あの日の前屈みの理由をメルメルは知らない

 ちわ〜っす、天城燐音くんでェす! 職業はアイドル屋さん! よろしくお願いしまァす!
 いやァちょっと緊張するっつーか、なんか恥ずかしいっすねェ。ドーゾお手柔らかに。



 これは俺っちが二十一だった頃の話。
 『MDM』で暴れたせいで干されて暇を持て余しまくってた夏が過ぎ、【ホットリミット】が盛況に終わった頃合だっただろうか。細々とだけれど『Crazy:B』にもアイドルらしい仕事が入ってくるようになって、メンバー間の空気もまァ特別良くはないが悪くもない、例えるなら赤ん坊の首がようやく据わってきたかなみたいな状態。最初の頃と比べれば気持ちの余裕も随分できた。
 俺っち達は四人ユニットだけど、仕事の時は俺っちとニキ、こはくちゃんとメルメルでニコイチ、と目されることが多かったように思う。現にその日、『ユニット』結成から三ヶ月ほど経つ頃に初めて、俺っちとメルメルはふたりだけで仕事に臨んだ。妙な心地だった。
 『Crazy:B』のダブルセンター。スキル面でもビジュアル面でも、俺っちとあいつとは対照的ながらも拮抗していた。ソロ時代から積み上げてきた確かな実力がある。真ん中に並べば視線を総取りできる。
「──雨が降りそうな空模様ですね」
 ロケーション撮影は先に終えてあった。数時間スタジオに篭りっきりだった俺っち達の誰も、天候の急変に気づいていなかった。
「お〜ほんとだ、やばそう。車出そうか?」
「イエイエ! そこまで甘えるわけにはいかねェっすから」
 寮まで送るというスタッフの提案を丁重に‪お断りした。星奏館までは歩いて十分程度の距離だし、今すぐここを出れば本降りになる前に着けるはず。
「ンじゃ、今日はありざした! またお願いしまァす☆」
「──ありがとうございました。またよろしくお願いします」
 新人らしい元気な挨拶を残し、俺っち達は連れ立ってスタジオを出た。

 俺らいい仕事したンじゃね? とかあなたは黙ってカメラを見つめている時だけは男前ですね、とか軽口を叩き合いつつ三分ほど歩いたあたりで、舗道が斑に色を変えはじめた。Tシャツから突き出た剥き出しの腕に雨粒が当たった。重、と思った。
 ばしゃあ、と大量の水が地面に叩き付けられる音。嘘だろ、と叫ぶ声も往来のさざめきも、すべてがかき消えた。ひどいゲリラ豪雨だった。俺っちとメルメルは路地に駆け込み、どこかの店の裏口の、突き出た庇の下に身を寄せた。
「ぐわ〜〜最悪っ、もう降ンのかよ!」
「当てが外れましたね。通り雨が行き過ぎるまでスタジオで待った方が利口だったかもしれません」
「過ぎたことを言ってもしょうがねェ。こうなりゃ天命を受け入れるしかねェっしょ」
「ふう……仕方ないですね。しばらくここで雨宿りしましょうか」
 濡れ鼠と言うには男前過ぎる彼が、重たそうな前髪をかき上げながら言った。水分を含んで身体に張り付いた白いシャツを鬱陶しそうに剥がし、雑巾みたいにぎゅうと搾るところを見ていた。薄い腹が、飛び出た腰骨が、薄暗がりの中でしっとりと濡れて光って、俺っちを誘惑した。耐えられずに生唾を飲んだ。クソ喧しい雨音に初めて感謝した。
 彼をこんな風に意識したことはなかった。作りものみたいに綺麗な奴。完璧で、潔癖。たまにちょっと不安定で、放っておけない。そんな男相手に、この時俺っちは間違いなく欲情していたのだった。同じ『ユニット』の、同性に。
 このままここにいたらまずい。隣の男から距離を取り、用事を思い出したとでも言って先に帰ればいい。咄嗟にそう考えた。しかし俺っちは気付いた。
「……ん? おまえジャケットは?」
「あ。あれ? ……スタジオに……」
「忘れたのかよ。ドジっ子か」
「黙るか死ね」
 辛辣な言葉を吐いた唇は色を失って震えていた。つい先日まで夏の気配はすぐ傍にあったのに、冷たい雨は陽光だけでなく体温まで奪っていった。
「……」
 こいつをひとり置いて帰れと? ンなことできるか。いやでも俺っちはおめェにムラムラしてンだぜ? 一緒にいる方が危ねェっしょ。いやいやでも。
 ぐるぐるぐると考えて、考えた結果俺っちは、メルメルとの距離を更に、詰めた。というかくっついた。ぺたり。濡れた肌同士が隙間なく触れ合った。ぺたり。自分の体温を移すつもりで、後ろから腕を回して抱き締めたのだ。
 メルメルは動かなかった。
「……」
「……」
「ちょっとはましンなったかよ?」
「……寒い」
「ん〜、だよなァ……」
「あたたかいところに行きたい」
「つってもこの雨じゃあな」
「……」
 知っていた。俺っち達が駆け込んだ路地の庇のその向こう、どんよりと厚い雲の下でも霞むことなく煌々と照り続ける、ピンクや紫の『休憩三時間四八〇〇円』の存在を。そう、ここを一歩抜ければ広がるはホテル街──愛欲とスキャンダルの巣窟である。

