Until death do us part - デプ/ウル

 ドサッと音を立ててソファーが揺れ、ローガンはテレビから隣へと視線を向けた。フードを被った不審者がソファーの座面に顔面から沈み、沈黙している。不審者は、しかし手首にふざけた絵柄の時計を巻き、背中いっぱいに猫モチーフらしいキャラクターがプリントされたフーディを着ていることからも正体は明らかで、何よりローガンの嗅覚が間違えようもなくその男の正体を把握していた。ジャック・ダニエルの瓶を傾け、視線をテレビに戻す。
「…………………フラれた」
「そうか」
 テレビの中で、小さなねずみがわざと猫の尾をドアに挟む。甲高く悲鳴を上げた猫が飛び上がり、既に逃げおおせたねずみの姿を探して家中をひっくり返して回っている。
「ローラは?」座面が言う。
「ユキオとネガソニックと出かけた。三人でパーティーだと」
「まあ~楽しそう。俺ちゃんも参加してこようかな」
 ねずみを捕まえようと、猫がねずみ獲りを仕掛ける。壁越しにねずみの到着を待つ猫の足元で、ねずみはこっそりとねずみ捕りに猫の尾をひっかけ、ひょいと仕掛けにのったチーズを取り上げた。「酒は出ないらしい」猫がまた悲鳴を上げて、ねずみは自分の巣に帰りその悲痛な声に腹を抱えて笑う。
「出ないの? なんて、当たり前だろ。ティーンたちには酒よりもっと楽しいもんがいっぱいあるんだ。例えば……酒以外の飲み物とか? でもそうだな、今日は飲みたい気分かも」
「俺とデートするか」
「えっ」猫がねずみの巣に爆弾を放り込む。ちらりと横に視線をやれば、ようやく顔を上げたウェイドの目にドカァンと炸裂した爆発のエフェクトが瞬いている。
「ウルヴィーそんな冗談も言えるようになったのねえ。俺ちゃんびっくり」
 壁ごと爆破されたねずみはまる焦げになって、吹き飛んだベッドの残骸のうえで次の仕返しをたくらみ始めている。───こいつら、いつまでこの喧嘩を続ける気だ? ローガンはまた瓶を傾け、いよいよ尽きた酒の雫に瓶の口を舐めた。 
「お前が冗談だと思うならな」
「……嘘だろ?」



「まあこんなことだろうと思ってたけどね。三行前の『嘘だろ?』の時点でオチは見えてた。それでも優しいクズリちゃんならもしかしたらってそんな淡い期待を抱いて俺ちゃんは誘いに乗ったわけで、今もっともナイーヴで傷つきやすくなってるその心を見事に引き裂いてくれるんだからさすが"ウルヴァリン"。なあピーナッツ、聞いてる?」
「文句があるなら帰りゃあいいだろ」
 大抵の酒場に、ローガンはくつろぎを覚える。なぜなら酒場で酒が尽きることはないからだ。半年ほど前に初めてここを訪れたときもそれなりに安らいだ心地で過ごしたが、今では気兼ねを覚えることにためらうほどのくつろぎようだった。店の奥、壁際のテーブル席で壁に背を預けたローガンに向かって、店主・ウィーゼルが渋々といった様子で近づいてくる。
「なあおい、俺今日は店開けないって───」
「それじゃあ俺はなんのためにここまで来たんだ? 慰めてくれるんじゃないのかよ」口を開きかけたウィーゼルを無視して、テーブル席の反対側から肩をいからせたウェイドがローガンを指で指す。
「俺はデートに誘っただけだ」
「二人とも───」
「クズリちゃん人間とデートしたことある? あるよな、もちろん」
「ご期待に沿えず悪かったな」
「クソ────お客さん、ご注文は」
「ジンとオリーヴ」
「ナッツも」
「ナッツ追加」
 ゴン、と鈍い音を立ててショットグラスがテーブルに置かれる。クリームを浮かべたそれが二つと、殻付きピスタチオが盛られたガラスのボウルが一つ。注文違いの品に、ローガンとウェイドはようやくテーブルの脇に立つウィーゼルの顔を見た。
「聞けよ、身勝手ジーサンズ。シスター・マーガレットは本日終日休業。一か月前から言ってたよな? 今日はデュアのライブなんだよ!」
「言ってたかそんなこと」
