好きな人

 その日は、次月分の広報誌の校了日だった。わたしは、各課から回収した校正用紙が散乱したデスクの上で、印刷所へ送る修正データを作るべく、ひたすらノートパソコンのキーボードを叩いていた。
 昼前にはデータを送り終え、修正を反映した原稿が戻ってくるまでの間、ひと休みがてら給湯室へ向かおうとデスクを立ったとき、内線のコール音が鳴った。
 電話の相手は課長だった。今日は外出のはずだから出先からだろう。
『五月号の移住者さんて決まってる?』
「再来月ですか? まだアポは取ってませんが、候補は何人かいますよ」
『実は推薦したい人がいて……』
 移住者さんというのは、毎月役場で発行している広報誌の一コーナーのことで、市への移住促進を図るべく、新しく移住してきた人を紹介しようという試みだ。毎月出演してくれる人を探すのも一苦労なので、出てくれるという人がいればそれはもうありがたく掲載させていただきたい。
「ありがとうございます、助かります。どんな方ですか?」
「去年の四月にさ、ソウォン署の女性青少年課にあたらしい警察官が来たじゃない」
「はい。……え、それって」
「所長がぜひに、って言うんだよ。ほら僕、所長と飲み友達だから」
 知らねえよ。あやうく口からそう出かけたが、ひとまず飲み込んだ。去年、ソウォン署の女性青少年課に移動してきた人間はひとりしかいない。
「本人も了承してるから、とりあえず君からも直接連絡いれておいてもらえるかな? 名前は……」
「ハン・ジュウォン警衛ですよね?」
「あら、よくご存知だこと」
「有名人ですから」
「なら話が早いね。よろしくね〜」
「おつかれさまです」
 課長の間延びした声を遮って電話を切った。この仕事をしていると、意外な人と会うタイミングが少なからずあるし、そういった人たちと直接話ができるのはなかなか貴重な機会だったりする。
 ハン・ジュウォン警衛。多数の女性が被害者となったムンジュ市の忌まわしい事件を、二十年にわたる連続殺人事件の可能性があると記者の前で発表したあの男だ。テレビで見たときの印象は、いかにも頭がきれそうで、それでいて神経質そうな風貌が鼻についた。 けれど、すべてを射抜くような真っ直ぐな眼差しに、腹の中に獣でも飼っているかのような底知れなさを感じて、どこか好ましくも思えた。元ソウル庁外事課のエースで、ハン・ギファン元警察庁長官の一人息子であり、容疑者ハン・ギファンの検挙に一役買った英雄、のはずだった。
 彼は、一連の事件が終結してから、すっかり公の場に姿を見せなくなった。実父が、ましてや警察庁長官ともあろう人間が取り返しのつかない罪を犯したのだ。立場が危うくなって、警察を辞めていてもおかしくはない。そう思っていた。警察署の人事異動リストに、彼の名前を見つけるまでは。彼がまさか、こんな田舎にやってくるなんて。こちとら長年江原道に住んでいる身としては失礼な話だが、まぁ左遷されるには適した場所ではある。
 とにかく、牛の角は一気に抜けと、少し緊張しながら署へ連絡をしたら、ハン警衛は、『所長から話は聞いています。僕でよければ喜んで』と二つ返事で取材を受けてくれた。電話の印象も、声こそ低いが穏やかなもので、テレビに出ていたときの威圧感はどこにもなかった。本当にあのハン・ジュウォンなんだろうか、と疑わしくさえ思えてきた。まぁ会えばわかる。わたしは、卓上カレンダーに取材日のスケジュールを書き込んで、デスクを立った。
 


 取材当日、まさに春日和といった快晴の中、署の正面玄関から現れた制服姿の彼は、うっすら泥のついた黒いスニーカーを履いていた。なぜだかわたしはその足元に釘付けになってしまって、目の前に名刺を差し出されるまで、自分の名刺入れを開いていないことに気が付かなかった。
「初めまして。ハン・ジュウォンと申します。本日はよろしくお願いします」
「すみません、こちらこそご挨拶が遅れました。本日はお忙しいところお時間を取っていただきありがとうございます」
 わたしは慌てて挨拶をして、お互いの名刺を交換した。本当に、正真正銘あのハン・ジュウォンだった。けれど、思っていたよりだいぶ印象が違うというか、ふんわりとした髪型のせいだろうか。どことなく柔らかささえ感じた。
「ええと。以前電話でもお伝えしましたが、今日はインタビューと、お仕事の様子も拝見させていただけたら。初等学校の子どもたちが来るとお聞きしました」
「はい。課外授業だそうです。本来もう少し早い時期にやるんですが、今年は別の行事とバッティングしてしまったみたいでこの時期に」
「そうだったんですか。あ、早速いらっしゃったみたいですね」
「あぁ、本当だ」
 引率の先生と保護者に続いて、小さな子どもたちがバスから降りてぞろぞろと歩いてきた。『こんにちはー!』と元気いっぱいな挨拶が聞こえてくる。ハン警衛は、テキパキと子どもたちを玄関の前に誘導した。まんまるい小さな頭が何列かに綺麗に並んでいく。後ろの人とおしゃべりしている子、そわそわして手遊びをしている子、母親に手を振っている子、いろいろだ。そんな子どもたちを見ていると、かわいらしくてつい、にんまりしてしまう。ほのぼのしていたら、いつのまにかハン警衛の隣に所長も並んでいて、レンズキャップをしたたままの一眼レフカメラを肩からぶら下げたわたしは、そういえば仕事だったとすぐに我にかえった。
「所長おはようございます。本日はよろしくお願いします」
「いえいえこちらこそ。うちのエースだから、かっこよく紹介してやってください」
「別にエースってわけでは……」
 言い淀んだハン警衛は、少し照れているみたいだった。この人も照れたりするんだ。
 みんな揃ったところで、所長が「手短に」と子どもたちに挨拶をしてすぐに戻っていった。それからハン警衛が、低学年向けに優しい言い回しで授業の流れを説明した。
 
