小さな幸せの花

 物心が付く頃から、いずれは父と同じ将校になり国のために命を捨てるのだと言い含められてきた。親より先に死ぬのは不孝だが親のために尽くすこともまた孝行である。忠と孝が一致しているが故に父の望むように生きて来たし、自分が軍人になればどこかで生きている腹違いの兄を守ることにもなると考えたのだ。
 国を、陛下の臣民を守ることは引いては兄を守ることにもなるのだと。そう思えば幾分気持ちが楽になった。忠孝に続き悌という名分を得られるのだ。だからその兄が軍にいると知ったとき、拍子抜けしたとともにそれ以上に心強く感じた。
 兄と交流を持つうちに、自身の価値観の均衡が少しずつ崩れていったように思う。その思いは内面にとどめて表面的には何ら変わりがないよう努めていた。だが自分の中で兄の存在が上位を占めるようになってしまった。だからといって、兄が望むような弟になれないことも事実だった。いにしえの時代、忠と孝の板挟みで苦しんだ先人が居たが、さしずめ自分は忠孝と俤の間で足掻いている小人だろう。
 世の中には己の思いだけではどうにもならない事がある。私は努めて初心を忘れることなく、自身に課せられた役目を全うせねばならない。今すぐは無理だとしても、兄はきっと、いつかきっと、分かってくれるはずなのだ。そう信じなければ自分はこの痛苦に耐えられそうもなかった。

「兄様、菜の花が咲いています!」
「……ええ」
 初夏を彩る菜の花畑を通り掛かったのは、勇作が尾形を誘って街へ出た帰り道だった。大通りを外れた路地裏に、鮮やかな黄色を見つけた勇作は思わず兄に報告した。尾形は無感動だったが、勇作のはしゃぐ姿が不思議だった。日々の会話でも些細なことを逐一話す勇作は、自分と違ってどんな事象にでも感動出来る質なのだろう。
「兄様は菜の花、お好きですか?」
「まあ、蕾のほろ苦さは嫌いではありません」
「えっ。なるほど、確かに菜の花と切り干し大根の浸し物は私も好物です」
 食用としての観点で返事が返ってくるとは思っていなかったので、勇作は一瞬言葉に詰まったが、自分とは異なる感覚を持つ兄を好ましいと思った。
「少し寄り道して行きましょう」
 嬉々として歩を進める勇作に対して、尾形は帰営が遠のいた事に心の中で溜息を吐いた。あと少しの辛抱だと思っていたにも関わらず、拘束時間が長引いてしまったのだから。
 近くに寄ってみると菜の花は自生しているものなのか無造作に生えており、土地は手入れされているようには見えなかった。勇作は躊躇うことなく足を踏み入れると、草の生い茂った地面に腰をおろして寝転んだ。
「勇作殿」
「兄様もどうですか。青い空に菜花の黄色が映えて綺麗ですよ。それに地面に寝転がるのは気持ちが良いです」
「……背中が汚れるのは遠慮したいので座るだけにしておきます」
 勇作から一人分の距離をあけたところに尾形は膝をゆるく抱える姿勢で座った。横目に勇作を見下ろせば、寝転んだまま目を閉じて深呼吸しているようだった。随分と気持ちよさそうだが、尾形には到底理解できなかった。蜂の羽音はうるさいし、菜花の茎にびっしりと付いたアブラムシは見ていて気分の良いものではない。花の独特な匂いも鼻につく。
 遠目に見る花が美しくとも、近くに寄れば粗が見えるものだ。けれどいつもより近くで見る勇作の顔は相変わらず美しいままだった。偶像はどんな時でも崩れないものか。いや、こんなところで少尉が寝転んでいるのだから常に見せる姿とは違うのだが、そんなことは瑣末になってしまう程にとことん嫌味がないのだ。
「勇作殿が草の上に寝転ぶ姿をほかの者たちが見たら驚くでしょうな」
「そうでしょうか。私は昔からこうやって寝転んで空を見上げるのが大好きなんです。士官学校では叱られましたが」
「士官学校で?」
「教官殿が気を使って楽な姿勢で聞け、と言ったのを真に受けて大の字に寝転んだら大目玉を食らいました」
「品行方正な勇作殿でもそんなことをするんですね」
 尾形は少なからず驚いた。人の目があるところでは足を崩したこともないような男だと思っていた。だが現に今も草の上に寝転んでいるのだ。
「同期からも、『花沢は真面目なのか抜けているのか分からん』とよく言われました」
 確かに完璧に見えて抜けているところはある。便所に足が嵌まった勇作に、尾形が軍袴を貸した記憶も新しい。欠点がないように見えてその実、間が抜けているところがあるのだとすれば好意的な人間からすれば愛嬌に思えるだろう。どこまでも損をしない男だ。
「普段の勇作殿を知る人間からすれば考えもしないと思いますが」
「日頃から猫を被っているので、いつ化けの皮が剥がれるかと肝を冷やしております」
「俺の前では被らずとも良いのですか」
「兄弟ですから。それに兄様は私が間抜けであることを既にご存知でしょう?」
 空を見上げて機嫌よく笑う勇作は、いつもより幼く見える。尾形は落ち着かない気持ちを誤魔化すように足元の石を蹴った。その石が思いのほか頑丈で、つま先に痛みを覚えた尾形は苛立った。
 勇作が菜の花を見ようと寄り道しなければこんな目に遭わずとも済んだものを。完全な八つ当たりだったが、尾形は早く帰営したかった。
「また今頃の季節になったら、一緒に菜の花を見に行きませんか兄様」
「これから戦地へ赴くというのにそのような約束はできかねます」
「来年が無理でも、再来年。再来年が無理でもまたその次の年に」
 勇作は引き下がらなかった。寝転んだままめいっぱい伸びをして身体を起こすと、尾形と同じように膝を立てた。
「いつでも死ぬ覚悟が出来ていたはずなのに、兄様と出会ってこの世に未練が残ってしまいました」
 困り顔で笑みを浮かべる勇作に、尾形の心は何故かざわついた。そういう歯の浮いた台詞は好いた女にでも言うものでは無いのだろうか。
「……約束はできかねますが、お互い生きていたらまたその時にお声かけください」
「はい! 必ずお誘いします」
 元気よくそう答えた勇作がどんな表情だったのか、尾形は後々まで思い出せなかった。

