排他的エゴイズム、その帰結

 なんてことはない、いつもの睦言の延長線上の、本当になんてことのない感傷から出た言葉だった。
「あんた、俺じゃないと駄目なんだよ」
 音になったのはこれだけ。殆ど主語と述語だけの、文章とすら呼べないワンフレーズ。それでも天城燐音は、時々そのせいで生き辛いのではないかと感じることすらあるくらいに聡いこの男は、たった数秒でこちらが端折った修辞を補完して、咀嚼して、嚥下したらしい。少しの間面食らったように目を瞠って動きを止めていたものの、すぐに声を上げて笑いだした。いつもの下品で耳障りな笑い声ではない、およそ彼には似つかわしくない純粋で無邪気なそれ。何がそんなにおかしいのか眦に涙まで浮かべて、腹を抱えて背中を丸めて。一頻り笑ったかと思えば今度はすうとその目を眇めて言うのだ、こちらが恥ずかしくなるくらい甘ったるい声で。
「何それ、プロポーズ?」
「……は?」
 思いもよらない単語に今度はHiMERUが面食らってしまった。
 ――プロポーズ。プロポーズ? そのつもりで言ったわけではない、というかむしろなんのつもりでもなかったのだが。
「そう……かもしれません」
「ぶっは! マジ?」
「あなたがそう思うならそうなんじゃないですか」
「テキト〜だなおい。ンな雑なカンジで将来の約束取り付けられちゃうの俺っち? 幸せにしてくれるンじゃねェの?」
「そこまで言ってないだろ」
「ギャハハ! 照れンなよ」
「じゃあ逆に聞きますけど、」
 言いながらベッドの上に正座をして向き直った。それを認めた相手も慌てて居住まいを正す。時刻は午前二時、カーテンの隙間から細く差し込む月明かりだけが光源の暗い寝室で、パンツ一丁のでかい男がふたり揃って正座して、ベッドの上で向き合っている。傍から見れば大層滑稽な絵面だろうが正面から見た燐音は至って真面目な顔をして、どこか緊張感すら漂わせていた。深く静かな海のようにもどこまでも高く澄んだ空のようにも見える碧い瞳がとても綺麗だと、場違いにもHiMERUは思った。
「……何」
「逆に、あんたみたいな粗大ゴミを引き取ってくれる奇特な人間が他にいるとでも?」
「あっひでェの〜」
「野放しにしておくとうっかり法を犯したりもしそうですし、誰かが首輪をつけて見張っておかないと」
「信用ねーなァ」
「――こういう関係になって、四年でしたっけ。五年?」
「四年と十一ヶ月だよ。あ〜あ、始めの頃はおめェがこんないい加減な奴だとは思わなかったっしょ」
「……。そういえばあなたは記念日とかを気にするタイプでしたね、無駄に。意外と女々し……失礼、マメですよね」
「おっ、喧嘩か? 買うぜェ?」
「ちが、やかましい……絡んでくるなっ、ぐえ」
 腕で首を引き寄せられるまま、重力に逆らわず布団へ倒れ込む。一緒になって倒れた彼の愉快そうな顔がすぐ目の前にあった。
「――あなたみたいな人が、今更、HiMERU以外と幸せになろうだなんて思わないでくださいよ」
「……なあ」
 密やかな呼び掛けに合わせて手が伸びてくる。存外几帳面に整えられた爪の先がこめかみを擽る。そうだ、忘れがちだが元々こういう性格なのだ、この男は。その掌に頬を擦り寄せ、次の言葉を待った。
「俺は、おまえの言葉で聞きたいよ。要」
 狡いと、思う。この賢しい男は、いつでも欲しい時に欲しい言葉をくれる。HiMERUを甘やかすことにかけては地球上の誰と競ったとしてもきっとぶっちぎりで、堂々の優勝だろう。何故か。愛しているからなのだろう、燐音が、HiMERUを。そっと目蓋を閉じる。
 ――違う。本当は自分は答えを知っている。そう、彼は五年前から今も変わらず、嘘で塗り固められた堅牢な鎧ごと十条要という人間を愛しているのだということを、とっくに知ってしまっているのだった。それは目を逸らしようのない事実で、視線で声で体温でじわじわと時間をかけて注がれる、愛とも毒ともつかないそいつが無くてはもう生きてもいけないことに、思い至るのが恐ろしかった。
「……好き、」
「……うん」
「あんたを幸せにしてやれるのは俺くらいのもんですから」
「おー、大層な自信だこと」
「そういうところが好きな癖に」
「言うようになったなァおまえも、御明察だよ名探偵? ……しっかしまァ」
 燐音は腕で顔を覆ってまた笑いだした。今度はくつくつと喉を鳴らしてひっそりと、噛み締めるように。
「とんでもねえプロポーズしてくれやがったなおまえ、ムードもへったくれもありゃしねェ」
 しかし笑いながら告げられたそんな言葉にHiMERUはむっとして眉を寄せた。確かに自分たちは事後でパンイチだが、先の告白には誠意を込めたつもりなのだ。何は無くとも情はある。
