Saturday Night Fever

【月曜日】
 
 小鳥が囀る朝、ジュウォンはあろうことか、生まれたままの姿でモーテルのトイレにこもっていた。かれこれ三十分はぐったりと便器の前で座り込んだままだ。もう胃のなかのものはとっくに全部出し終えた。夕方からの勤務に備えて、さっさと昨晩の酒を抜いておかなくてはならない。けれど、とてもじゃないがトイレから出る気にはなれなかった。というより出る勇気がなかった。なぜなら、ドアの向こうにイ・ドンシクがいるからである。
 なぜこうなったかというと。
 昨晩、ジュウォンは偶然にも、以前からひっそりと思いを寄せていた人に再会した。話の流れで一緒に酒を飲んでいるうちに、あまりにも楽しくて嬉しくて舞い上がった結果まんまと泥酔し、あげくに最悪の頭痛と最悪の吐き気に襲われて目を覚ましたら、どういうわけかモーテルのベッドの上で、裸の自分の横に裸のドンシクが寝ていたというわけだ。
 簡単に言えば、羽目を外し過ぎた。もっと簡単に言えば、浮かれポンチになっていた。ジュウォンは元々酒に強いほうだ。人前で醜態を晒すことはまずあり得ない。それがどうだろう。今のこの状況は醜態以外のなにものでもない。全裸で便器とお友達になっている上に、昨晩のことをなにひとつ覚えていないのだ。なぜ全裸なのかも、なぜこんなに背中が痛いのかも。しかもドアを開ければ好きな人が待っている。そしておそらくこのあと、彼と『そういうこと』をするのだ。酔っている間にすでにしてしまった可能性も考えたが、ことハン・ジュウォンに限ってそれはあり得ないだろう。あいにくジュウォンは、そんな心得も経験もまるっきり持ち合わせていない。いや、心得は多少あるかもしれない。経験はないが知識はあります、つまりはそんな感じだ。
 果たして大丈夫なのだろうか。ジュウォンの胸の内は不安でいっぱいだった。この『大丈夫』の中には、ゆっくりしたためてきた思いがこんな急に実るなんて何か天変地異が起きるのでは、最近まで人の肌に触れるどころか共用の食器さえ使えなかった自分がいきなりセックスなんてハードルが高すぎやしないか、そもそもうまくできるのか、すぐ出ちゃったらどうしよう、などの意味が含まれている。
 狭い個室の中で、時間だけが経過していく。項垂れ過ぎて便座に頭をぶつけそうになっているうちに、ドアの外が妙に静かなことに気がついた。
「ドンシクさん……?」
 ジュウォンはまるで気が付かせるつもりもない小さな声で、ドア越しにドンシクの名前を呼んだ。眠っているのだろうか。
「ドンシクさん?」
 もう一度呼ぶ。直前で怖気付いたジュウォンに嫌気が刺して帰ってしまった可能性もなくなはい。ジュウォンはおそるおそるトイレのドアを開けて、隙間から部屋を覗いた。どうやら人の気配はない。そうっとトイレから出ると、やっぱりドンシクはいなかった。バスルームのほうからかすかな水音がする。
「ドンシクさーん、シャワーですか〜……」
 誰に隠れているのかも謎のまま、ジュウォンは抜足差し足でベッドの側まで行って、散乱した服を拾い上げた。いち早くボクサーパンツを履く。とりあえずパンツを履けば安全だ。ひとまずダブルベッドの上にどすんと腰をかけ、大きくため息をついた。部屋をぐるりと見渡すと、天井も壁もカントリー調のファンシーな花柄だった。まるでジュウォンの心境を表しているかのようで、とんでもなく居心地が悪い。窓際の机にはなぜかノートパソコンが置いてある。実はビジネス目的なんですとでも言いたいのか、往生際が悪過ぎてこれもまた嫌な感じだった。
 しんとした室内に、シャワーの音だけが響いていた。ジュウォンはその音をぼうっと聞きながら、ベッドにごろりと寝転んだ。大の字になって天井の薔薇のパターンを数えてみる。目で追っているうちにふと「ドンシクさん、シャワー長いんだなぁ」と呑気に思った。呑気に思ってから、イ・ドンシクがシャワーを浴びているという事実に気がついて、ジュウォンはベッドから飛び上がった。と同時に、バスルームからTシャツにトランクス一枚履いたドンシクが登場した。
「ウワァッ⁉︎」
 ジュウォンが思わず悲鳴をあげると、ドンシクは不思議そうな顔をして「その反応あってる?」と言った。
「す、すいません。つい、あまりに普通のおじさんみたいだったので……」
「そりゃ〜普通のおじさんですからねぇ」
「あぁ、違うんです、そういう意味で言ったわけじゃないんですけど」
「うん?」
「待ってください、もうなんと言ったらいいか。僕も頭を冷やしてきます。水風呂で」
「水風呂はやめようね。冬だから一応」
 恋愛初心者のジュウォンにとって、一度に飛び込んできて良い情報量ではなかった。なにせ莫大すぎるのだ。例え賢いCPUでも、苦手分野の処理には時間がかかる。朝起きた時はまだ頭が回っていなかったせいでスルーできたが、例えTシャツにトランクスの由緒正しきおじさんスタイルだとしても、改めて見るとドンシクの肌が露出している部分からなにかオーラのようなフェロモン的なものが発生しているように見えた。なんなら後光も見えた。繰り返し、初心者マークのジュウォンには刺激が強すぎた。まさに目の毒である。ドンシクのほうをチラチラ見ながら、気持ち的には見ないようにしながら、ジュウォンはCー3POのような歩き方でぎこちなくバスルームへ向かった。それを見たドンシクは「ごゆっくり」なんて茶化しながら、いたずらっ子みたいな顔で愉快そうに笑った。
 
