
「……また参ります、土井先生」
障子が閉まり、気配が遠ざかっていく。来たときと同じように音もなく、けれども土井にだけは辿れるだけの痕跡を、やはり消さずに残して行った。
土井はしばらく閉じた障子を眺めていた。それから手元の出席簿に目を落としたが、赤墨の墨を擦り直し始めた。
──土井半助。
それは自分が二十の年に、山田伝蔵から授かった名だった。名を持たない男がこの場所に根を張るための、たった一つの楔となる字。忍術学園一年は組教科担当担任、土井半助。その名がなければ、おのれは未だ何者でもないまま闇の底を這い続けていたかもしれない。
利吉はそれを知っている、と土井は思った。あの呼び方を──お兄ちゃんと呼ぶことを利吉がやめたのはおそらく、自分がこの学園で土井先生と呼ばれ始めたのと同じ頃だった。
あのころ利吉は十三だったか。自分が学園に職を得て、山田の家を離れた日。見送りの場で利吉は何も言わなかったけれど、幾月後かに学園に姿を見せたとき、彼の口から出た最初の言葉はそれだった。
──土井先生。
その名は、この場所にいるためのよすがだった。名を持たない人間が門をくぐり教壇に立ち、生徒の前で『土井先生』と呼ばれることで、初めてここにいてよい人間になれた。名前とは居場所そのものだ。
──私は山田利吉ですので。
墨を磨る手が止まった。
山田利吉。父がいて、母がいて、帰る家がある男の名だ。山の奥の囲炉裏の煙が低く棚引くあの家に、いつでも戻れる男の名だ。
利吉はそれを知っている。名前というものが何を繋ぎ止めるかを知っている。だから彼はここでの自分をお兄ちゃんとは呼ばない。あの呼び名は山田の家の記憶に属するもので、名もなかった頃の、まだ誰でもなかった男にだけ向けられた声だった。
土井先生、と利吉は呼ぶ。忍術学園に来るたびに、必ず。
ここにいてください、と。
利吉は一度もそうは言わなかった。代わりに忍術学園を訪れるたびにこの部屋を訪ね、土井先生、と呼びかけた。それだけのことをただ繰り返した。鳥が朝ごとに同じ枝で囀るように。
窓の外でまた雀が鳴いた。声は中庭の木々を渡り、やがて屋根の向こうへ消えていく。
干菓子の包みの薄紙が、かさりと軽く音を立てた。
二
利吉が採点を手伝うようになったのがいつからだったか、土井はもう正確には思い出せない。
おそらく最初は、職員室で父の帰りを待つ間の暇潰しだったと思う。土井の机に積まれた答案を横目で眺めていた利吉が、「一枚、見てもいいですか」と手を伸ばし、土井が頷いたのが始まりだった。それが二枚になり、五枚になり、いつの間にか利吉が学園に来るたびに土井の隣に座って筆を執るのが、二人の間の慣例になっていた。
その日も利吉は、土井の机の脇に自分の場所をつくるように座り、一年は組の答案を黙々と捌いていた。朱を入れる手つきに迷いがない。正誤の判断が速いだけではなく、生徒の解答の意図を汲んだ上でどこまでを部分点とするかの線引きが的確だ。土井が自分でつけるのと、基準がほとんど揃っている。
土井は自分の手元の答案に目を通しながら、時折利吉の横顔を視界の端で捉えていた。朱の入った答案を丁寧に揃え、次の一枚を取り上げ、設問と回答を照らし合わせる。その所作のひとつひとつに仕事を粗末に扱わない人間の手つきが滲んでいる。忍としての鋭さとは別の、もっと静かな種類の能力だった。
利吉が最後の一枚に朱を入れ終え、答案の束を揃えて土井の机に置いた。
「終わりました」
「ありがとう、利吉くん。助かったよ」
利吉は小さく頷き、筆を置いて指先についた朱墨を懐紙で拭った。立ち上がる前の、ほんの一拍の間──土井の口が動いたのは、その間隙だった。
「利吉くん、忍術学園の先生になったらいいのに」
利吉の手が止まる。懐紙を畳む指先が暫し静止し、それからゆっくりと動きを再開した。
「……私には、フリーが性に合っていますので」
声は平坦だった。怒りも呆れも照れもない声だ。利吉は懐紙を懐にしまい、膝を払って立ち上がった。
「父上は今は?」
「演習場におられると思うよ」
利吉は一礼して障子に手をかけた。開いた隙間から廊下の光が差し込み、彼の輪郭を一瞬明るく縁取った。そして静かに障子が閉まり、ゆっくりと気配が薄れていく。
土井は利吉が揃えた答案の束に目を落とした。朱の筆跡は端正で、どの答案にも過不足のない評点がつけられている。教え子の書いたものを読み、理解し、正しく量る。それは教壇に立つ者の仕事そのものだった。利吉がそれを自然にやってのけることを土井はとうに知っている。
──忍術学園の先生になったらいいのに。
おのれが感謝と労いの形に隠した願いを、利吉は果たして汲み取っただろうか。忍の死に方は相場が決まっている。野垂れ死にか、忍務の果ての討ち死にか。城に仕えれば飼い殺しにされて朽ちるか、不要と見なされて始末されるか。フリーならば腕の衰えとともに仕事が途絶え、その先に待つものを土井自身がよく知っていた。山田の家に拾われる前、抜け忍として追われながら、どこでどう死ぬかもわからぬまま這うように生きていた日々を、土井の身体はまだ覚えている。
けれども、この学園は違う。
ここでは忍が朝に起き、子どもたちに術を教え、夕暮れには同僚と歓談し、夜には自分の部屋で眠る。それを何年も、何十年も繰り返すことができる。忍が老いていくことを許される場所を、土井はここしか知らなかった。
利吉にもそうあってほしい、と思うことは、おそらく土井の我が儘だ。利吉が選んだ道は利吉のものであり、そこに口を挟む資格など土井にはない。利吉は山田利吉として自分の脚で立ち、自分の手で仕事を掴み、自分の意志で帰る場所を選ぶ。その生き方を尊いと思う心と、それでもあの横顔が朱筆を持つ姿を忘れられない心が、土井の中で並んで黙り込んでいた。
できるだけ長く生きてほしい、とは言えなかった。どこかの城の濠端で、名も知られぬまま事切れるような最期を迎えないでほしいとも、氷ノ山の家で朝餉の支度をしている母親のもとへ、いつでも帰れる身体のままでいてほしいとも言えなかった。その全部を、『先生になったらいいのに』という一言に押し込める。答えを期待しているのではなかった。ただ声に乗せて、願いの形を置いておきたかった。
囀りのように。同じ枝で、同じ朝に、意味など問われぬまま繰り返される音として。
powered by 小説執筆ツール「arei」
60 回読まれています