修行中


「……なんで収録がこんな中途半端な時間から始まるんですか。」
「六時から生放送なんやからしゃあないやろが。」と言いながら、後部座席の兄弟子はぱらぱらと台本を捲っている。
「小草若兄さん、いつもみたいに自分で運転して若狭に鞄持ちさせたらええやないですか。」と言うと「お前が妙なこと言うからやんか……。」とふてた顔をした。
妙なこと……?
正直、心当たりがありすぎる。
いつまで経っても支払いにたどり着けない時うどんを聞いていれば、嫌にもなろうというものだ。
土方の仕事で落語会の金を工面しに行った草々兄さんのいない間、暫くは師匠の代わりを務めていた草原兄さんが音を上げてから一時間、そもそも、時うどんの天秤棒のあの担ぎ方では金魚の入った桶から水が傾いですっかり落ちてしまう、くらいのことは師匠でなくとも言うだろう。正直、小草若兄さんにはまだ甘いくらいだ、と尻馬に乗ったくらいでこの不貞た様子になるとは……。
「喜代美ちゃんかて、真面目に稽古したいやろが。」
……アレか。
内弟子修行中は恋愛禁止です、と僕が言うたのは、草々兄さんに振られたばかりの妹弟子目当てで、今がチャンス到来とばかりにいつものカメムシ的なギンギラスタイルでめかしこんでいそいそやってきた様子に嫌みを言いたかっただけで、いくら失恋したばかりだと言っても、若狭が小草若兄さんを選ぶことは、……まあ天地がひっくり返ったところで芽がない話だ。
顔はともかく、草々兄さんは落語が出来る男だ。ペラペラとよくしゃべるうちの一門の生き字引から聞いたところによると、かつては、口の悪い師匠方に、草若の質の悪いコピーとまで言われていた時期があったらしい。一度はスランプにもなって、抜け出した頃には今のスタイルが出来ていたというのだから驚く。それも時期的には、僕が大学受験をするかしないかの時代の話だ。
たとえは悪いが、師匠の愛宕山が好きだと言って入門して来た特殊な女は、元から引っかかるように出来ているのである。
「小草若兄さんも、今日みたいにして真面目に稽古してるとこ、もっと若狭に見せたらええやないですか。」
まあ、それでも草々兄さんが横におって比較対象になってたら、一生あかんと思いますけど、とは言わないでおいた。
周囲が諦めろと言えば言うほど意固地になって燃え上がるのが恋愛というものだ。
そもそも、あの草々兄さんの彼女だった女ほどの器量良しでもなければ、僕のように相手に養ってもらう目的でもないなら、普通は十歳以上年の離れた女に言い寄る理由がない。いくら互いに独身だと言っても、若狭のことを恋愛対象に見てはいない草々兄さんの方が圧倒的に正しいのである。
かと言って、この人がいなくなれば、今の徒然亭の存続自体が難しくなってしまうことは分かりきっていた。
店主は今のところは芸術がどうとか口先では言ってはいるが、寝床の経営も慈善事業ではない。
今はその辺の落語好きが聞きに来ているくらいで済んでいるからいいものの、どこからか聞きつけたか分からないような、態度の悪い客がひとりかふたり出たところで、この先の存続が難しくなりかねない。
万一そうなった場合、天狗のバックアップのない僕らには、再びの危機が到来する。
小草若兄さんの顔と懐の金がなければ、続けていくことは厳しいに違いない。

――僕も大概、しょうもないことに気を回す大人になったものだ。

「なんや、ため息なんか吐いて。」
「今頃、稽古場で何を稽古してるのかと気になって。」
「草原兄さんは『愛宕山』やりたい、て言うてたけどな。」
愛宕山?
「――っておい、しぃ、お前いきなりスピード上げるな、っ。」
どうせ信号に捕まるのに、と小草若兄さんが呟いた通り、なにわテレビまでほとんど四百メートルというところで足止めを食らった。
信号に捕まったのだ。
僕にとっては確かに『算段の平兵衛』が一番だが、三代目の徒然亭草若と言えばコレや、と言われるほどの師匠の十八番である『愛宕山』を、直接稽古を付けて貰えるチャンスがあるというなら、それをみすみす逃したくはなかった。このまま出てってくれませんか、と言おうとした矢先に、兄弟子が、ここでええわ、と言った。
「なにわテレビ、もう目の前ですよ。」
「お前もはよ帰りたいやろ。……やっぱ駐車場まで入れてくれ。」
さすが小草若兄さん、と言わんばかりの豹変だが、本人は首を竦めている。一列で背後からやってくる大阪のおばちゃんの顔が見えた。
「モテモテやないですか。」
「全員がオレのファンとは限らんわい。」
つまり、このカメムシ男は、一部の中高年女性は確実に自分のファンだろうと確信を持っているのである。
「お前、また何をため息吐いてんねん。」
「……別に、何でもないです。」
僕もまだまだ修行が足りないようだ。

地下駐車場の来客用のスペースに駐車して、後部座席のドアを開けると、小草若兄さんは、今日は七階や、と言った。
「帰りは迎えに来んでええぞ。仕事終わったらタクシーで帰る。」
「分かりました。」
時計を見ると、普段なら若狭が夕食を作り始める時間だった。
草原兄さんは緑姉さんの夕飯を食べるために出ていく時間だ。
今日は無理やな、と思いながら荷物をまとめると、お前ほんま何考えてんのか分からへんな、と僕の半歩前でネクタイをブラつかせている兄弟子が顔を顰めたのが分かった。
「明日までに、次の落語会に何掛けるのか決めておくつもりです。小草若兄さんはどうしますか?」
「考えとくわ。」
時うどんがまだまだの兄弟子は、見栄を張るでもなく、ただつまらなそうな声を出してから、ロビーに座っていた見知った顔の師匠連中ににこにこと笑って近づいて行った。

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