『不凋花の咲いた夜』

 ──ある一室。使い魔の黒猫を抱き締めて眠る魔法使いは、夢を見ていた。珍しく悪夢ではないようで。それは、魔法使いが歩き出した或る夜の記憶だった。

「お願い、僕を殺して……!」
 手を差し伸べてくれた剣士さんが僕の言葉に首を振ってからあとのことはよく覚えていない。きっと、「助けに来てくれたんじゃないの」とか、「どうして今になって」とか、随分とひどい言葉で当たり散らしたと思う。
 次に目を覚ました時は、それまでのような、薄暗い洞窟の硬い地面ではなくて。窓から暖かな陽差しが射しこむお部屋で、ベッドの上に寝かされていた。隣には、座り込んで僕を見つめるあの剣士さんの姿があった。話を聞けば、彼女はずっと隣にいてくれたらしい。放ってはおけなかったから、と。その時もまた、「そのままでよかったのに」と言ってしまった。それを聞いた剣士さんがとても悲しそうな顔をしたのがとても印象的だった。
 僕はどうやら、フラワーガーデン家という貴族の家に拾われたらしい。頼まれたからといって殺せなかったから、と。剣士さんのお名前はダリアといって、ライラックというお姉さんがいて。二人とも、僕が不自由なく暮らせるようにとずっと手助けをしてくれた。僕は名前を呼ばれることすら嫌がって、夜ごと悪夢を見ては大きな声で魘されて、ことあるごとに「死んでしまいたい」と言っては困らせて、本当に迷惑をかけたけれど。それでもずっと、傍で支えてくれた。僕はただの汚れた平民でしかないのに。
 そうして、支えられるがままに生きるうちに漸く僕にも余裕らしい余裕が生まれて。お屋敷の庭に咲くお花を見るのが楽しみになった。目にする機会なんてほとんどなかったけれど、可愛いものが好きで。だから、風に揺れるお花もなんだか可愛らしくて、ずっと眺めていられた。とてもちっぽけかもしれないけれど、それでも僕にとっては何より大切で幸せな時間。
 ある夜。いつものように魘されて飛び起きた僕を、ダリアさんがお庭へ連れ出してくれた。少し夜風にあたらないか、と。
「いい夜だな。そうは思わないか」
 彼女は外に出るなりそう空を指した。見上げれば、綺麗な星天が広がっていた。それまでずっと下を向いていたから、気づかなかった。こんな景色があるなんて。
 息を呑みつつもお花畑まで歩いて。そこでまた僕は思わず足を止めた。夜の花が、あまりにも美しかったから。陽光に堂々と照らされる姿も綺麗だったけれど、月影のもとで穏やかに咲く姿もまた素敵だった。
「花が、好きか」
 不意に、ダリアさんにそう問われた。
 すぐに頷いて、答えた。
「うん、好き。明るいお昼も暗い夜も、変わらず咲く姿がなんだか眩しく映るんだ」
 普段からそんなことを考えているわけではなかったけれど、そんな言葉が自然と出た。
「そうか。眩しく、ね」
 彼女は満足げに笑って、それからしばらく考えるしぐさをして。思いついたように、また僕に問うた。
「……名を呼ばれるのが好きでないのだったな。どうだろう、それならば。いっそ、捨ててみないか」
 僕が意図を掴めず首を傾げているうちに、ダリアさんは続けた。
「名を捨てて、別の人間として生きてみる気はないか」
 今の名は本当に好きでなかった。呼ばれるたびにこれまでのことを思い出してしまって、でも他に呼び名がないからそう呼ばれるしかなくて。けれど、何もできないし、してもいない薄汚れた平民の僕が名前をもらうだなんていいのだろうか。
 迷っていると、ダリアさんはゆっくり考えたらいいと笑ってくれた。
「君さえよければ。『フィオレ』……それが、君の新たな名前になるよ。或る国の言葉で、『花』を意味するんだ。ぴったりだと思ってね」
 僕に、花が。なぜだろう、とか、僕なんかに似合うのかな、とか、少し考えて。傍で咲く花々に目を遣れば、やはり眩しく映って。何故とか、似合うとかではなくて。こうなりたいと強く思った。
 だから、僕は。
「その名前を、僕にください」
 新たな名に、新たな生に手を伸ばした。自分から何かが欲しいと言ったのはこれが初めてだったかもしれない。だって、もう何も要らなかったから。否、何も要らないはずだったのだけれど。一度くらいは背筋を伸ばして歩いてみるのだって悪くないかも。其処に咲く花のように。そう、思えたから。

 ──これが、フィオレ・フラワーガーデンの始まり。此の夜が在ったから、今のフィオレが在る。きっと今日も、魔法使いは背筋を伸ばして街を歩くだろう。

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