星屑の雨、欠片の恋Ⅰ



「知ってますか、先生。自分が自分として生まれてくる確率は250兆分の1らしいです」
「……ほう」
 努めて振り返らぬよう、視線は机の上に広げた資料の上に。敢えてペンを休めることもしなかったが無下にもできず、逡巡した末に返答してしまう己の甘さにじわりと汗が浮いた。

 本日の最高気温、25度。外と比較すると建物内は意外に涼しいが、1限目を終え次の教室に向かう時には袖を捲りげていた。つい1ヶ月前は新たな年度の始まりに桜を見上げていたというのに季節は早くも夏の兆し。 
 ゴールデンウイークもあっという間に終わってしまった連休明けの今週はじめは見るからに覇気のない様子の生徒たちに活を入れつつ授業を進め、気づけば週中日。随分と引き締まってきた教室内の空気と顔つきに自らの背筋もいっそう伸びるというもの。講義にもついつい熱が入り、授業時間の50分など駆け抜ける早さで過ぎて行く。1週間があっという間なら1日はあっという間もない。
 6限目の授業を終え戻ってきた準備室の籠る熱気にまだまだ語り足りない思いが重なった。だがまあ少し埃っぽいかと窓を開け舞い込んできた清風に肩の張りをほぐされ腰を下ろすと、一呼吸おいて「さて」とペンを持った。
 それからほどなくしてやって来たのがこの少年、2年の竈門炭治郎だった。
「先生、今日はお誕生日でしたよね」
「ああ、一応。そうだな」
「もうたくさん言われたかと思いますけど、お誕生日おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
 提出物の回収もありがとう。気をつけて帰るんだぞ。
 たったのそれだけでいい。しかしなかなか音にならず、退出の促しが俺の喉元を抜け出るよりも一足早かった少年の言葉が室内を満たした。
「250兆分の1の命の奇跡と、500兆分の1の出会いの奇跡と、今日が日直だった強運のおかげで俺はこうして先生におめでとうが伝えられてすごく嬉しいです」
「竈門少年、」
「先生!」
「……なんだ?」
「もちろん煉獄先生に限らずここで出会ったみんなとの巡り合わせも大事に思ってます。でもやっぱり、これが一番大事だなって思っちゃったので」
 ふわりと笑った少年の、胸の前で握りしめられた拳を目で追っている自分に気がついてはっとする。自分はいつの間に振り返っていたのだろうか。手にしていたはずのペンも置いて来てしまっていた。
「それじゃあ先生失礼します。今日も楽しい授業をありがとうございました!」
「あ、ああ、気をつけて帰るんだぞ」
「はい!」
 ビシリと行儀良くお辞儀をして去って行った少年を追いかけるように風が吹き抜けた。ついでに襟足を撫でていった風がさっきよりも冷たく感じるのは、じっとりと肌に纏う汗のせいだろうか。
 生徒に対し緊張を感じていることへの戸惑いと、やっと言えた見送りの言葉にも何故か釈然としない気持ちを抱えたまま机の方へと向き直る。
 この間はなんだったか。
『先生知ってますか? 宇宙線って星の爆発によってできるらしいです』
 そうそう、宇宙線と星の話だった。それも唐突に始まったものだからその時も今日と同じように返していたと思う。
『星は自分自身の重力に耐え切れなくなると爆発して死んでしまうそうです。その爆発で弾け飛んだ粒子が宇宙線と呼ばれるもので、死んでいった星たちの欠片なんだって。目には見えないだけで地球にも毎日降り注いでいるらしいです。空に見える星の光は何万年も前の光なんですよね? 俺たちが見ている光は、もしかしたら死んでしまった星の光かもしれないってことですよね?』
 不思議だと呟く少年の方が俺には不思議に思えて仕方なかった。
『まあ俺は煉獄先生の笑顔で毎日爆発してるのでもう何回死んでるかわからないんですけど』
 最後はそう締めくくり、俺が面食らっている間に失礼しましたと笑顔で去って行った。
 彼はここへ来るたび、そうやって何かしら言い残して去って行く。けれども決して「好き」という言葉を使わない。だから俺も「その気持ちには応えられない」という常套句を使えない。そもそもそれ自体俺の自意識過剰かもしれないと思うと尚更聞くに徹するになってしまう。
 まだほんの数回だが、この不思議な応酬はいつからだろう。

──それじゃあこれは、恋の一部なんでしょうか。

 思い当たるとしたら、おそらくあの日だ。
 提出物の回収や教材運びの手伝いを頼むのはそう毎回あるものでもないが、必要に応じて日直の生徒に頼むことにしている。その日はちょうど授業ノートの提出日で、日直に当たっていた竈門少年に回収を頼んだ。帰りのホームルーム終了後に準備室まで持って来てくれた少年は珍しくその場に留まり、恋ってどんなものだと思いますかと静かに聞いて来たのだ。
 そんなような質問を興味本位で投げかけられることには正直慣れていたし、特に恋愛絡みに関しては下手に答えないのが一番だということもこれまでの経験で心得ていた。優等生の鏡のような彼がそんなことを聞いてくるとは思いもよらず驚いたがいつものように、あいにく授業に関係のない質問は受け付けていないのだと他の生徒と同じように対応するつもりだった。そうしなければならなかった。
『気づけばその人の事ばかり考えている、というのはよく聞くが……必ずしもそれが恋といえるのかどうかまでは俺には答えられない』
 俺からの返答をじっと息を潜め待ちながら見返してくる瞳があまりにも真摯で純粋な色をしていたから。恋をうたった和歌についてなら多少なりとも知識はあるが恋そのものに関しては分からないと、真面目に返してしまっていた。
 あの時少年は、俺を映す瞳をひとつふたつと瞬かせたあと小さく呟き、胸の前に持っていった拳を大事そうにみつめていた。
 さっきの“これ”は、あの日の“これ”と同じものを指していたのだろうか。
 星の爆発の話からなぜ少年の爆発の話になったのだろう。そもそも何がそんなに何度も爆発したのだろう。
 授業中、語りに熱が入りすぎて課題プリントを回収し損ない、日直の生徒に頼んだら竈門少年で、たまたま自分の誕生日だった。これもいわゆる巡り合わせというやつなのだろうか。
 もう誕生日を心待ちにするような歳でもなければ騒ぐような歳でもないというのに、むず痒いこの感覚はなんなのだろう。
「……まいった」
 気を取りなおすつもりがすっかり思考に囚われ、持ち直したペンで何を書こうとしていたのかど忘れした挙句、無意識に書いていたらしい“25”と“0”の羅列に頭を抱えた。
 いっそシンプルに好きだと言ってくれたら。
「いやいやいや……」
 そうじゃないだろう。
 自分自身に突っ込み深々と溜息を吐き出した。
 春嵐のような少年が去って行った後にやってきたのは春も初夏も飛び越え、じりじりと焼けつくような真夏。そういえば今日は夏日になると言っていたのではなかったか。背中を炙られているようなこの熱も、きっとこの暑さのせいだ。
 そうに違いないと全開に開け放った窓からの吹き込みでプリントが宙を舞う。束の影に隠し置かれていたらしい飴らしき小さな包みを見つけて思わずこぼした呻きは、バラバラと舞い落ちる紙吹雪に紛れた。

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