お題:孤城の空想




 石造りの廊下、至る部屋の数々を凍える風が吹き抜けた。全てを凍らせて命を削る北の風は氷の粒を含み、触れた膚さえも傷つける。その風は錠がかかった大きな扉の、細い細い隙間さえも通り抜けた。部屋には石造り特有の縦に長いガラス窓があり、鉄格子のダイヤの隙間から青白い光が降り注ぐ。光の帯の中で氷の粒はぱっとまたたき、軌跡の尾を見せる。風はつむじをえがき、やがて敷物の真ん中にある、立派な天蓋付きの寝台の中へと吸い込まれた。ベッドを覆うほどに立派な獣の毛皮が広がり、艶やかに波打っている。うわ掛けに埋もれるようにして丸い盛り上がりがゆっくりと上下していた。暁闇で染めたような黒髪が枕に散って、そしてゆっくりと身じろぐ。眠る青年の頬はこの国には珍しいほど雪焼けもない。風は草波を作るがごとく毛足を撫で、ひとたび一回転してから、やがてその上へ降り立った。青年は自らの体を包む重みに眉を寄せた。
「うーん……」
 風はいつの間にか長い手足を持った、美しい男になって青年の上へ覆い被さっていた。炎が揺らめくような紅蓮の髪筋がたらりと落ち、まるで一流の職人の手で磨かれたほどのエメラルドが二つ、白い膚のくぼみに嵌め込まれていた。薄く色づいた唇は妖艶に開き、しかしただ無言のまま眼下へ視線を向ける。青年はやがて重みに耐えかね、口をむずむずと動かした後に溜め息をこぼした。たった今息を吹き返したみたいに、深くて長く続く吐息。それからまつ毛を振るわせ、ゆっくりと辺りの眩しさを享受する。現れた瞳はまるで夜明け前の空。眼前に迫る白面がじっと青年を見下ろしていて、気恥ずかしさに視線を移ろわせた。
「……おはようございます」
 律儀な挨拶に男は鼻先を頬へ擦り合わせて、青年を起こしたはずなのに今度は体を横たえた。シーツから舞った綿埃さえも光に浮かび上がる。
「晶、朝一番に鹿を狩ってきましたよ。昨日の夜にパン種を仕込んでいたでしょう。それを焼いてあなたの作ったベリーのジャムをたっぷりかけて」
 長い腕が伸び、うわ掛け越しに隣の体を手繰り寄せた。力強い手のひらになすがまま、青年は身を寄せる。窓から差し込む光に朝焼けの名残りがあった。あくびまじりに晶は再び嘆息した。
「ミスラは早いですね。……もしかして、昨晩の寝かしつけは失敗してました?」
「半々です。夜明け前に目覚めて、それからあなたの寝顔を眺めることにも慣れました」
 そう言いながらも手のひらは遠い触れ合いに焦れて、指先がうわ掛けの隙間へ潜り込む。晶の寝衣の襟元へ忍び込み、直接指の腹で鎖骨のあたりをくすぐった。晶は肩をすくめて、それから黒い爪を掬ってとがめる。それを待っていた大きな手のひらは晶の手を握った。
「また一眠りしますか?」
 晶の問いへ気だるげに赤髪が枕で揺れる。ただぬくもりが欲しいだけだと暗に伝えていた。晶は空いている方の手をうわ掛けから引き出す。腕に触れた朝の空気が冷たい。ただそう思っただけで部屋の暖炉へ炎が灯った。永遠に燃え落ちない薪がぱちぱちと音を奏でる。晶の指が赤い髪へ触れた。ところどころ雪が溶けた雫が彩り、指を濡らす。ミスラの伏せた眼差しの上へ長いまつ毛が傘を差し、触れ合いに身を任せ、じっと伏せていた。晶は彼の重たい前髪を掻き分け、布擦れの音を立てて上体を起こした。現れた真っ白な額へ唇を落とす。しばし伏せる横顔を眺めて、寝台から脚を落とした。暖炉の暖かさが頬に触れる。凍った窓の向こうは目に慣れることはない白銀の切り立った山脈で、青い雪の陰影がどこまでも続いていた。晶はしばらく吸っていない外の空気へ想いを馳せる。きっと酷く澄み渡り、肺を痛めるほど冷たいだろう。掴まれた手がふいに強く握られて、晶は振り返った。
「ミスラ?」
 羽布団の合間に埋もれた彼は晶の顔を眉を顰めて見上げていた。ミスラの機嫌が悪いのは晶にもよくわかった。
「どうして……」
 掠れた声が晶の耳に届く。
「どうしてあなたの顔はどんどん変な感じになるんですか?」
 晶の夜空の瞳がぱちぱちと見え隠れする。
「変? 俺はどこも変じゃないですよ」
 晶は自身の頬を撫でた。頬骨の辺りに目やにがついていて、恥じらった晶はさっと払う。
「顔を洗ったほうがいいかな」
 言外に手を離すことを示唆しても、晶の手のひらは固く握られ、男の手の甲に浮かぶ関節は石のごとく動かなかった。
「そういうのじゃないです」
「…………じゃあ、お腹が減ってるからかもしれません。すぐに朝食のパンを焼かないと」
 晶はことさら明るい声を出してみせた。優しく甘い響きで、ミスラの心を溶かしてしまおう。まるでこの国の短い春の日和みたいに。
「ベリーのジャムだけじゃなくて、マーマレードも乗せましょうか。それに今朝はとっておきのベーコンも焼いてもいいですよ」
「晶」
 覗き込んだ湖底のごとき色が二つ、シーツの中から晶を見上げていた。眉間に谷を作り、苦しげな顔。四肢がもげる痛みにも耐えられる男のはずなのに、見えない針に刺されている。
 晶こそが、苦しいのに。
「ミスラの望むまま」
「晶」
「全部ミスラの望むままですよ」
 窓の向こうで鳥が羽ばたき、二人の間を黒い影が走った。晶の顔へはっきりと翳りが浮かび上がる。指で擦っただけでは取れない。頬の影に、まつ毛の奥に、膚の向こう側にそれはあった。まるで傷口が膿むように、倒木が朽ちていくように、岩が風化してすり減るように、晶の輝きを失わせた。続く言葉が虚ろな城へがらんと響く。
「だって、もうすでに俺はミスラの望み通りに、この城にずっとずっと閉じ込められています」
 