 

【火曜日】
 
 夜勤明け、警察署内の廊下をよろめきながら歩いているジュウォンを、すれ違う人々が皆一様に避けていった。誰かが「ゾンビだ」とか言った気がしたが、あながち間違いではないと窓ガラスに映った自分の顔を見てすぐに納得した。こけた頬、よれたYシャツ、セットが乱れた髪。ジュウォンは例えどれだけ疲れていても、身だしなみを欠かさないタイプだ。そんな男が、今日に限ってはデスクでぼうっと虚空を見つめ、時々なにかを思い出したように頭をかき乱すものだから、上司も心配したのか見かねたのか「今日はもう上がりなさい」とジュウォンに退勤命令を言い渡したのだった。
 警察署を出ると、朝日が目に染みるようだった。ジュウォンは、出勤してくる人々に頭を下げ、ふらふらした足取りで駐車場まで向かった。そういえば長いこと胃に食べ物を入れていない。かといって食べる気にもなれなかった。昨日の失態が、数分おきに頭の中を駆け巡っては心臓をぐさりと突き刺した。
 悲しいかな、ジュウォンのめくるめく初体験は失敗に終わった。
 ことの顛末はこうだ。
 ジュウォンとドンシクは、お互いシャワーで身を清め、万全の状態でベッドの上で向き合った。ジュウォンは一応、礼儀を重んじて「よろしくお願いします」とあぐらをかくドンシクに頭を下げてから、Tシャツの裾からおそるおそる手を滑らせた。不思議な感覚だった。同性の体ではあるが、この世ではじめて触るものみたいだった。硬いのにやわらかい。ゆっくり、そしてじっくりと彼の体を観察し、指を這わせ、唇と舌で辿っているうちになんだか夢中になってしまって、気がついたら二時間経っていた。その間、ドンシクはとっくに寝息をたてて眠っていたのである。
 ジュウォンはただただショックだった。そんなに退屈だったのかと。自分はこんなにも下手くそだったのかと。だとしても、セックス中に寝るなんて。
 もやもやが募る中、一番ショックだったのは、彼の寝顔があまりにも穏やかだったことだ。二十年前の事件以来、あまり眠れていないはずだったのに。
 その寝顔を見たら怒るに怒れなくなってしまって、ジュウォンは眠るドンシクの隣に横たわった。彼の規則正しい呼吸と、上下する腹を見て、すっかり手も足も出せなくなってしまったわけだ。いくら恋愛初心者のジュウォンでも、おそらくこのチャンスを逃したら、二度目はないだろうということも容易に想像できた。それでもジュウォンは、彼の眠りを妨げるべきではないと思った。どんな幸せな夢を見てるのだろうかと、彼の夢に嫉妬しながらも。
 昼を過ぎて日がかげる頃、ドンシクと別れた。車で送る最中も、彼は気まずそうに「ごめん」と何度も謝っていた。ジュウォンの中に怒りはなかった。むしろ、彼を慈しむ気持ちが溢れて、涙が出そうだった。
 
