チョコレート


――二月のデパートのチョコレート売り場に本当に行くのか。絶対に後悔するぞ。


行き交う人の後頭部をたっぷり一分も眺めていた譲介は、一也からの忠告を「大袈裟なんだよ、お前は。」と笑って聞き流したことを早くも後悔し始めていた。心配性の男が、昨日に限っては何度も譲介に念を押していたのにはそれなりの理由があった訳だ。
七階の催事場に作られたチョコレート専用の特設売り場の混雑は、確かにバレンタイン初心者には厳しいものがあった。一也の顔に続いて譲介が思い出したのは、二月の百貨店のバレンタイン特設会場なんて、登山家にとってのチョモランマの壁みたいなものだから、何か買えるだろうなんて甘い気持ちでいるならインターネット通販を使った方がいいわよ、という宮坂の呆れ顔だ。
ライオンが見張ってる地獄の門をくぐって無事に出て来られたら拍手してあげるとまで言われてしまった。
これまではずっと貰う側だった。三月に付き合っているとは限らない女の子たちのために譲介が選んだのは、花やシャンパンに、小さな焼き菓子。チョコレートの代わりになるものならいくらでもあって、譲介は悩んだことはなかった。
しかも、ここ数年の事務所の方針で食べ物を受け取ることがなくなってからというもの、バレンタインに口にするチョコレートと言えば、一也が買って来て寄越してくる高級チョコくらいだった。友チョコという言葉が流行る前から何年もお高いチョコのお裾分けに預かっていたせいで、自分でも買い物くらい行けると勘違いをしていたらしい。
本日分は完売しました、という声に合わせて、大晦日に祓われたはずの煩悩の数ほどのため息があちこちから聞こえてくる。その上、中に分け入れば人の後頭部しか見えないような状態だ。譲介は、売り場に脚を踏み入れる前から、その熱気に圧倒された。
勿論、どの店も早稲田界隈で流行りのラーメン店のような行列が作られているというわけではない。おそらく普段は地下にも店舗があるのだろうという出店もあって、その辺りは人が少ない。今日は毛糸帽と伊達眼鏡でどうにか周りにバレないように取り繕っているとはいえ、これ以上の混雑の中を分け入って進む気力が起きない。
譲介は、なるべく手前の一列から、流すようにショーケースの中の商品を眺めつつ端から端までを歩き、自宅用の割れチョコあります、と描かれた黄色いポップに目を留めた。
譲介が見ると、タブレットを十種類の味で展開しているショーケースの中の正規品に対して、その自宅用の割れチョコの味は種類が限られていて、ミルクにビター、塩キャラメル味にラズベリーと言う四種類と、その全ての種類を混ぜた袋があるだけだった。頭に白い帽子を被った売り子の女性が譲介の視線に気づき、全種類、試食もありますがいかがですか、と言った。
今日がアルバイトの初日だろうか、緊張はしているものの、そのはきはきとした喋り口調が気に入って、譲介はショーケースの上に置かれた自宅用の包みのうち、ビターチョコと書かれた一袋を取り上げて、これ一つください、と言った。
二千円です、と店員は譲介に言った。これまで、一也が譲介に食べさせたチョコレートの中で一番高かったのは、四粒入って六千円したトリュフだか生チョコレートだった。フランス革命の時代に生まれていたら僕は真っ先に首をちょん切られるだろうな、と言うと、舌の上で溶ける上品なそのチョコレートを一緒に食べていた一也は、何が楽しいのか笑い転げていた。あれ以来、自分の口に入る菓子の値段はなるべく考えないようにしている。ベルギーから空輸されて来る輸入品にしろ、スーパーで買える板チョコにしろ、金額を比べることには意味がない。
もし、あの人が興味を持たなかったとしても、こうした甘すぎないチョコなら、いつものように失恋の味を自分の腹に納めるだけだ、と譲介は思う。

「お邪魔します。」と譲介が言ったところで、玄関に出迎えてくれる人はいない。
家主が出掛けた後の部屋は、人気がなくしんとしていた。
譲介は着ていたジャケットを脱いで玄関先の灯りを付け、白身魚に葱や豆腐、白滝と言った鍋のセットが入ったスーパーの袋を床に置いてから、暫く換気がなされていなかった淀んだ空気の部屋に入っていく。上着を脱いでしまうと確かに寒いけれど、二月の外気温と比べているせいか、それなりに暖かく感じられる。寒さに慣れるまでの間にと、譲介は窓を細く開けて空気を入れ替える。
エアコンを稼働させるのは、窓を締めてからの話だ。その間にキッチンスペースに行き、買って来たものを片付けてから、いつもの白い湯沸かしに水を満たして電気を入れた。新しい引っ越し先としてTETSUが購入したこのマンションは、規約に引っかかってしまうので、昔のように湯沸かしや焼き芋が出来る灯油ストーブが置けないのだ。
北欧風の洒落たものがNGなら、せめてティファールにしましょうと提案する譲介に対し、機能重視でいいんだよこういうのは、と譲らない年上の人の声で導入された、この象のイラスト付きの湯沸かしは、明らかに最新式のシステムキッチンからは浮いている。
あの人がどてらを着ている時の書割としてなら、確かにこの上なく似合ってはいるけど、と思えば、少し複雑な気分だった。