 
 課外授業が始まってからは順調だった。一行は警察署内の窓口や各課を周りながら、パトカーに乗ってみたり、特別ゲストのポドリくんとポスニちゃんと写真を撮ったり、ほんわかと時間が過ぎていった。
 ハン警衛は終始穏やかだった。時々子どもたちの質問に答えては、冗談にも付き合いながら、たまに笑顔も見せてくれた。彼のことを誤解していたかもしれない。なんてことはない、普通の青年じゃないか。カメラのメディア欄に溢れる、彼と子どもたちの仲睦まじい姿を眺めながら、今日はいい記事が書けそうだとわたしは内心嬉しくて仕方がなかった。
 そんな時、事件は起こった。
 会議室で設けられた質疑応答の時間中、ハン警衛のスマホが鳴った。別によくあることである。ハン警衛も、「失礼」なんてスマートに言いながら、制服の胸ポケットから携帯を取り出した。そのまま切るのかな、と思いきや、鳴り続ける携帯の液晶画面を一度見、二度見して「はぁ⁉︎」と叫んだのだ。
 おとなしく椅子に座っていた子どもたちが、揃いも揃って立ち上がった。「おまわりさんどうしたの?」「事件ですか?」「出動するんですかー?」と目をキラキラと輝かせはじめた子どもたちを落ち着かせようと、先生がなだめる。けれどどう見ても先生もちょっと気になっている。もちろんわたしも。人間とは好奇心に逆らえない生き物である。平和を願う気持ちはありつつも、事件が起きて警察が出動するところなんて見たいに決まっている。
 ハン警衛は、一度ごほんと咳払いをして「すみませんでした」と言った。何事もなかったように質疑応答を再開しようとしているけれど、どこからどう見ても動揺している。すみません、それシャッターチャンス。わたしは何食わぬ顔で、腰のあたりでこっそりカメラを構えて、焦る彼の姿を連写した。誌面に使う使わないは別として。
「えーと、事件ではありませんでしたので続きを。なんだったかな、そう、質問。質問はありますか」
「事件じゃないなら事故ですか!」
「事故でもありません。本当に、なんでもありません。ただの電話なので気にしないで」
「ただの電話ってなあに?」
「あの、質問というのは僕のじゃなくて」
 もう手遅れだ。あっという間に課外授業が記者会見へ変わった。ハン警衛ひとりVS興味津々好奇心いっぱいのお子さんたち約二十名。これはハン警衛、圧倒的不利である。
「誰からですか〜?」
「好きなひとじゃない? おまわりさん好きなひといるんですか?」
 とびきりおしゃれをした背の高い女の子が、目を見開いてそう言った。なかなかにキレのある、いい質問だ。その手の話は大人じゃなかなかできない。子どもの特権だ。案の定、純粋なお子さんの無邪気な質問をまともにくらったハン警衛は、「いや」とか「それは」とか急に語彙力が低下して、浮気の釈明みたいになっている。釈明しながらわたしのほうに視線をちらちらよこしはじめたので、わたしは撮影に没頭するふりをしてカメラのファインダーを覗き続けた。だってそれ、わたしも知りたい。
 盛り上がるオーディエンスを前にして、ハン警衛はいよいよ観念したのか、超特大に眉間の皺を寄せたまま、大きく咳払いをした。
「……そんなに知りたいならお答えしましょう。電話は好きな人からでした。これ以上はお答えできません」
「えー! なんで!」
「何の用〜?」
「どんなひとーー!」
「結婚してるんですか〜?」
 当然ながら、押すなと言われれば押したくなるし、聞くなと言われればますます聞きたくなるものだ。ヒートアップする子どもたち。欲しい答えを聞くまでは質問をやめないぞという気迫すら感じる。記者会見どころか国会である。圧倒的不利なハン警衛、どう出るのかとはらはら(わくわく)しながらことを見守っていたら、彼が今度は落ち着いたトーンで再び口を開いた。
「え〜、確かに僕には好きな人がいますが、世の中にはいろいろな人がいます。結婚している人も、しない人も、したくてもできない人もいる」
「そうなの?」
「なんで〜?」
「理由はさまざまです。お金のこと、病気のこと、法律のせいなんてこともあります。あ、法律というのは決まりごとのことですね。僕たち警察官は法律を大切にしています。けれど、時々その法律と仲良くできないこともあります。だから僕たちは、みんなが楽しく暮らせる世の中になるように、毎日がんばっています。みなさんも、誰かに優しくする気持ちをたくさん持ってくださいね。そうしたら、みなさんも、みなさんの大切な人も、もっと楽しく幸せに暮らせるはずです」
 わかりましたか? ハン警衛がそう言うと、子どもたちは『ハーイ』と元気いっぱいに返事をした。さっきまでの騒がしさが嘘のように、いい雰囲気だった。誤魔化したように見えなくもないけれど、とりあえずうまくまとまったからそれでよしとしよう。
 