「聞いてなかった」
 ビッと音が立ちそうな勢いでウィーゼルがローガンの背後の壁を指す。長い赤毛を艶やかにかきあげたポップスターのポスターに、大きく日付が書き込まれて飾られている。
「これどっから盗んできた? てかこの日付って今日?」
「今日だな」
 二人が肩を竦めるのに大きくため息をつき、ウィーゼルはピスタチオ・ボウルに鍵を放り込んだ。それからさっと背を向け足早にドアへと向かい、カウンターからジャケットを取り上げる。
「セックス以外なら好きにしてくれ、金は後でもらうからな」
「ジンはどこにある?」
 ローガンが聞くと、ほとんどドアをくぐりかけていた背中がぴたりと足を止め、カウンターのボトルを取り上げてドンとテーブルにボトルを置いた。
「アンタはカウンター出入り禁止だぜ、ホットガイ」
「……どうも」
「ヘイ、マブダチの失恋よりUKポップスターの美声かよ。ひどい裏切りだ、テイラーのコンサート一緒に行った仲だろ!」
「行ってない。それに俺が聞くべき失恋話は明日のはずだ」
 ウィーゼルの言葉に、相変わらずフードをかぶったままのウェイドの肩に緊張が走る。わずかな挙動だったが、ローガンは見逃さなかった。「いけず」と大仰に肩を落とすウェイドを振り返ることなく、ウィーゼルは断固とした足取りでドアをくぐり、締まりかけのドア越しに「セックスは禁止!」と叫ぶ声を残して去っていった。

「俺に優しくしてやろうってやつはいないわけ?」
 早々にカウンターの裏側を漁りながら、ウェイドがぼやく。ローガンはパキ、と小気味よく開く蓋と、ボトルの口から吹き上がるアルコール臭に唇を舐めた。
「Tシャツに大きく書き出すべき? 傷心中、優しさ求ム。フリーハグ。インフルエンサーお断り、エクスクラメーション四つ」
「それだけ口が動いててまだ慰めがいるのか? おい、ついでにオリーヴを出してくれ」
「俺ちゃんのことなんだと思ってんの?」
 抱えた瓶をテーブルの上に並べて、ウェイドはまずウィーゼルの残していったショットグラスを手に取った。飲むかとばかりに小首をかしげる仕草に首を振ると、OK、と小さく呟き、ウェイドは一息に二杯、口の中に注ぎ込んだ。
「マナー違反失礼。最近機会がないから顎関節の開きが悪くて」
「俺の専門外だ」
「酒の話? 性技の話?」
「ハ、うるせえラジオめ」
 ウェイドがオリーブにステンレスのピンを刺し口元に差し出してくるのを、ローガンは指先でつまんで口に放り入れる。バイトだという青年の目利きで仕入れているらしいこれは、ローガンのこの店の気に入りのひとつだった。口の中でいくらか丸い粒を巡らせてから、奥歯で柔いそれを音もなく噛みしめる。じんわりと口腔に広がる風味は、くたびれた様相のバーには不似合いなほど上品だ。
 舌を満たす味わいを堪能して、知らず閉じていた瞼を開けば、すっとウェイドの顔が大きく横へ逸れた。もちろん、目線の先にはビリヤードと空の椅子ばかりで、猫から逃げまどうねずみもいない。
「……え~~こちらBBC4、本日お送りするのは今大人気のソープオペラ。タイトルは『頼まれたって黙ってやんない』、今回は五時間ぶっ通し一挙放送でお届けいたします」
 何事もなかったように、そう言ってウェイドはガラスボウルの中のピスタチオを手に取った。カラカラと、バーの鍵についたキーホルダーがガラスボウルの側面を滑る。よくよく見れば、それはカートゥーンの中でねずみが猫を仕留めたのと同じチーズの乗ったねずみ捕りだった。脳裏で先ほど聞いた猫の悲痛な悲鳴がよみがえり、自然と浮かんだ笑みをそのままに口を開く。
「夜更かしにはちょうどいいな」
 パキン、とピスタチオの殻が割れる。沈黙の中、天井の高いバーにそれはよく響いた。
「……なんだ、もうお役目放棄か」
「ちくしょう………………セクシーすぎる」
 ボトルに口をつけようとして、ローガンは手を止めた。今こいつは何の話をしている?