TETSUから不在の間、この部屋の出入りを自由に許されていることに胡坐をかくつもりはないけれど、雪が降る寒さの中と夏の真っ盛りだけは別だった。譲介は、地方公演に行ってしまったTETSUが帰る日には、こうして部屋のエアコンを稼働させて家主を出迎えることにしていた。
あらかじめ聞き出したその帰宅の日に帰って来れるかどうかは、TETSUが打ち上げでどれだけ飲むかという話に掛かって来る。譲介は、宿泊先のベッドでは寝つきが悪いと言う年上の人が、自分の寝床に帰ってくる方に賭けて、大抵はその賭けに勝って来た。
それにしても、と譲介は思う。TETSUが譲介のために買ってきたと公言するソファベッドを見れば、普段は折りたたまれてそこにあるはずの毛布が、今夜は斜め掛けになっていた。ついでに、いつものどてらも床に置きっぱなしだ。
本業の仕事の後は帰宅して即玄関近くの場所で寝潰れてしまうことの多いあの人が、自分のために家を出る直前まで使っていたらしい。
譲介は、不在の間に積もった埃や食べかすなどを落としてしまうべく、毛布の次にどてらの順番でバサバサと振って、リビングの床にざっと掃除機を掛けた。有難いことに、脱ぎっぱなしのシャツや肌着代わりのタンクトップなどは、出掛けに洗濯機に突っ込んでいったのか寝室に仕舞いつけていったのか、視界に入ってこない。
この部屋に引っ越す前なら、この毛布をランドリーバスケットの中に丸めて突っ込んでしまい、押し入れの中にある普段使われていないような毛布を洗い替えとして引っ張り出してくることが出来たけれど、寝室がリビングと分かれてしまった今は――家主がいない間は特に――前と同じようには出来ないのが譲介の現状だった。
(明日の朝、ちゃんと言い訳をしないでいい状態で起きられたらいいけど……。)
ため息を吐きながらエアコンを付け、それでも寒いので行きがかり上という顔をしてTETSUのどてらを拝借した。心頭滅却、っていうのは普通に暮らしてたらそんなに頻繁に使う場面がないはずだけど、という一也の顔が思い浮かんだけれど、二月の寒さには代えられない。買い出した品物を入れてしまった下の野菜室にまとめて突っ込んでから、冷蔵庫の中身を確認して、先週から入れっぱなしになってそうな食べ物がないことを確かめる。
食べたら危険そうな食べ物がない代わり、卵もパンもない。ほとんど空になった冷蔵庫の隙間を埋めるのは、あの人がいつの間にか買って来ていた味噌と、前回来た時、マーガリンの代わりにと入れておいたバターくらいだった。
(明日はコンビニで何か買って来るしかないな。)
食卓に使っているテーブルを拭いて簡単な掃除を終えた譲介は、リビングでテレビを付け、背負って来たリュックの中に入れっぱなしにしていたチョコレートを取り出す。
あの人が見る場所に出しておこう、と思いながら、定位置にあるスマートフォンの横に置き、テレビ下のラックを探して空のディスクを取り出す。
久しぶりに部屋に顔を出した時は、TETSUがテレビを見られないタイミングで撮り貯めた録画のメモリが過度に圧迫されないようにブルーレイディスクに焼く仕事、というのがある。焼いたディスクには譲介が出演したドラマの名前は入っておらず、ナンバリングは数字だけだ。ひとつ前のディスクの表側を確認して、次のディスクに、『譲介 その二十五』とマジックで書きつける。
この仕事を任されたばかりの時には妙に気恥ずかしかったが、今はもうルーティン仕事のひとつになっていて、全く恥ずかしくはない。……そのはずだ。
譲介はもう大人なので、自分の名前が書かれたディスクをあの人がレコーダーに入れて再生するのか、と想像して顔を赤らめたりはしないし、他には人のいない場所で下手なラブシーンを見たりするのかと思って頭から毛布をかぶりたいような気持ちになったりもしない。
そもそも、今日はいつものように毛布を被ってしまうとあの人の匂いがする可能性が高いのだ。落ち着くどころか逆効果だろう。
そんなことをつらつら考えている間に、気が付けばお湯が沸いていて、一息入れようと言う気持ちになった譲介は、TETSUが帰って来るまでの夜更かしのお供にするためにコーヒーを淹れた。コーヒーウォーマー付きのサーバーなので、これで暫くは暖かいコーヒーが飲める。
直前までTETSUが読んでいたらしい戯曲集がソファベッドの横に落ちていたので、読んだ後で話し込むことになるのなら、何を読むのが一番いいかと頭を悩ませる必要がないのも有難い。
食卓周りの椅子に腰かけた譲介は、TETSUが置いて行った戯曲集をぱらぱらと捲りながら、コーヒーを飲み、時折テレビ画面に視線を移した。