 
「僕、さっき助けを求めましたよね?」
 嵐が過ぎ去り、ぐったりしたハン警衛が、応接室のソファでうなだれながら言った。身に覚えがありすぎたので、わたしは軽く「すみません、つい」なんてはぐらかした。インタビューシートを準備しながら、先程のあたふたしたハン警衛の様子を思い出して笑いそうになる。
「表情豊かな方なんだなと思って」
「そうですか? 初めて言われましたそんなこと」
「みなさん知ってると思いますよ。言わないだけで」
「まあわざわざ言わないでしょうね、そんなことは」
「ぜひ聞いてみてください。パートナーの方に」
「その話はもう本当に勘弁していただけますか?」
 耳まで赤くしたハン警衛が、口元を手で覆ったので、なんだか微笑ましくなった。本当にパートナーのことが好きなんだな。
「本当にお好きなんですね」
 彼の幸せそうな顔をみていたら、つい口からそう溢れてしまった。
「……そうですね。自分でも驚きます、ってなんのインタビューですかいったい」
「ふふふ、プライベートな部分も見せていただいたということで。早速お話聞いて行きたいんですが。……あ、その前に」
 わたしは、テーブルに置いていたカメラを取った。誌面を読んでくれる人に、少しでも彼の人柄が伝わるよう、一番素敵な表情を写真におさめたかった。ハン警衛が大切な人とともに幸せでありますように。そう願いを込めて、シャッターを切った。
 
 
 ♢ ♢ ♢
 
 
 とある日、仕事を終えて年上の恋人の家に行くと、リビングのダイニングテーブルにひっそりと『それ』があった。
「おかえり」
「なっ……! なんでこれがここに、僕だってまだ見てないのに」
「俺の情報網を舐めないでくださいよ。こんなものいくらでも手に入れられます」
 年上の男は、こんなもの、こと一冊の冊子をぺらぺらと僕に見せつけて、片側の口角を上げた。表紙で子どもたちと一緒に笑っている男は、まごうことなき僕だ。
「わ〜よく撮れてるね」
「うわーっ⁉︎ 見るな!」
 ドンシクさんはぱらぱらと冊子のページをめくりながら、力ずくで止めようとする僕をいとも簡単にひらりとかわした。
「なになに、地域のひとたちとのつながりを大切に、かつてのパートナーが教えてくれたこと」
「ギャーーーーー」
「へぇ、時折見せる微笑みに、パーソナルな一面が垣間見えることも。へぇ〜〜〜」
「もうやめてぇ」
「かわいいね〜俺のパートナーは」
「馬鹿にしてるでしょう」
「本当のことだもの。よく怒って、笑って、泣いて、本当にかわいいよ」
「取材の方にも言われました。表情豊かだって」
「ふぅん、よくお気付きだこと」
 彼はそう言って、ソファにどかりと寄りかかった。心なしか、拗ねているような。いやいや、まさか。確信に迫るべく、僕も彼の隣にくっついて座った。
「ドンシクさん? もしかして妬いてます?」
「さぁ〜どうだろうね〜」
「あ、だからあんなことを?」
 あんなこと。取材中、よりにもよって裸でビデオ通話してきたこと。
「そりゃあね〜。こんな顔、よそでされちゃたまったもんじゃない」
 ドンシクさんがトン、とインタビューページの写真に指を置いた。僕のアップの写真だ。自分でも、驚くほど柔らかい表情をしていた。
「僕ってこんな顔してたんですね」
「そうだよ。知らなかった?」
「知らなかったです」
「でもこうして知れ渡っちゃったからねぇ。困るなぁハン警衛のファンが増えたら」
「やっぱり妬いてますね?」
「そういうことにしておいてあげましょう」
 ドンシクさんは、冊子をコーヒーテーブルに置いてから僕の頬を両手でつねった。鈍い痛みとともに、両頬の皮膚が伸びていく。彼はしばらく僕の頬をこねくりまわたあげく、「やっぱ実物が一番ですね」なんてかわいい顔で言った。

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