 
 
【水曜日】
  
 二度目はないと踏んでいたチャンスの兆しは、いともすぐに訪れた。
 仕事の休憩中、ドンシクからメッセージが届いた。食堂でチゲを啜っているところだったので、なんの気なしに開いたメッセンジャーアプリに表示された『また飲みませんか』の文字を見て、ジュウォンは椅子から転げ落ちそうになった。
『もちろんです。いつにしますか』と瞬時に返事してから、しまったと気がつく。大人はこういう時、もっと駆け引きをするものなのでは。恋愛初心者どころかこれではまるで忠犬だ。なんなら犬のほうがもっと利口だろう。ご主人さま、好きです。愛しています。あなたからの連絡を待ち侘びていました。ちゃんと待てたのでご褒美をください。そんな気持ちがあまりにもダダ漏れである。けれど本当のことなのだ。ドンシクに会いたい。会ってまた話がしたい。硬くて柔らかい手に触れたいし、あわよくばこの前の続きがしたい。飼い犬上等、欲情した猿で結構。一度彼への気持ちを知ってしまったら、もう元には戻れない。先日は流れでそうなってしまったが今度はきちんと伝えよう。
 ドンシクさん。あなたが好きです。あなたに触れてもいいですか?
 
 
 
【土曜日】
 
 週末の江南は人で溢れかえっていた。すっかり夜もふける頃だったが、恋人たちは肩を寄せ合い、酔っ払いたちが肩を組んで「もう一件いくぞ!」と息を巻く光景があちこちで見られた。ジュウォンは待ち合わせ場所でスマートフォンをいじりながら、管轄外とはいえ、どうか今日は事件が起きませんようにと心から彼らの品行方正な振る舞いを願った。
 しばらくすると、遠くのほうからドンシクがやってきた。MAー1ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、人混みの中をするりと歩く猫背のおじさんを、ジュウォンはどういうわけか可愛らしいと思ってしまう。ドンシクがジュウォンに気がついてひらひらと手を振る。勝手に上がる口角を隠そうと、チェスターコートの襟を立てた。
「おつかれさまです。ハン・ジュウォン警部補。ご機嫌うるわしゅう」
「こんばんは。イ・ドンシクさん。あなたもおつかれさまです」
 背丈はさほど変わらないはずなのに、猫背のせいでドンシクは少しだけ上目遣いになる。夜でもわかる透き通ったブラウンに、ジュウォンの心拍数が自然と上がった。
 まだ会って挨拶しただけなのに。いかがわしいことばかりを考えていかがわしい予習をして来たはずが(それもどうかとは思うが)、いざ会うといかがわしい妄想などまるでする余裕がない。彼の一挙一動に目を奪われ、陶酔してしまう。恋はきっと、酒や麻薬のたぐいとそう変わらないのかもしれない。
 