「ほら見ろ、なんだその眉の角度。いかにも俺が言ったことに興味がありますみたいに器用に持ち上げてさ、エディ・エドワーズが滑り降りたジャンプ台の角度にエロス感じたことある? ああほんと、俺完全に参ってる。いいか、十秒前からオフレコだから、頼むよ。今の俺はマインドパレスでワトソンに語りかけてる世界一セクシーな声の世界一有名な探偵なの。わかってる? アンタにそうやって興味を向けられるだけで黄色い悲鳴で喉を裂いたりパンツの中どろどろにしたり今夜夢で逢えたらって願うやつはごまんといる。その薄い唇が開いて閉じればそこらじゅうでテントが乱立するし、気安く挨拶でもしてみろよ、お返事は甘ったるいため息のはずだ。ここに来る道すがらすれ違いにワォと囁いてアンタの後ろ姿まで名残惜しそうに見つめてたあのカップルだってそうだ! 殺しとけばよかった」
「お前は?」
「俺はそりゃあ────ちょっと待て、何?」
「お前はそのうちどれだ」
 ローガンは今度こそボトルに口をつけた。ウェイドがその問いに答えないことはわかっていた。音を立てて喉に流れ込む酒精がにわかに熱を持って胸を焼く。慣れ親しんだ感覚が、しかし今日はどこか物足りなく感じられて、次いで二度三度と瓶の底を天井に向ける。
 ラベルの半分までボトルの中身が減っても、ウェイドは何も言わず、茫然と手の中のピスタチオを見つめたままだった。殻を砕かれ、茶色くくすんだしわくちゃの薄皮から緑の剥き身を覗かせたそれをどこか憐れむように見つめるばかりで身動ぎひとつしない。また胃の底に物足りなさを覚えたローガンは、ひょいとピスタチオを奪い口に放り込んだ。ウェイドがピスタチオの行方を追って顔を上げて、行く末を見送る間でもなくまた俯く。
「俺のジョークはそんなにひどいか」
 す、と息を呑む音がした。それから数ある瓶の中からブランデーを手にしたかと思うとあっという間に飲み干し、ふらりと持ち上がった目が正気を手放すか手放さないか、迷いながら瞬く。
「ああ、最悪だ。面白くもない、皮肉もない。センスのかけらもないね。ついでに、俺はもっと最悪だ…………」
「ウェイド、お前いつにも増しておかしいぞ。何があった?」
「だからフラれたんだって、」
「ああわかってる、フラれたんだろう、数年前に別れた彼女に。また。三度目か、四度目か? それだけでそんな腑抜けたタマ無し野郎の面下げて帰ってきたのか?」
「クソノンデリ野郎! ちょっとは容赦しろよ。悪かったな! 通常運転だよ、普段通りでこれだ。クソ、俺はいつだってイカれたヤク中の出来損ないだ」
「いいや違う」
 ソファーに全身を投げ出し、ウェイドが天を仰ぐ。手から滑り落ちたボトルが鈍い音を立てて床を殴ったが、ローガンは追及の手を緩めない。言葉にした以上に、違う、という確信がローガンにはあった。
 ウェイドにとってヴァネッサがどれほど大切で、ウェイドの「全世界」を形成しているか、長くもない共同生活の中でもよくわかっていた。大切だからこそ、彼女と築いてきたこれまでをこの先も大切にしていくため、もがく姿も知っていた。もがいてあがいて苦心しながら、彼女とのひとつの別れを受け止めようと別れ話を繰り返すデートをしていることも。
 ウェイドが今浸っている憂鬱が大切な彼女が残した傷にあるものではないと、ローガンは直感していた。