 何故。
 なにゆえにあの時俺っちは、「ホテル行こうぜ」のひと言が言えなかったのだろう。黙って身を委ねていたメルメルは数分もすればケロッとして、震えていたのが嘘のように平然と歩いて「HiMERUはスタジオへ戻ります。お疲れさまでした」と言ってのけた。その頃には雨も去っていた。過ぎてしまえばなんてことのない、晩夏の通り雨。誰の心にも残らないはずのありふれた数分は、俺っちの心に〝言えなかった〟という後悔の楔を残していったのだった。
 もし言えていたなら──何か、変わってたンかなァ。



「『やれた』」
「『やれた』」
「『やれたとは言えない』」
 三人の審査員が迷わず札を上げる。右手の札を大きく掲げたこはくちゃんが事務的に告げた。
「『やれた』二票っちことで……天城燐音はんの話、やれたと認定します」
「や、やれたかァ〜……」
 俺っちは演説台に肘をつき、目頭を押さえた。誰にも言えなかったあの日のこと。真剣に聞いて、そして認めてくれた。俺っちの後悔を。ニキが続ける。
「やれたかもしれない夜は人生の宝っす」
「せや、後生大事にしたれよ」
「それじゃ『やれたかも委員会 Crazy:B編』はこれにて閉会ってことでえ……痛っ!」
 ぼこん。『やれたとは言えない』の札の一閃でニキの後頭部をノックしたメルメルは、悪ふざけに興じる俺っち達を呆れ顔で見回す。思い出の中の彼より幾分ツンケンしているのは気のせいだと思うことにした。
「HiMERUをダシに盛り上がるのやめてくださいよ最悪ですねあんたら」
 あ、キレてる。控室で待機する間の暇潰しに始めたお遊びだったが、奴にとっては汚点を暴露された形になったらしい。
「HiMERUはんは『やれたとは言えない』やけどなんでなん? 知りたい」
 こはくちゃんが尚も臆することなく尋ねる。俺っちも知りたい。じっと見つめるとメルメルは観念して白状した。
「ああもう……あの時やってたら今『Crazy:B』は無いかもしれないのですよ。いつ誰に撮られるかわからないのですから、自覚を持ってくださいね、あなた達も。話は終わりですか? HiMERUは先にスタジオに入ります」
 早口でそう言ったメルメルは、さっと立ち上がり控室を出て行ってしまった。残された俺っち達三人は顔を見合わせる。
「あれは……拒絶やあらへんな」
「ちょっと照れた顔してたっす」
「つまり……」

「『やれる』」

 書き換えようのないやれたかもしれない夜を乗り越えて、俺っちは近々掴むのだ、『やれた夜』を。





(やれたかも委員会オマージュ、燐ひめ欲祭りによせて)

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