クッキー



早朝でなくともそれなりに寒い、と感じる冬の朝。
往診の帰りだった。
ふと思い立って、いつもとは違う狭い路地を縫って大通りに向かうことにした。
この道がクエイド本部へのショートカットになるのは分かっているが、普段は、人通りがあるそれなりに広い道を使うことにしている。TETSUの新しい患者はこの近くのアパートに住んでいて、医者の助けを必要としていた。
堕胎のためにやって来たと思われたのか、仲介人の名前を出したところで最初は全く取り合わなかったが、近くのピザ屋で買って来たハーフサイズとスプライトの缶を入れた袋を持って行くと扉を開けた。初めて通された部屋はほとんど換気がなされておらず、生ごみと油の匂いが漂っていた。
本人から経過を聞くと、事前に伝えられていた通り、あと十週もすれば産まれるタイミングだったので、こうして足しげく通う羽目になった。図書室の女は、こうした孤立しがちな女たちをどんな網から拾い上げて来るものかと思う。
二度、三度と通ううちに、部屋が小奇麗になっていく女もいれば、何度通っても最初のままの状態の部屋で暮らす女もいて、今日の女は後者の方だった。
TETSUは診療の間は窓を開けて風通しを良くして、前回のようにうがいや歯磨きが出来るよう、シンク周りだけを片付けてから部屋を出た。
薄暗い花曇りの空の下。
これをお守りに巻いて行ってくださいと譲介に押し付けられたマフラーで首元を覆えば、寒空の空気と入れ替える前の女の部屋とは違う、清潔な洗剤の匂いが鼻先に感じられる。
きっと、次に訪れる時にも、いつかのピザの空箱と空き缶は、捨てられずにキッチンのテーブルの上にあるのだろう。
気鬱な考えを纏わりつかせたまま、独り歩いていくと、ガシャン、とデカい音がした。
咄嗟に、音のした方に顔を向けると、小さな輪にダンクシュートを決めたばかりのノッポが、空から地上に降りて来るところだった。
金網のフェンスの中の狭いハーフコート。
ドリブルの音。網も外れてしまったのか、ただのリングの中に、立て続けのシュートが決まる。
目が覚めるような心地だった。
ダム、ガシャン、ダムダム、ガシャン。
けたたましいゲームの音。コートにいる数名はほとんど全員、辛うじて運動用に見えるジャージと替えがないのだろうと思わせる履き古したスニーカーを身に付けている。
LAはいつも晴れているが、それは成功した人間だけが持ちうる体感でしかない。
狭いコートがこっちの目には若い雛鳥を閉じ込める籠に見えるとしても、空を目指して足掻くガキ共には、つかの間の自由を味わうことの出来る荒野なのだろう。
ボールを持っているガキが、押されて体勢を崩した。だが、そのままの体勢でボールを放り投げ、転倒しながらシュートを決めてしまった。
自力で跳ね起きる前に、即座に周りの奴らから手が出て、立ち上がった後は、間髪入れずに祝福のような肘打ちを食らっている。
今のがスリーポイントか。
コートを一歩出れば、どんな逆風が待ち受けているとしても、あの中には希望があるように見えた。
それでも。

いつかは出て行けよ、ここを。

TETSUはそう思う。
ドリブルやパスを繰り返しながら走り回っている十代のガキ共を横目に、脚を留めずに移動する。時折、チンピラ同士の諍いにも似た体当たりや力押しの、身体と身体がぶつかり合う音が聞こえて来て、こりゃバスケットボールの試合っつうよりは相撲みてえなもんだな、と心の中で苦笑した。
譲介がこうした場所で育ったらどうなったか。ふと頭の隅に思い浮かんだ考えに、感傷に浸るのは後だ、と思う。
大通りに出るまでが正念場だった。
オレがただの爺に見える場所なら尚更。