 
 繁華街の路地にひっそりと、ドンシクのお気に入りだというショットバーがあった。入口のドアの前にぼんやりと光る立て看板を見て、ジュウォンは妙な既視感を覚えた。
 はて。来たことあったかな?
 基本的には己の記憶力を信頼しているが、前回のドンシクとの一件があってから、そこに関しては少々揺らいでいるのが事実である。ジュウォンが首を傾げていると、ドンシクが「早く入りましょう」とジュウォンの腰のあたりをぐいと引いた。
 店内はこじんまりとしていて、奥のテーブル席に女性がふたり仲睦まじく座っていた。天井から吊り下がったモニターで、アメコミ映画が流れている。一旦のシリーズ完結編だ。
 ドンシクはカウンターに腰掛け、バーテンダーの男性になにか耳打ちをした。知り合いなのだろうか。お気に入りっていうぐらいだし。だとしても、なんだか気に入らない。ジュウォンはムッとしながらも、ドンシクの隣の席についた。
 ドンシクが楽しそうにメニュー表をめくる最中、ジュウォンはひっそりコートのポケットに忍ばせていた二日酔い防止サプリメントを口に放った。空きっ腹にならないよう、待ち合わせ前に軽く食事もしてきた。あとはゆっくりビールでも飲みながら、ドンシクとの酒の席を楽しめばいいのだ。呑気に考えていた矢先、ドンシクが「ゴッドファーザー」とバーテンダーに言った。なるほど、あくまでも飲むつもりらしい。彼が陽気に、あのあまりにも有名すぎる劇伴を口ずさむ。ペースを乱されないようにしなくては。目的はあくまでも先にある。
 
