ハグ


「徹郎さん、ただいま。」
譲介が家に戻ると、静かな部屋に、エアコンの音と洗濯機の回る音が響いていた。
パートナーが自分の帰宅を待ってリビングにいてくれるだろうと期待していた譲介は、人気のないリビングを眺めた。
いないんですか、と尋ねる声にも、返事はない。

一か月ぶりの帰宅がまさかこんなことになるとは思っていなかった。
出張先から戻る時、悪天候でまさかのソルトレイクシティに着陸することになり、そこで半日、次のフライトを待つことになった。空港まで出迎えに来てください、と事前にお願いをしていたものの、今の住まいから近いとは到底言えない場所で、長時間、来るかどうかも分からないフライトを待っていてくださいとは言い難い。列車で弾丸旅行の体で帰宅するというルートもちらりと考えたけれど、結局、最寄り駅から家までの距離を考えて、次のフライトを待つことにしたので、出迎えの予定は、あえなくキャンセルになった。
一か月間触れあうことが出来なかったパートナーとの再会を空港でのハグで行う、という譲介の淡い夢は、はかなく消えた。


家に戻ったら、さっとシャワーを浴びてあの人にハグとキスをして、それから荷ほどきを、とそういう流れを考えてシュミレーションしていた譲介は、空っぽのリビングを目の当たりに呆然としていた。
洗濯機を回していて聞こえないのかと思い、肩に掛けっぱなしにしていたリュックを下ろし、コートを脱いでからバスルームを見に行ったが、そこにも彼の姿はない。
譲介は、回っている洗濯物をぼんやりと五秒眺め、手と顔を入念に洗ってからリビングに戻り、牛乳を飲んだ。そうやって心を落ち着けると、半年前に別居を初めて今は離婚してしまった同僚が、配偶者のいないリビングがやけに広く感じると言っていたことを思い出した。
縁起でもない話だ。
冷蔵庫には元々食べ物は殆どなかったけれど、と思い、慌てて下の引き出しを開けると、出張前にあれこれ詰め込んでいった冷凍庫の中が空に近くなっているのでほっとした。
「やっぱり買い物かな。」
もし仕事が入っていたとしても、今日の曜日なら、いつもはこの時間には家には戻っているはずだ。互いに拘束しすぎないこと、と結婚前に約束したとはいっても、こんな時間にどこへ、と心配するのは譲介の自由だ。
確かに、使ったキャブが渋滞にハマってしまい、今からならこの時間に家に着きます、と事前に送った帰宅時間よりは大幅に遅れてしまったけど。
「………。」
客観的に見ても、自分が百パーセント悪い気がしてきた。
とりあえず頭を切り替えよう。ふう、と息を吐いてこめかみを揉む。
以前暮らしていたアパートメントと違い、今の家の周りはどちらかといえば住宅街にある。
十分も歩けば行きつけの寿司屋、というロケーションではなくなったということもあって、彼の移動手段は車中心に戻りつつあるが、このところ、近所にサンドイッチとドーナツを売るグロッサリーを見つけたこともあって、運動のついでに、と歩きで移動することも増えたように思う。
現在地を確認するのに電話をしてみよう、と尻ポケットからスマートフォンを出して短縮ボタンを押すと、いつもの着信音がソファの方から聞こえて来て、譲介は頭を抱えたくなった。ソファに掛かっている毛布に隠れて見えないが、絶対にそこにある、と分かる。
ベッドじゃなくここで寝起きしていたのなら、あの人にひとこと言っておかないと、とは思うが、それは後回しだ。
リビングのテーブルには、充電中のタブレットが置いてあるきりだ。
いつもなら出掛ける先と時間が書かれた書置きがあるけれど、長期不在で、彼がその習慣を失念しているのだとしても不思議はなかった。
流しに目を向けると、洗い終わって伏せられた彼の普段遣いのコップとコーヒーカップがある。
譲介がほんの数日――そんな風に思えるようになる日がいつか来ると、高校時代の自分に教えてやりたいような気分だ――の学会を終えて出張から帰って来ると、いつものリビングには使い終えたマグカップがキッチンの戸棚にあるだけ木立のように並んでいることもあるというのに、今日はすっかり片付いている。
きっと、冷凍庫を空にしてからは外食続きだったのだろう。それなら今日は、夕食を買いに出掛けていても不思議はないな、と思う。
やっぱり、迎えに来てくださいと言えばよかった。
待っていて、と言われて待つ時間がどれだけ長いのかを、譲介は知っている。
だからこそ、こういう日は我儘を言った方が良かったのかもしれない。


仕方がないので、彼が戻って来るまでは仮眠を取るつもりで、当初の予定通りシャワーを浴びて、フライトを待ってる間に伸びて来た髭を剃った。
彼が帰って来るのを僕がリビングで出迎えたらいいだろうけど、とは思うけれど、長旅で疲れ切って帰って来た身体は譲介の言うことを聞かない。
今日は許してもらおう、と寝室のドアを開けた譲介は、ベッドの上に、見慣れた形にもこもこと膨らんでいる布団を見つけた。
「え……?」
ベッドサイドには、彼が脱ぎ散らかしたいつものブーツがある。
さっきまでの煩悶は何だったんだ、と譲介は頭を抱えたくなった。
心配していた自分が馬鹿みたいに思えるけれど、もう仕方がない。ベッドを揺らさないようにしてそっと体重を乗せて、布団を持ち上げると、愛しい人は、譲介の枕をぎゅうぎゅうに抱きしめて寝息を立てている。
これは、狸寝入りだろうか。
起きてますか、と囁けば、じょうすけ、と夢うつつの人に名前を呼ばれる。
「ただいま、徹郎さん。」
帰宅の挨拶を囁き、愛しい人に身を寄せると、おかえり、と言う声の代わりに、ぐい、とその腕に引き寄せられる。いつものノースリーブ越しに、洗剤の香りと、微かに上気した彼の匂いと熱を感じる。
ああ、帰って来たな、と思いながら、譲介はその力強さと暖かさに疲れ切った体を委ねた。逢えない間、何度も、このシャツを捲り上げて、彼の肌に直に触れて、と考えていたけれど、今は瞼が持ち上がらない。
「少しだけ寝て、それから夕飯にしましょう。……早くあなたを抱きたいけど、今はこのまま。」
そう言って、彼の鼻先に顔を寄せてキスをすると、抱き寄せる力が強くなった。
不満なら口に出してくれればいいのに。
譲介は微笑みながら、可愛い人の唇にもう一度だけ、と思って唇を寄せた。






Fuki Kirisawa 2024.02.11 out

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