いつもの店の扉を開けると、足元に暖気が流れ込んで来た。
カウンターにぼんやり佇んでいた新顔が、客の顔を見て背を伸ばした。
コーヒーとチキンのサンドイッチ、と伝えると、頷いてレジを打ち、金額だけを伝えて来る。
メグという名札のいつもの女もそうだが、ここは会計に面倒がないのがいい。
カウンターのレジの横に、コートのポケットに突っ込んだままの、ピザを買った残りの金を出した。
いらない分は引っ込めるのも面倒で、小銭だけ戻して、釣りはいい、と伝える。コインは後で必要になる。
遅めの朝食を乗せたトレイを持って、TETSUは出入り口が見える窓際の席に腰を下ろした。
そうして、トレイの上のコーヒーのコップを手の平に当てる。
片手でいい。右だ。
左には譲介の付けた金がある。
湯気の立つコーヒーの入った器はひどく暖かく、肩に入った力が抜けるのが分かった。
さて、食うか、とサンドイッチにかぶり付く。
この店は妙な店で、同じ名の料理を頼んでも、時折味が違うことがある。
咀嚼すると、シュリンプのサンドイッチを頼んだ時のレインボーソースの味がして、ふざけた店だとTETSUは苦笑した。チップを引っ込めておきゃあ良かったか、と頭の隅でちらっと考えたが、野暮は止めておくことにする。
サンドイッチを腹に納めて、暖かなコーヒーをゆっくりと啜ると、身の裡から温まるのを感じた。
窓の外を眺めていると、出入り口の古びたカウベルが鳴り、次の客が入って来たことを知らせる。
『コーヒーとチョコチップクッキーを。』
カウンターで注文する声は、今朝聞いた時よりも深く澄んでいる。
いつかこういう日が来るだろうとは思っていたが、案外に早かったなとTETSUは思う。
まだ暖かいコーヒーの残りの半分を、ゆっくりと啜る。
こちらのカップが空になったタイミングで目の前に来た譲介が『こんにちは、ドクター。タクシーで行きませんか? あなたの職場はここからほんの五分ですよ。』と言った。
顔を上げると、いつもの斜め掛けのリュックを肩に、冬用のヤッケのようなジャケットを身に付けた譲介がこちらに微笑みかけている。
はた迷惑なほど良いツラを隠すふざけた前髪は、運転の後とあって無造作に首裏に括りつけられていた。
これが二十年も前なら、ふざけたことを抜かすんじゃねえ、と声を荒げるところだが、車を転がせる年になった男を前にすると、つい笑ってしまう。茶番は仕舞だ。
「もうジャリ銭しかねえぞ。」と返すと、年下の男は「家に帰るまでツケておきますから大丈夫ですよ。」と口にしてこちらの前の席に着いた。
向かいに座った男のトレイには、コースターほどの大きさの丸いクッキーがある。
今ならクッキーの追加程度でどうにかなるか、と頭の隅で考えながら「利子がえらいことになりそうだ。」と言うと「徹郎さんがその気なら期待してますね。」と譲介は言った。
浮かれた口調になった男に、舌打ちをする。
隣いいですか、と言い出さねえだけ今はまだマシだ。
本気で調子に乗ったコイツは、手が付けられねえ。
「GPSでも仕込んでんのか?」
話題を逸らせようとして尋ねると、こちらの意図を汲んだのか「僕もあなたほどじゃないですけど、職場に親しい人がいるので。」と譲介は苦笑した。
それに、今日はまだ見てないですよ、と正直に付け加えたのは覚えておくことにする。
向かいに座った男のトレイには、コースターほどの大きさの丸いクッキーがあった。
「まさか、それが朝飯とか言わねえだろうな。」
「そりゃそうですよ。ちゃんと卵を焼いてパンで食べて来ました。……徹郎さんは、それが朝食ですか?」と丸めたサンドイッチの包み紙を指さす。
「まあな。」と曖昧に肯定して目を逸らす。
譲介はこちらを叱るでもなく「僕も同じのを買って持ち帰りにしようかな。」と、こちらに向かって微笑む。
「止めとけ、今日はハズレの日だ。」
譲介は、何ですかそれは、とも聞かずに、ただ眉を上げ「じゃあ止めておきます。」と言った。
そうして、こちらの商品の手元のコーヒーのソーサの上に、クッキーをパキリとふたつに割った。
半分どうぞ、と言われて口を開ける。
チョコレートが甘い、と文句を言うと、言われた方がどことなく幸せそうな顔をしていた。
「でも、今日は僕が来たので帳尻は合ったでしょう?」
一仕事の終えた後は、甘いものも必要ですよ。
静かな声で囁く譲介を見ているうちに、ホットコーヒーの、アロマと言えるだけの匂いが、鼻先に漂って来る。
さっきまでは確かに、指先にカップが触れるその暖かさだけが感覚だったというのに。
そのコーヒー半分くれ、と譲介に言うと、お安い御用です、と言って目の前の男は笑った。



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