    
 ビネガーたっぷりのフィッシュ&チップスを頬張っては、ギネスをちびちびと口に運ぶジュウォンを横目に、ドンシクのウイスキーグラスは思いのほか良いペースで減っていった。グラスが空くたび、彼の頬がだんだん赤く色付いていく。マニャンで飲んだときのことを思うと、確かに彼は酒に強いほうだったし、あまり泥酔した姿も見たことがなかった。
 けれど、それはジュウォンも同じだった。ますます先日の泥酔記憶喪失事件の謎が深まる。いったいどんな飲み方をしたら、あんなこの世の終わりみたいな頭痛に苦しめられるというのか。
「ドンシクさん」
「はぁい」
「その、覚えてますか。この前のこと」
「ん〜覚えてるような覚えてないような。あ、もしかして根に持ってる? 俺が最中に寝たこと」
「ちょっと⁉︎ こんなとこで」
 ジュウォンは思わず、突拍子のないことを口にするドンシクの口を手でぐいと押さえた。彼は楽しそうに目を半月型にして「ここじゃなければいいのかな〜?」とジュウォンの指の隙間から唇を尖らせてエロオヤジみたいなことを言った。
「だめです。やめてください」
「真面目だねぇ」
 ドンシクはジュウォンの手をゆっくり剥がしながら「マスター、アラスカね」とまた度数の高いカクテルを注文した。注文する間も、彼の目は半月型のままジュウォンをじっとりと見ていた。ほろ酔いのドンシクは見た感じこそ変わらないが、なんというかこう、仕草がやけに色っぽい。それに、口調も雰囲気もいつもよりやわらかくて、今なら何を言っても許してくれそうな、そんな身勝手な想像すらしてしまう。
 今なら好きって言っても許してくれるかな。
 彼への告白は、ジュウォンが達成するべき今日のミッションだ。性行為、つまりセックスは当人同士の同意なしにはあり得ない。先日の続きをするためには、気持ちをまず伝えることが必要不可欠なのである。
 ジュウォンは決意を新たにすると同時に、決してセックスしたいから告白するわけじゃないぞと自分に言い聞かせた。そこを履き違えたら、どこぞのエロオヤジとまるで同じになってしまう。仮にも警察官だ。どこぞのエロオヤジに成り果てたらおしまいだ。
 とはいえ、テーブルにだらりと寄りかかって気だるそうに頬杖をつくドンシクの、なんと妖艶なことよ。ウイスキーグラスのふちについた彼のやわらかそうな下唇を、思わず視線で追った。認めたくはないが、思考は完全にどこぞのエロオヤジに近づきつつある。ジュウォンはかぶりを振って、グラスの中のビールを一気に飲み干した。
「お〜。いい飲みっぷりですねぇ」
「……どうも」
「ねぇ、ジュウォナ」
「はい」
「アベンジャーズで誰が好き?」
「はい?」
 あぁ、アベンジャーズ。
 今モニターで上映している映画だ。なんてことはない普通の話の流れのはずなのに、ジュウォンは一瞬背中のあたりが急にむず痒くなった。
「俺はね、ハルクが好きなの」
「へぇ……なるほど。魅力はどのあたりに?」
「ん〜、かっこいいでしょ。彼、誰かのためにいっつも怒ってる」
「確かにそうですね」
「うん。だから好き」
「はい」
「ジュウォニは? ジュウォニは誰のことが好きなの?」
「僕は……」
 あれ、これアベンジャーズの話だよな?
 カウンターの中で客席のほうを向いて調理をしていたバーテンダーが、調理の手を止めくるりと背中を向けた。テーブル席に座っている女性ふたりも、ジュウォンのほうを見てひそひそ話をしている。なんだこの状況は。「僕は」ともう一度口籠もってから、もしかしてと気がついた。まさにこれがチャンスってやつなのではないか。
 そうだ、言え。言うんだハン・ジュウォン!
 握りしめた手が震える。映画もちょうど最高のクライマックスシーンに差し掛かった。仲間たちが集結し、まさに最強の敵と戦う時ーー。アベンジャーズ、アッセンブル。
「ド、」
 ジュウォンは、画面の中のヒーローたちよろしく、ここぞとばかりに勇気を振り絞って力を込めた一音目を発した。それを聞いたドンシクが「うん?」と首をかしげる。可愛い。とんでもなく可愛い。いざ声に出すと、心臓が飛び出そうだった。勢い余ってジュウォンが立ち上がる。店内に謎の緊張感が走った。上目遣いのドンシクが、ブラウンの瞳をうるうるさせていた。
 己に打ち勝てハン・ジュウォン。さぁ、伝えるんだ。思いを全部ぶちまけろーー。
「僕は、ドっ…、さんが」
「なぁに? もっと大き声で!」
「ドラックス・ザ・デストロイヤーが好きです‼︎」
 ハン・ジュウォンの大馬鹿野郎〜〜っっ‼︎
 ジュウォンがその名を口にした途端、多方面から皿が割れる音、椅子が倒れる音がした。店も少しだけ傾いた気もする。正真正銘、ハン・ジュウォンの敗北である。大声選手権なら勝利していたかもしれないが、あいにくここは大声選手権の会場ではない。
「ん〜、そっか。ああいうワイルドなのが好きなんだねぇ」
 俺も好き。そうドンシクが微笑みながら言った。モニター越しに、ドラックスが己の筋肉を誇らしげに見せつけている。なんて羨ましい男だ、ドラックス・ザ・デストロイヤー。
 ジュウォンが立ち尽くしていると、ドンシクが「あなたの負けですよ」とでも言わんばかりにトンと優しくジュウォンの肩を叩いて「ジュウォナ」と呼んだ。 
「あなた本当に覚えてないの? こないだのこと」
「え? ……はい」
 なぜ今更その話を?
 ドンシクは手元のグラスをくるくると回しながら「そっかぁ、残念」と呟いた。何が一体残念なんだ。ジュウォンはふと、ひとつの疑念を抱いた。まさかとは思うが、抜け落ちた記憶の中で自分はとっくに何か取り返しのつかないことをしでかしていたのではないか。そしてドンシクは、それを覚えているのではないか。すっかり毒気こそなくなったが、元々イ・ドンシクは聡い人間だ。そしてしたたかである。弱みなんて見せようものならーー。
 そこまで考えて、ジュウォンはもう考えるのをやめた。もうすべてがどうでも良くなってしまった。煮るなり焼くなり好きにしてほしかったし、好きな人に堂々と告白もできない哀れな男を嘲笑ってほしかった。カウンターに突っ伏していたら、ドンシクがよいしょと声を出して立ち上がった。帰るのだろうか。こんなダサい男は振られて当然だ。告白すらしてないけれど。
「あ〜酔っちゃった。よし、ジュウォナ。休めるところいこっか」
「へ?」
 どうにも理解し難い台詞だった。ジュウォン的には、今日はそんなに酔ってはいないはずだが。確認のため、もう一度聞き返す。
「ええと、一体どちらへ行くと……?」
「だからモーテル行こうって言ってんの」
「……イ・ドンシクさん。僕の聞き間違いでなければ、あなた今まるでエロオヤジみたいなこと言いませんでした?」
「言ったよ。エロオヤジだもん」
 何度聞いてもジュウォンには理解不能だった。なぜこの状況で、モーテルに行こうだなんて雰囲気になるんだ。
 ジュウォンはふと『あの日』のことを思い出した。あの日、泥酔して記憶喪失になった日。目が覚めたら素っ裸で、同じく素っ裸のドンシクとモーテルのベッドにいた日。
「もしかしてあの時も……?」
「そうですよ。俺が連れてっちゃった。俺も忘れてたけどね」
「あなたそんな、人さらいみたいなそんな」
「物騒だな。先に好きって言ってきたのはあなたのほうでしょう? 俺はちゃんと同意はとりましたよ。結局なにもなかったけど」
 一体なにを言っているんだこの人は。
「ぼっ、僕が! あなたに、あなたに好きだなんてそんな……そんなこと言えるわけないでしょう⁉︎」
「言ってましたよね? ねぇ」
 ドンシクがそう促すと、バーテンダーがこくりと頷いた。信憑性がないどころかまさか目撃者までいた。
「うそだ……そんな」
「覚えてないなら知らないと思うけど、あなた酔うと甘えたになるんですよ。あの夜のジュウォンは本当にかわいくてねぇ。ドンシクさん好き〜! 行かないで〜! て犬っころかなんかみたいでさ。ねぇ?」
 またバーテンダーがこくりと頷く。この世の終わりである。そうこうしているうちに、テーブル席にいた女性客ふたりが会計を済ませ、手を繋いで帰っていった。帰りがけなぜか「ありがとう」とお礼を言われたが、まったくもってどういう意味なのかわからなかった。
「俺らも行きましょうか」
「……ええ。そうですね」
 会計を済ませて店を出ると、まんまるい月が繁華街のビルの隙間から顔を出していた。これにて一件落着。実際なにひとつ解決していないが、ふたりはまた夜の町へと繰り出したのであった。
 