「お前が飲んで忘れようとしてるものはなんだ。クスリで誤魔化しようもない、惨めな現実はなんだ」
 ウェイドはやはり、すぐには答えなかった。店内にはローガンが酒を煽る音と、ぐす、と湿っぽく鼻が鳴る以外静寂に満ちている。
 さらに一本ボトルが空になり、道の遠くから喧嘩のような怒号が聞こえてきたとき、諦めを滲ませたブラウンの瞳がローガンを見た。
「OK、いいぜ、洗いざらい話してやるよ」
 涙に濡れた声が言う。
「ただし、覚悟しておけ。長ったらしい回想シーンは無し、感傷的な音楽も流れない。……後悔しても知らねえからな」

 アンタも知ってると思うけど、と前置きをして、ウェイドは口を開いた。「世界」を救って以降、時々は電話をして夜遅くまでおしゃべりしていること、ヴァネッサの都合がよければ直接会って食事に行ったりもしていることを、ブランデー色の声は凪いだ調子で、しかし血の通った暖かさを待って語った。そして「最近例のボーイフレンドと別れたんだって」と続けた。
「少し時間があるっていうから、今日は軽く食事に行くことにした」
 話しながらウェイドはピスタチオの殻を割り続けた。ぼろぼろと砕けた殻から薄皮のついた実を取り出し、萎びて乾燥した薄皮を指の腹で剥く。そこまでやるとポイとテーブルの上に投げやり、ローガンがそれを拾って食べた。
「円満に別れたって。忙しくなって時間が合わなくなったからって、愚痴は元カレより仕事の方が多かった。だからいつも通り他愛のない話をして……流れで、聞かれたんだ」
 ───あなたは? 最近特別な誰かと過ごした?
「……そう聞かれたらちょっとチャンスがあるのかなって思うだろ。思ったっていいはずだ」
 ぐす、と今度はわざとらしく鼻が鳴らされて、否定も肯定もなくローガンは肩を竦めて応える。
 ───どうかな。もしかしたら今日……今夜、特別な時間を過ごせるかも。
 きっとウェイドは、テーブルの上に置いたヴァネッサの手に指を添え、垂れた上瞼でそれらしく上目遣いでもしていただろう。状況は容易に想像できた。そして望み薄だとわかっていて期待をひっくり返してちゃかす男の真意を、彼女は当然見透かしていたはずだ。
 ローガンはヴァネッサと友人と呼べるほど知り合ってはいなかったが、わずかにでも顔を合わせ言葉を交わした時間とウェイドのこれまでの話しぶりから、肝が据わった思いきりのいい女性だということはわかっていた。彼女の言葉は別れた相手にその気もなく思わせぶりをするためではなく、前途を思いやっての優しさから出たものだ。
『もしかしたらってそんな淡い期待を抱いて』そう言ったウェイドの言葉がローガンの脳裏によみがえる。
 ───ごめん、もう少し付き合いたいんだけど……明日は緊張する場面があるから、備えておきたくて。
「残念そうだったって思うのは俺の下心のせいか? でも、頬にキスしてくれた彼女は、少なくとも名残惜しそうだった」
 ───またね、ウェイド。おやすみなさい。
「………仕事が楽しいって。彼女、本当に幸せそうで……満たされてるって感じだった。正直言って、安心した。何様だよって感じだよな。でも……今、彼女にとっての一番の幸せは彼女自身の手の中にあるんだって、安心した」
