強奪

 崩れる音さえ聞こえなかった。それはあまりに静かに、けれど戸惑いも見せないまま、たやすく世界を滅ぼした。

「やっと会えたな、小娘」

 顔を握り潰すようにわたしの口元を覆う悠仁の手はあたたかくも冷たくもなくて、まるで知らないひとのものみたいだった。
 ぎり、と力を込められると耳の奥で小さく骨の軋む音が響く。線のような刺青が入った腕を両手で思いっきり掴んでもびくともしない。抵抗しようとするわたしを面白がって口を三日月に歪めるこの生き物は、宿儺と名乗った。
 前触れはなかった。悠仁の意識があるときは基本的に大丈夫だと聞いていたから本人ともども油断していたのかもしれない。
 呪術の詳しいことはなにもわからないわたしでも、代わった瞬間におかしな空気を感じた。鳥肌が立つような、心臓がキリキリと裂かれるような、緊張感というには重すぎるプレッシャーが一気にこの場を支配した。
 悠仁の名前を呼ぶより先に、宿儺の腕がわたしに伸びて声を出すのを阻まれる。その勢いのまま床に倒されて打った頭や背中が痛いはずなのに、それすら凌駕する恐怖がわたしの上に乗っかっていた。
 光のない目が歪む。その形を月にたとえるのはあまりに柔弱すぎた。あまっている手がわたしの首筋をたどり、鎖骨でとまる。いつもならさするように優しく触れるはずの指先が、そのまま服を腹まで裂いた。
「小僧の自我がな、いっそう強い。お前が目の前にいる時は」
 細く細く、歪んでいく悠仁の瞳を、わたしの脳が拒絶する。玩具を見るのと同じ眼光の奥に、まるでこちらを舐めとるかのような熱を感じてぞっとした。
 足をばたばたと動かして暴れても宿儺はびくともしない。抵抗が無意味なことなどわかっているのに、それでもわたしの本能は逃げろ逃げろとけたたましく警報を鳴らし続けている。このぬくもりのない手から逃れなければ、きっとわたしも、悠仁も傷つく。
 抗うわたしを嘲笑うように宿儺の手は裂かれた服を払い、隠していた肌を暴く。一気に血の気が引いた。もう体は熱いのか冷えているのかわからなくて、時折体を伝う嫌な汗がやけに冷たいのだけ感じとれた。
 塞がれた口から必死に出す音は、声にもならないくぐもった響きで、どこにも伝わらないことをわたしに知らしめる。
 心底楽しそうに表情を歪める宿儺の顔が近づく。目の前にあるのは確かに悠仁の顔の形をしているけれど、まるで違う。あまりにも。そんなふうな目で、悠仁はわたしを見たりしない。
 じんわり涙が滲むのがわかった。こんな弱さを見せるのは宿儺が喜ぶだけだとわかっていてもとめることはできなくて、わたしを壊そうとする手にすら届かずただただ瞳から床へと流れ落ちていく。
「俺のなかで小僧も暴れているぞ」
「っゔ、…ぅっ!」
「逃げたいんだろう?ほら、頑張れ頑張れ」
 顔を覆っていた宿儺の手が離れた。そのまま声も呼吸すらも奪われてぬらりぬらりと口のなかを掻き回される。
 力を込めすぎて震えるくらい眉間に皺を寄せて、悠仁をかたどるその目を睨みつける。相変わらず半月に歪ませたままの瞳には、かすかにわたしが映っていた。
 あらわになった肌の、みぞおちあたりを辿って指先が首に辿り着く。ピリ、と熱い痛みが走って生温い血がつたっていくのがわかった。舌を噛み切るにもできない。人質はわたし、そして悠仁の身体なのだ。
 また、息ができないようにされる。受け入れることを拒否した口からは涎が溢れる。こっちのほうが舌を噛み切られそうなくらいに宿儺は執拗にわたしを奪おうとする。
 ドンッと思いっきり胸を叩くとようやく宿儺が少し離れた。眼前にはほとんどその澱んだ目しか映らなくて、なんて穢い世界なんだろうと思った。
 掌握される。悠仁の泣きそうな顔すら、霞んでいく。
──ああ、お前なんか、
「可愛い女だ」
死ね。

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