「……文句があるなら取り下げますが」
「はは、違ェよそうじゃねェ、こう見えて男前なんだよなァおまえは。いつだって俺っちの思い通りに動いちゃくれねェ、ほんと初対面の頃から危なっかしくて目が離せなくてさ……今もこうして狂わされっぱなしってワケだ、俺っちの完璧な計画がな」
「計画?」
「そ、計画」
 ぴっ、と人差し指を立てた燐音が端末を操作してカレンダーを表示させた。ブルーライトが暗闇に慣れた網膜を容赦なく焼いて思わず顔を顰める。指先で示された日にちには『決戦』の二文字が躍っていた。
「――なんですかこれは。『決戦は金曜日』?」
「よく見ろ木曜日っしょ。記念日だよ、付き合って五年の」
「ああ……?」
「おまっ……ホントに関心ねェのな⁉」
「要領を得ませんね……つまり何が言いたいのですか」
 せっかちさんねェメルメルは〜、などと気色の悪い猫撫で声を出すので脛を蹴ってやった。勿体ぶらずに早く話せと視線で促す。彼はごほん、とひとつ咳払いをして。
「つまりィ、その〜……この日にホテルの部屋を取っていマス」
「はあ」
「小洒落たレストランでコース料理を予約していマス」
「ふむ」
「全部言わせンのかよ……。俺っち的にはね? この日にサプライズでプロポーズしようと思ってたの! つうか決めてたの! それをたった今おめェにぶち壊されたってワケ、ドゥユーアンダスタン?」
「ああ……成程」
 燐音はもうヤケクソと言っていい態度だった。そうだ、こいつは行き当たりばったりのように見えてその実用意周到な男なのだ。練った計画を乱されるのが気に食わないというのは理解できる。しかしHiMERUには彼がそこまで自棄になる理由がわからなかった。だって。
「別に……良いんじゃないですか、何も特別なことをしなくたって。自宅でパンイチでも、気持ちは本物だし」
「わかってないねェ〜〜〜〜〜〜要くんは」
「はい?」
 やけに癪に障る物言いだ。ふいと視線を逸らそうとしたが、がっしりと両手で頬を包まれることでそれを阻まれた。仕方なく燐音の顔を見やれば、そいつはふうわりと穏やかに微笑んでいて不覚にも目を奪われた。碧の双眸が愛おしげに細められる。
「特別にしてえんだよ、俺が。おまえの一生モノになりてえの。駄目?」
「だ……っめじゃ、」
 ない、と言おうとした言葉尻は合わさった唇に吸い込まれた。反射的に閉じてしまった目を開ければ、つい先程までの凪いだ水面のような静けさから一転、その瞳は獰猛にぎらついていてHiMERUは喉を引き攣らせた。
「なーんかヤる気出ちまった、もういっぺん抱かせろ♡」
 ごり、と無遠慮に押し付けられる下半身の熱から逃れることを諦め、ひとつため息をつくと肯定の代わりに黙って脚を絡めた。



 約束の日。燐音に言わせれば『決戦』の日だ。
 待ち合わせ場所に指定された高級ホテルに早めに着いたHiMERUは、ロビーラウンジで紅茶を啜りながら待ち人が到着するまでの時間を過ごしていた。セットのケーキは苺のミルフィーユにした。香り高いダージリンの芳香を胸いっぱいに吸い込み、ミルフィーユを慎重に倒してからナイフを入れていく。さくさくと小気味よい音を立ててパイ生地を切り分ける瞬間は至福だ。カスタードクリームは口当たり滑らかで甘さも丁度良い。自分は売れっ子であるからスケジュールの調整には難儀したが、その甲斐があったようだ。これは幸先の良い休日のスタートである。
 最後に残しておいたトップの苺をぷすりとフォークで刺す。存在感があり大粒で艶やか、その味を想像するだけで口内に唾液が溢れてくる。真っ赤な果実を持ち上げるとずしりと重みがある、こくりと喉を鳴らしてから口元へと運んだ矢先。
「ウソ、燐音くんじゃない……?」
「人気アイドルが真っ昼間にこんな所にいるわけ……天城燐音だ」
「えっ何の撮影?」
 不意にそんなざわめきがHiMERUの耳に飛び込んだ。フォークからするりと逃げた苺がスローモーションのように落下していく様を、ぽかんと口を開けたままただただ見守る。絨毯の上をころころと転がり、止まった先に大きなドレスシューズのつま先。まさかと思いつつゆっくりと顔を上げ、そして目を覆った。前言撤回である――まだ始まったばかりの休日は、たった今非常に幸先が悪くなった。
「よォ、間抜け面がキュートなダーリン、待った?」
「待っ……てないです、HiMERUの苺……じゃなくて、燐音‼」