 それから半年後、勇作も尾形も最前線にあった。凍てつく寒さの中、勇作は軍刀すら抜かずに軍旗を掲げ、兵士たちを鼓舞していた。そこに死を恐れる素振りはまったく見られない。
 そんな勇作に尾形は何故か腹立たしい気持ちになった。
(本当はこの世への未練などないのだろう?)
 あのとき、また一緒に菜の花が見たいと言った勇作は所詮ただの軽口だったに違いない。自分だけが何故かその約束に囚われてしまっているようで釈然としなかったのだ。
 勇作を撃ったのは、ただただ単純に自分に対する父の愛を確かめるためだった。一発で仕留めた勇作の遺体は、幼いころ撃ち続けた鳥と同じだった。あの頃は母に、今は父に、自分を見てもらうために撃ったというのに結局は何も成らなかった。
 何も差し出さずに自分を見てくれていたのは勇作だけだった。それに尾形が気づくのはもっと先のことだった。或いは、気づいたことに〝気づかぬように〟心に蓋をしたのはこの時だったかもしれない。

 露国との戦いが終わり、旭川へ戻ると以前と同じ生活に戻った。多くの戦友が帰らなかった。生き延びた尾形は、自分を兄様と呼んでつきまとっていた存在の不在にも慣れていた。そのことについて特に感情が動くことはない。そもそも殺した後悔などしていないのだから——。
 それは所用で街に出たときのことだった。出兵前とは幾分景色の変わった街並みをそれとなく眺めながら歩いていた尾形は、ふいに脳裏を掠める黄色に足を止めた。以前、勇作と見た菜の花畑があった辺りだ。
 何とはなしに、そう、ただ何となく尾形はそちらに足を向けた。季節柄あの時のように盛りであってもおかしくはない。だが、辿り着いた先に畑はなく、小ぢんまりとした家が建っていた。はじめは場所を勘違いしたのかとも思ったが、路地を確認するだに間違いはなかった。
 結局、勇作と自分が生き延びようが死のうがあの菜の花畑を二人で見ることはなかったのだ。尾形は思わず「ははッ」と乾いた声を漏らした。どんな選択をしたところで、行き着く先に変わりはないのだ。
 小さな家の片隅に咲く菜の花は、尾形の目には映っていなかった。

〝兄様はけしてそんな人じゃない。きっと分かる日が来ます〟
 勇作にはいったい俺の何が分かっていたのだろう。俺は勇作のことが何一つ分からなかった。それは自分が欠けた人間だからだと思っていた。だが、それは強い強い思い込みだったのだ。そうしなければ己の足で立っていられなかったに違いないのだから。
 利き目をアシㇼパの毒矢で失くした。それからは左目で獲物を撃てるようにした。樺太で熱に魘されて見た|勇作《悪霊》は、片目になってから頻繁に現れるようになった。それは気配であったり、足元であったり、実態を伴うものではない。顔すら分からないのに間違いなく勇作だと思う自分もどうかしている。
 ずっと、直視出来ずにいた勇作の顔はそれでも鮮明に覚えていた。暴走列車の上で再びアシㇼパの毒矢を受けて、またしても俺の前に現れたのは|勇作《悪霊》だった。いや、それは、勇作こそが俺には無いはずの罪悪感そのものだった。溌溂と自信に満ちた美しいその顔を忘れられるはずがなかったのだ。
〝勇作だけが俺を愛してくれたから〟
 殺した後悔などしていない。ならば何故ことあるごとに勇作を視ていたのか。考えてはいけない、考えた先の真実に気づいてしまったら自分はもう耐えられない。耐えられないとは何に対してだ。
〝兄様は祝福されて生まれた子供です〟
 背後から勇作に支えられて最期の銃を撃った。それは紛れもなく自分に向けた銃口を受けるための動作であり、己一人では成し得なかった通過儀礼だったのかもしれない。
 意識が無に帰結する瞬間、目の前には一面に広がるあの黄色い花が見えた気がした。それは、勇作がくれた祝福の色だ——。

