どんどん行こう


歩くの大好き、どんどん行こう、という内容もへったくれもない凡庸な歌詞が、金曜の夜のリビングに響き始めた。
いつの間にかブラウン管ではなくなっていたテレビの中には、あの頃から見慣れたタイトルが踊っている。
「テレビ、消しますか?」
「アカン! オレ見とるんや!」
「僕も~!」
子どもがジタバタと振り回しているその足先には、いつ誰が買って来たのか、犬の顔が付いたもこもこのスリッパが見える。
ちなみに、隣に座っている兄弟子の足を覆っているのも、色違いの同じ犬である。
さっき帰宅した時に、子どもと同じ色の白い大人用のスリッパが未使用のままで玄関先に置いてあるのが見えたが、見なかったことにした。
「お前はもうそろそろ、寝なあかんやろ。」と言うと、「明日ガッコないやん。」と子どもが反論する。
ああ言えばこう言う態度は誰に似てしまったのか。
起きてるのは遅くて十時まで。普通なら九時前には寝かし付けると決めていたが、子どもの学年が上がるにつれて、徐々になあなあになっている。
そもそも子供向けの映画というなら、七時に始まって九時には終わるようにしたらいいのに、その時間帯はなぜか野球中継が入っているのである。子どもが見たい番組の方を深夜帯に持って来るというのも、確かに大人の都合と言えば大人の都合なのだった。
「録画して、明日の夕方に夕飯食いながら見たらええやろ。」
「お父ちゃんはそれがええかもしれんけど、僕はそれアカン。ビデオにとったら後で、て言うてたら結局見んようになるもん。大体、土曜の夜は、草若ちゃんが朝に録画した落語見てるし。」
草若兄さん、と兄弟子を見ると、こちらが突っ込む前に兄弟子が慌てて手を振った。
「……いや、楽しんでんの、オレだけとちゃうで?」

――ともだちたくさん、うれし、い、な~~~~~!

ちなみに、この場にいる三人が三人とも、友人が多くいるタイプではない。
だいたい、落語の与太者たちの珍道中とは種類の異なる、映画が作られたバブルの時代の日本に蔓延していたカラ元気のような歌声を聞いていると、この年ではむしろ聞けば聞くほど疲れてくる。何を好き好んで、とは思うが、同じく中年に差し掛かっているはずの兄弟子も子どもも、その辺りはさっぱり気にならないらしい。
「だいたい、仕事するにも、テレビで何か流れてる方がええし……。」
「こんなん、僕らの仕事やないでしょう。」
仕事ていうか、ただの内職やないですか。
「四草、お前、今更何言うてんねん。」という兄弟子の手元には、セロテープの台と封筒に底抜けの文字が躍るステッカーの山。
「そうやで、コレ終わるまで手伝えて僕に言うたん、お父ちゃんやんか。」
子どもの利き手には、四代目徒然亭草若の名で作った篆刻印があり、僕の手元には、その印鑑が捺された一筆箋風の印刷物が積まれて行く。
本日の倉沢家に課せられた課題は、草若兄さんの書いた手紙のコピーに最近作ってもらったばかりのその印鑑を押して、乾いたものから封筒詰めをしていく簡単な(はずの)仕事である。
ちなみに、手紙の内容は、『四代目徒然亭草若の弟子になりたいなら、高校はちゃんと卒業して、保護者の許可取ってからまた来てな~♪』である。
草若兄さんが、オレんとこにも弟子志願者来ぃひんかなあなどとラジオで口を滑らせ、シーソーですらもう四人目やで、というしょうもない愚痴を全国ネットで展開してしまったせいで、いちいちサインを書いていては日が暮れるほどの数の弟子志願者からの道場破り的な「お便り」が集まってしまったのだった。
『僕を弟子にしてくれたら、底抜けに頑張ります!』
子のたまわく、辞は達するのみ。
天狗の事務所あてに続々と送られて来る手紙の三分の二は、十歳以下の弟子志願者で、もう一割は、僕の弟子になったらいいことありますよ、というこれまた頭の悪い十歳以下の師匠志願者だった。
兄弟子が腱鞘炎になるのを予防するため、署名代わりのハンコを買って、若狭が物販用に作った底抜けステッカーをビックリマンシール仕様にラメ加工の特注をして、確定申告用にその他の必要経費を合わせて雑費として計上しつつ、という多種多様な下準備を経ての今日の本番である。
封筒に貼る宛名シールも妹弟子に外注してタダで作らせたもので、そのシール貼りと捺印が終われば、後はすべての封筒に一筆箋とステッカーを詰めて封をして、切手を貼っていく仕事が待っている。
アニメの歌ではないが、落語のよいよいの道中とは違って、こちらもどんどん行こうと言う訳だ。
「ちゃっちゃと終わらせられんでも、僕はええけどな。」
大人の焦りをよそに、子どもは殆ど他人事である。
「そら、お前はそうやろな。」
草若兄さんに雇われている子どもにしてみれば、ぼろい商売やろう。
一時間働いて五百円の収入なら、落語会の手伝いよりも実入りがいい寸法だ。
なんとなれば、家での手仕事なので交通費も不要である。後は子どもがどこかで府の最低賃金を吹き込まれてこないのを祈るのみである。
ただ断りの手紙を印刷して送るだけの仕事とはいえ、夕方から始めて、精々夕飯が始まるまでには終わっているかと思えば、初動の段取りが悪かったせいもあって、食事を終えてもまだこれだけの量が残っていた。
この先二時間で終われば良し、終わらなければ、この内職は明日に持ち越しである。
「一日社長どころか、このままいったら三日天下と違いますか?」と嫌みを言うと、『今日はオレが一日社長さんやで~!』とさっきまで威勢の良かった男が、気まずいような顔をしてそっぽを向いた。
「お父ちゃん、それ三日天下の使い方、間違えてるで。」
わざとや、わざと。
あれだけ頻繁に休憩を入れていて、一時間や、二時間のことで終わるはずがないのである。
「まあ光秀かて、信長にこんなしょうもない仕事は任されてへんやろ。」
「僕かて、三日もこんな仕事にかまけておられへんよ。宿題は日曜にやるけど、土曜は僕、昼から友達と遊ぶ約束してんねん。」
「そうか。」
この場に雁首揃えた大人とは違い、それなりの友人がいないわけでもない子どもとたわいのない会話を続けているうちに、ブラウン管だった頃から馴染みのある、例のもこもこのぬいぐるみのような何かが画面で動いていた。
「あ、トトロ出て来た!」
子どもが浮かれた声を出すと、「ほんまや、作業ちょっと中断するか!」と反省だけなら猿の方がよくするのではないかと思われる不肖の兄弟子が言った。
「ちゃっちゃと手ェ動かさんと今日中に終わりませんよ。」と言うこちらの声はさっぱり聞こえてないようで。
僕はため息を吐きながら、自分の分の茶を入れるために立ち上がった。

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