これは世間で言うところのマルチタスクというやつで、戯曲を読むなら戯曲に、ディスクを焼くならそれに集中しろ、とTETSUに叱られるやり方だった。とはいえ、譲介は忍者でもなく、TETSUが思うほどに働き者でもないので、人に等しく与えられているらしい二十四時間を有効に使うためには、こうするしかないのだった。
ひとりで啜る今日のコーヒーがいつもより美味しく感じられるのは、外が寒いからに違いない。
あのチョコレートを食べるのはもう明日でいいだろうかと思っていたけれど、ちょっとくらいは構わないだろうか。本当は、TETSUが帰って来る直前に開けて、帰って来るタイミングで食べ始めようかと思っていたのだ。我ながら茶番だと思うけれど、自分で食べたくて買って来たというシチュエーションでもないことには、TETSUにチョコレートを渡すタイミングがないのだった。
譲介はチョコレートの袋を開け、菓子器代わりの皿にザラザラと入れた。
苦味の強いチョコレートを齧ってTETSUの帰りを待っていると、薄い文庫の戯曲集はあっという間に読み終わってしまう。部屋で待っているとは伝えてないので当たり前だけれど、テーブルに置いたスマートフォンには何の連絡もない。
負担に思われたくないのも理由のひとつではあるけれど、あの人はいつも、譲介が帰宅に合わせてこうして待っている姿を見るたびに、毎回驚いた顔をするから、それが一番大きな理由だった。
サプライズはいいものだ。
けれど、今日はそれも間に合わなさそうだ。
時計を見ると十二時近い。最終の新幹線だって、流石にこれほど遅いことはないだろう。
こうなれば旅先ではいつもよりずっと宵っ張りでショートスリーパーになるあの人が帰って来るのは、大抵は翌日の昼過ぎだ。
あくる朝にどうするかは、歯を磨きながら考えたらいいか。譲介は立ち上がり、ふわあ、と大きなあくびをする。そのタイミングで、玄関先から鍵を開ける音が聞こえて来た。
「おい譲介、来るなら先に連絡しとけって言ってあんだろ。」
ドアノブが回る音と共に音と共に、TETSUが扉を開ける。
「おかえりなさい。」と譲介が出迎えると、さっとコートを脱いで首回りの濃紺のマフラーを解いたTETSUは「人ン家で随分と寛いでるじゃねえか。」と笑いながら、頭に被せていた明るいグレイの帽子を取って、ひょいと譲介の頭に乗せた。
「あ、」
譲介は、部屋が温まるまでの五分か十分のつもりで拝借したどてらを脱ぐことをすっかり忘れていたことに気付き、慌てて肩を引き抜く。
「TETSUさんのために暖めておいたんです。」と本人に手渡すと、また笑われた。
大河ドラマのセリフにしても使い古されてるぞ、と言う面持ちで譲介の言葉に苦笑した人は「留守居役ご苦労だった。」と譲介の差し出したどてらを受け取って、こちらの肩に軽く触れて部屋の中に入って行った。譲介は、その背中についていく。
「あっちはどうでした?」
「積もりはしなかったが、思ったより雪が降ってたな。平日の席は後ろの方はガラ空きだ。おめぇにチケット渡しときゃ良かったぜ。」
そう言ってTETSUが伸びをする。譲介だってその舞台を見に行きたいのはやまやまだったけれど、年始からずっと引きも切らない仕事量で、昨日から今日一日のスケジュールを空けるので精いっぱいだったのだ。
「この匂い、棚に入れといたコーヒーの袋を開けちまったか?」と言うTETSUが何を気にしているのかは分かったので、砂糖入れの横に使いさしがあったので、と譲介は答える。
「……お利口さんじゃねえか。」と、TETSUは大きな手で譲介の髪をくしゃくしゃとかき回す。
このままだといつものようにTETSUは自室に引っ込んでしまって「オレは昼まで寝てるから、おめぇは好きにしてろ。」と言うところだろう。
「あの、コーヒーはまだあるんですけど、一緒に飲みませんか?」
先手を打って食い下がってみると、TETSUは普段よりも余裕がありそうな顔で「ま、今夜は茶菓子もあるみてえだしな。二月のチョコレートなんざ、何年ぶりだ。」と笑っている。
「一也からの横流しか?」
「僕が食べたくて買って来たんです。」
「高そうだな。」
「そうです。TETSUさん、あんまり遠慮なく食べないでくださいね。」と譲介が言うと、年上の人はふん、と鼻を鳴らした。デパートについでがあったので、という言い訳は、今夜はしなくても良さそうだ。
譲介が見ている横で、TETSUは早速、チョコレートの一欠けを皿から取り上げ、ぽりぽりと齧っている。
譲介は、多少はわざとらしくなってもいいか、と思いながら大きなため息を吐き、TETSUのためのコーヒーをカップに注いだ。

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