「兄様」
「勇作……殿」
「勇作、とお呼びください。ここには階級も身分もありません」
 次に目を開けたとき、尾形の前には生前と変わらぬ姿の勇作が立っていた。
「では俺と貴方が兄弟であるという事も無かったことに?」
「すみません、それだけは無くせません」
「ははッ、なんだそりゃ」
 これは都合の良い夢か、はたまたあの世とやらか。どちらにせよ勇作からは逃れられないのだと尾形は笑った。
「兄様、一緒に菜の花を見に行きませんか」
「その約束はまだ有効だったんですか」
「生きて果たせなかった約束ですから未練になりました」
 知らず勇作に手を引かれて、尾形は菜の花畑に立っていた。見渡す限り果てのない黄色に埋め尽くされている。最期に見た景色だ。 
「菜の花の美しさと鮮やかさは、まるで兄様のようです」
「俺には勇作殿のように思えますが」
「ならば兄様と私は相思ですね」
 何が「ならば」なのかは分からないが、自分を愛してくれた男を慕わしいと思ってしまったのだからそれが正しいのだろう。
「兄様と過ごした日々は、その一つ一つの出来事が私にとっては新鮮で、かけがえのないものでした」
「大仰な」
「本当です。兄様が居たからこそ、私は——」
 珍しく言葉を詰まらせた勇作に尾形は戸惑いつつも、その顔をまじまじと眺めた。
「勇作殿の顔、とっくに忘れたつもりでしたがやはりこの通りでした」
「覚えていてくださってよかった。忘れられては寂しいですから」
 顔だけではない、声も、そして繋がれた手から伝わる自分より高い体温も、間違いなく勇作なのだと尾形は実感した。ここが彼岸なのか此岸なのか、はたまた夢なのかはもうどうでも良かった。
「時間は幾らでもありそうなので、以前のように勇作殿の話を聞かせてください。それこそこの菜の花畑に寝転んで」
「はい……はい! 兄様のお話もお聞かせください。そうだ、兄様も一緒に寝転びましょう」
「なんか臭いそうだから嫌だ」
「えぇ……?」
 勇作の困惑した顔に、尾形は思わず噴き出した。この男の顔はやたら整っている癖に見飽きることがない。これから先、果てのない時間が続こうともそれだけは確信できた。
「冗談です。俺も寝転がってみます。少し疲れました」
 尾形は肌身放さず抱えていた三八式歩兵銃を肩から下ろすと、繋がれたままの手を引いて勇作と共にその場に寝転んだ。見上げた空もまた、ほとんど黄色に詰めつくされていて、それゆえに青空が映えて見えた。
「こんなに気持ちがいいんなら、あのときも寝転べばよかった」
「下から見上げた兄様も素敵だったので、あの時はあれで良かったのです」
「好意的解釈だな。では並んで寝転んだご感想は」
「お顔が近くて緊張します」
 目を細めて頬を染める勇作を、尾形は真顔のまま見つめ返した。思えば隣に並ぶ勇作はいつもこんな顔をしていた。何がそんなに楽しいのか、嬉しいのか。未だにはっきりした答えは出ないけれど、自分に向けられるこの表情が尾形は嫌いではなかった。
「では何でも聞きますから話してください。でも眠くなったら寝ると思います」
「ありがとうございます。でもよくよく考えたら、あの頃は兄様と話すために話題を作っていただけで、今となっては何を話せば良いのか分からなくなってしまいました」
「何でもいいです。貴方の生い立ちからでも、失敗談でも、好きなものでも……」
 そう答えながら尾形は少しずつ微睡み始めていた。目覚めればまた勇作が隣にいるはずだ。だから安心して休んでも良いのだ。
「兄様」
 そう呼ばれることが嫌いではなかったのだと、尾形はこのとき初めて気がついた。そう、勇作を嫌ったことなどなかった。
 眠りに落ちる直前、目に映り込んだ世界は変わらず鮮やかな黄色が眩しかった。それはきっと、弟の存在そのものだったに違いないのだから。

 ※※※

 手を引かれて開けた視界に飛び込んで来たのは一面に広がる祝福の色。この男だけが自分を愛してくれている証明であるかのように埋め尽くされたその色は、かつての自分ならば目を背けたかもしれない。今はこの美しい世界に佇む弟だけを見ていたかった。

 兄の温もりが手から伝わった瞬間、涙が出そうになった。兄を祝福するかのように広がる一面の黄色い花。兄はいつだって自分に美しい世界をもたらしてくれた。人生に彩りと春を連れて来てくれた人。その兄ともう二度と離れることのないように、繋いだ手を強く、強く握りしめた。

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