 
 
 
【日曜日】
 
 カーテンの向こうで、ちゅんちゅんと雀が鳴いている。ジュウォンが目を開けると、天井に無数に咲いた薔薇があった。相変わらず悪趣味な内装だと眉を顰めたが、隣ですやすやと眠るドンシクの寝顔を見て、すぐに眉間がふにゃふにゃになった。
 心地よい疲労だ。昨夜の余韻が覚めやらない。エロオヤジことイ・ドンシクは、それはもうあらゆる技巧を凝らしてジュウォンの上に跨って甘美な声をあげた。かと思えば、体も心もあらゆるスイッチを刺激されまくったジュウォンが野獣の如く彼を抱き潰すと、涙を浮かべて許しを乞うてみたり、とにかくドンシクとのセックスは最高だった。
 眠っているドンシクの頬をそっと撫でると、彼がゆっくり瞼を開けた。
「すみません。起こしちゃいましたか」
「ううん。おはよう」
「おはようございます」
 幸せな朝だ。朝起きて、好きな人が隣にいる。こんな幸せなことがあるだろうか。ジュウォンの手の甲から、ドンシクの体温が伝わる。もう一度頬を撫でると、彼はくすぐったそうに首をふって「ゆうべは上手でしたよ。眠くならなかったし」と減らず口を叩いた。
「そういうデリカシーのないこと言うからおじさんなんですよ」
「怒ってる?」
「許しません」
「ごめんね。でも本当に、あなたに触られると心地よくて眠くなっちゃうんだよ俺」
 そんな怒るに怒れない言い訳をする大人がいるものだろうか。それとも本当に?
「あの、どんな夢を見ていたんですか。あのとき」 
 僕が前戯に夢中になってあなたが眠ってしまったとき。
 嫉妬半分、興味半分でドンシクに尋ねると、彼は「ん〜そうね〜」なんてつかみどころのない返事をした。それから恥ずかしそうに布団に潜って、小さな声でこう言った。
「大きくてもちもちした、毛むくじゃらの宇宙人とパンケーキを食べる夢」
 

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