 
 
 暖炉がぱちりと爆ぜた。耐えかねた薪がごつりと落ちる。冷え込む朝に灯したきりだった暖炉の火は役目を終えつつあった。
 伏せたまつげが震えて、双眸がうっすらと開く。瞬き、やがて夢うつつからミスラは目覚めた。視界に映るのは談話室の天井と煌びやかなシャンデリアの輝きで、長身の広い背を深い赤のソファが受け止めていた。両手を額まで持ち上げる。軽くて、男の手は何も掴んでいなかった。
 今まさに見ていたのは夢だと認識するまでしばらくの時間を要した。石の壁から伝わる凍みた気配や、布擦れの音を立てるシーツがミスラの耳へ触れていた感覚がこびりついている。
 中庭へ続く扉が開いていて、柔らかで暖かい風がミスラの赤い髪を揺らす。きゃらきゃらとはしゃいだ声が近づいて、やがてソファの背から金糸が覗き込んだ。
「ミスラさん、お昼寝から起きられたんですね」
 師の子供がほがらかに笑っていた。北の国には滅多にない緑と土の香りがミスラの鼻先を掠める。牧歌的なそれは南の魔女へと転身した師からもよく香ったものだ。ミスラは欠伸を漏らして起き上がった。ここは中央の国で、ありとあらゆる国の魔法使いが集まる魔法舎だということが脳へ押し寄せてくる。
「今からお茶を淹れるので一緒に召し上がりませんか?」
「ネロさんが焼いてくれたビスケットがまだ残ってると思います! 僕、持ってきますね」
 ミチルがブラウンの髪を跳ねさせ、ぱたぱたと駆けていく。兄弟の影から、ミスラの手を離した張本人が見えた。赤い前髪から覗く重たいまぶたが物言いたげだったのか、彼は眉尻を下げ、ミスラへ歩み寄った。
「ミスラ、起きちゃったんですね」
「……まあ、あなたが手を離したのは気づきませんでしたけど」
 晶は恐れることなく北の魔法使いの隣に腰掛けた。ミスラの手を離した代わりに、晶の両手には大切そうにいだかれた植木の鉢があった。白い釉薬がかかった膚に凝った造りの細工。見覚えのある、晶の部屋の窓辺にあったものだ。ミスラの視線へ晶は嬉しげに見上げた。ミスラを見遣る両の瞳の奥は澄んで、夢の中の翳りはどこにも無い。ミスラのエメラルドは晶を映したまま、二重映しの世界の間を行き来する。
「最近元気がなくて、ルチルとミチルの勧めでしばらく庭に置かせてもらってたんです」
 中庭で花壇の世話でもしていたのか、晶の膝に土汚れが見える。ミスラの目線だけで白い汚れは消え去った。うららかな薫風がカーテンを膨らませ、談話室を掻き回す。ミスラの眼下で晶の頭頂部の毛先が柔らかに揺れた。晶は何も気づかず、ミスラへ笑いかけた。
「そうしたら、新しいお花が咲いたんですよ」
 まろくなった瞳がみずみずしい花弁を誇らしげに見つめる。淡い桃色の花の他にもまだほころびかけた蕾がたくさんついていた。二人を眺めるルチルが南の魔法使いらしく微笑む。
「外の光と風に当てると元気になるんです。植物も生き物ですから。私たちも日向ぼっこすると体がぽかぽかするでしょう?」
 ルチルはテーブルへ魔法で呼び寄せたティーセットを並べた。磁器が触れる音がまるで光のようで耳に眩しい。
「賢者様って、」
「え?」
 テーブルへ植木鉢をそっと置いた晶がミスラを振り仰いだ。春光を反射させたエメラルドがちかちかとしている。ミスラは眩しそうに目を細めて晶を見ていた。
「あなたって花だったんだ」
 
 
 
 ミスラの胸にあった夢の名残りは、いつの間にかぬるい風に拭われていった。

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