 ピスタチオがテーブルのそこら中に散らばっている。ローガンが拾うことをやめても、ウェイドは殻を剥き続けた。ボウルの中のピスタチオが尽きると、今度は手元に残った殻を小さく粉砕していく。薄い殻が砕かれて、砕かれて、散っていく。
「俺は完全にいいお友達だ。もちろん、これからも彼女の幸せなエピソードも、殺したいってくらい腹立った誰かの愚痴も聞きたいし、力になりたい。健やかなるときも病めるときも………彼女が俺を頼ってくれるときには、いつでも」
 思ったより現状に納得しているらしいと、ローガン新しいジンのボトルを開けながら思った。拭いきれない未練は明らかだが、それをうまく自分の中に収めて別の関係性を獲得しようとしている。ウェイドがヴァネッサをどれほど想っているか、それはローガンが思っている以上だった。
 ウェイドは話を続けた。
「彼女が俺に『特別な誰か』って尋ねたとき、自分でも意外だった……それだけで思いつくやつがいたなんて」
 ウェイドがそこまで言うと、ひとつ、音がした。
 鼓膜を揺らす、耳に聞く音ではなかった。熱と質量を持った確かな視線が、ローガンを捕らえる音。動揺からジンを飲み下す喉が大きく鳴って、ローガンは煩わしさに顔を顰めた。
「……嘘ついた、意外でもなかった。正直わかりきってた。彼女を愛していることに変わりはないけど、新しい特等席のご用意はできていたのかも」
「お前は彼女しか愛せないもんだと思ってたがな」
 フードを脱いだウェイドの顔が、さっと感情を翻す。凹凸のある肌は気色ばむとまだらに色づき、特に肌の薄いところが脈打つ血の色をよく見せた。
「俺はパンセクシュアルだ。聞いたことあるか? ゲイパニック起こすなよジジイ」
「俺がお前をぶん殴るのにわざわざクソみたいな言い訳をすると思うか」
「残念、思わないね。ヘイトクライムはクソだ!」
「ああクソだ。それでお前は、何にそんな絶望してる?」
 ウェイドの手がテーブルの上で拳を作り、ピスタチオの殻が床に散る。
 ローガンはすでに、ウェイドの話の行き着く先を心得ていた。決して核心に踏み込もうとしないまま、ぐるぐるとその周囲をなぞって歩くウェイドの様子を見ていれば、その核心の輪郭もほとんど明らかにされたようなものだ。だが、ウェイドが核心の正体をわかっていてなぜ悲嘆に暮れているのかはわからなかった。
「こうやって俺を慰めようと一緒に飲んでくれるアンタの存在にだ、バディ。……まだそう呼んでいいか?」
「……まだ?」
「嫌になったかもって」
 ウェイドがフードをかぶり、口元に笑みを貼り付ける。ローガンは、己の忍耐に限界が迫ってきていることを自覚した。嘘くさい笑顔に首の後ろがじりじりと焼けつくように熱を帯びている。こめかみのあたりが引きつったように震えて、噛みしめた奥歯がギリリと軋む。
「おい、厚顔無恥のクソやかましいラジオはどこに行った。お前は何にそう卑屈にいじけて、」
「俺は誰かの運命にも、ヒーローにもなれない。誰の正解でもない」
 ボトルの底をテーブルに叩きつける。けたたましい音と共に、無数のピスタチオが跳ねた。ウェイドは動じず、いやに冷めた目でローガンをひたりと見据えて笑みを崩さない。
「落ち着けよ。これが俺の、もう誤魔化しようもない、惨めな現実だ」
「お前は何もわかっちゃいない」
「わかってるさ。俺には、アンタの隣にいる資格なんてないのかも」
 ────ガチャン!!
 振りきったローガンの腕に弾き飛ばされて、ガラスボウルが泡のように欠片を散らした。ウェイドがそれを目で追い、ああ、と哀れっぽくため息をつくのにも神経が逆撫でられる。
 しゃべることしか取り柄のない壊れたラジオめ───違う。
 薬漬けの頭でまともに判断できてるつもりか?────確かにそうだが、そうじゃない。
 彼女が愛した自分すら信じられないのかタマ無し野郎─────今言うことじゃないだろ。ああ、クソ。
 言葉にならないいら立ちが、ローガンの喉にわだかまり低く唸りを上げる。それでも何か、この男には言ってやらなければ気が済まない。
 ソファーを足場にテーブルに乗り上げ、キーホルダーその他諸々をブーツの足裏で蹴散らす。いくらか片付いたそこへローガンは腰掛け、脚の間に閉じ込められたウェイドは両手を上げて降参を示した。
「おい、おいおいおい、こんなとこで公開フェラはさすがに俺ちゃんも気が引けるっていうか、ウィーゼルにマジで殺されるから勘弁って、」
 指の甲を裂く爪が、ウェイドの肉を裂き骨を切る。肩にめり込んだ拳に圧迫されて、傷口からは鮮血が溢れるように滲んだ。
「ファック! なんだよ、クソ痛ェ!! おい、目の前にいるのが誰かわかんないほど耄碌してんのか?!」
「俺がなんでここにいるかわかるか?」
「何?!」肩を刺す痛みからか、ウェイドが涙声で吐き捨てるように叫ぶ。
「俺はクソTVAのクソ大量な書類にクソなほどサインしてクソめんどくさい手続きを済ましてまでここにいるって言ってんだ」
「催してんの?!トイレは入り口の左手!」
「お前と救ったこの世界に残るためにだ」
 ウェイドがはっと顔を上げ、ローガン、と息を漏らすように名前を呼んだ。
「過去は変えられなかった。だが、終わり方も選べない破滅の日々からお前は俺を引きずり出した。最初はクソくらえとも思ったが……お前が言った言葉を、俺は忘れてないからな」
「……俺、何か言ったっけ」
「"自分が救った誰かに救われるって、とにかく最高だ"」
 肩に押し当てた拳からウェイドの全身から力が抜けていくのを感じて、ローガンは爪を引き抜いた。ずるずると脱力した体で、ウェイドはかろうじてソファーに寄りかかって座っている。茫然とした表情はもはや何も語らず、口が何かを言おうと形を作っても、音になる言葉はなかった。ローガンはそんなウェイドの顎に指をかけて上を向かせると、その双眸に自分を映させた。
「この先も、お前が大切にしたい世界はお前の好きなように守りゃあいい。俺は、お前の幸せなエピソードも、殺したいってくらい腹立った誰かの愚痴も聞いてやるし、健やかなるときも病めるときもラリってようが体が半分になってようが、まあ気が向いたら隣にいてやる。……お前が俺を、頼らなくてもな」
 唇がぎゅうっと引き結ばれたと同時、ウェイドがローガンの手首を掴んだ。軋むほど強い力が、ぶるぶるとローガンの指先を震わせる。痛みは感じられなかった。ただ、肌に感じる体温はこれまでにないほど熱かった。
「………アンタがそんなに優しいのは、ウルヴァリンだからか? みんなのヒーロー、X-MENのウルヴァリンは、そんなヒーローの優しさにみっともなくケツ穴うずかせて、親切スマイルにエロスを覚えて情けなく股の間熱くする野郎にも優しいもんなのか?」
「安心しろ、少なくとも肩に躊躇なく穴開けるのはお前にだけだ」
 手首の拘束を解くと、ローガンは唯一一本、テーブルの上に残っていたウイスキーを手に取った。一口煽れば、この上ない満足感が胸を満たす。いい酒かとラベルを見れば、いつもと同じ、大量生産製のラベルが貼られていた。ローガンとの距離ができてひと心地ついたのか、ウェイドがまたぺらぺらとよく回る舌でローガンの言葉尻を掬う。
「ああ、ダメダメ。本当によろしくない。いい? そうやって『お前だけ』って言葉は前後がどれだけ最悪でも特別感が出ちゃうもんなの。万人に色気振り撒くなって何度言ったら………ちょちょちょ待って、顔が近づいてる気がする。なんで首に手をかけてくんの? もしかしてキス? ハハ、まさかね、キスでハッピーエンディングなんて2010年代で完全に終わりだって─────」
 鼻先が触れあう距離で、ふとローガンが動きを止め、ウェイドは息を詰めた。『ハッピーエンディング』、ウェイド言ったそれは、ようやく行き着いた核心だった。ふ、と息を漏らして片眉を吊り上げたローガンに、ウェイドがいよいよ喉を引き絞る。
「Hey、バディ。………パニックは起こすなよ?」



@amldawn

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