 悠々とロビーに姿を現した燐音は、どういうわけか正装に身を包んでいた。サングラスで目元を隠してはいるが、緋色の髪とのコントラストが鮮烈なダークブルーのイタリアスーツを纏うことで持ち前の華やかさとスタイルの良さがより一層際立ち、更には小脇に抱えた真っ赤な薔薇の花束がやたらと目を引く。派手な衣装にも小道具にも引けを取らない端麗な容姿には感服するが、そういうことではない。こいつには芸能人の自覚があるのか。
「あなた馬鹿じゃないですか? 馬鹿だろ⁉ 恥ずかしいからやめろ‼」
「むしろおめェが普通じゃね? いつも通りじゃん、これからプロポーズされるってのによォ」
「俺は目立ちたくないので‼」
「だァいじょぶだって、皆何かの撮影だと思ってるっしょ。堂々としてりゃ邪魔されねェよ」
 そう言って男は長い脚を投げ出して向かいに着席するとHiMERUの変装用の女優帽をくるくると弄びながらウエイターを呼び、「こいつと同じやつ」と一言告げた。サングラスをちょいと傾けて、こちらへ向かって悪戯っぽく片目をつむって見せる。
「苺、悪かったな。新しいのやるから機嫌直してくんねェ?」
 そこじゃない、と頭を抱えた(苺はしっかり貰っておいた)。



 予め取っておいたという部屋に着いて広いソファへ腰掛けるとようやく人心地ついて、HiMERUはだらりと全身の力を抜いて深く深く息を吐き出した。
「はあ~……無駄に疲れた」
「お疲れさん。ディナーは?」
「美味しかったです。ご馳走様でした」
「そりゃ結構」
 最上階のレストランでいただいたフレンチは評判に違わず素晴らしかった。食に対しての拘りは比較的薄い部類だと思うが、今宵のディナーはHiMERUの目も舌も存分に楽しませてくれた。
 柔らかなソファに沈んでいると段々と目蓋が重くなってくる。心地よい微睡みに包まれたのも束の間、隣にどかりと燐音が座ってきたので慌ててかぶりを振って浮遊していた意識を引き戻した。
「寝ちまうの?」
「寝ませんよ、流石に。そこまでデリカシーが無いと思われているなら心外です」
「なら良いけど。疲れてンだなァと思って」
 背もたれになってくれると言うので、せっかくだからと甘えさせて貰うことにした。股の間に座らされ背後から抱き込まれると、すっかり身に馴染んだ体温をシャツ越しに感じてついつい気が緩んでしまう。
「――今日は、やたらとめかし込んで来たので驚きました。変に注目を浴びるし。疲れたのはそのせいです」
「誰かさんのせいでサプライズじゃなくなっちまったからなァ、どうせなら派手にやってやろうかと思って。俺っち格好良かったっしょ?」
「それはすみませんでしたね。目立つし恥ずかしいからやめろと言いました」
「そいつァ『HiMERU』の言い分だよなァ。俺っちの要くん的にはどーなのよ」
「……」
「かーなーめ」
「……格好良かったですよ。世界で二番目にね」
「へいへい、おめェの一番は『HiMERU』だもんなァ? 二番目でも光栄デス」
「それと、」
 昼間驚かされたから、これはちょっとした意趣返しだ。伝えたらどんな顔をするだろう。
「〝あなたの要くん〟的には、本当はその姿を俺以外の誰にも見せてほしくなかった、です。だって、〝俺の燐音〟でしょう?」
 そっと肩越しに様子を窺う。男は苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙っていた。思っていたのと違う反応だ。たっぷりの間を挟み、ため息。次いで肩にのしっと重みを感じる。ほんのり甘く色気のあるラストノートも。
「お・ま・え・は・もお〜〜〜〜〜」
 残り僅かな歯磨き粉を握力でぎりぎり絞り出したみたいな声だった。
「……なんですか」
「おかしくね? 今日は俺っちがカッコつける予定だったンだけど……? 彼氏を立ててやろうとかちょっとは思わないのかねェ」
「生憎そんな義理はありませんので」
「義理じゃなくて思いやりっつーんだよ、クソガキ」
 ぎゅうと腹に回された両腕に力が込められる。きつく抱き締められて身動きが取れずにいるのを良いことに、彼は赤い頭をぐりぐりと押し付けてきた。乱れた髪の隙間から覗く耳が朱に染まっているのは、気のせいではない、はずだ。
「おめェのそーいうとこ、まァじで鼻につくわ。ほんっと可愛くねー」
 そんなことをぼやきながら、しかし台詞にそぐわぬ丁寧な手付きで、燐音はHiMERUが身に着けているアクセサリーをひとつひとつ取り去っていく。リング、バングル、ネックレス。耳元でがちんと音がしたかと思えばイヤーカフに噛み付かれていて、そのまま歯を使って器用に外された。一瞬だけ耳朶に触れて離れていった唇の熱が余韻となって頭をぼうっとさせる。
「ちょっとだけ、黙って聞いてくんね?」
 耳元に低い囁きが落とされる。この声は知っている。彼が自分をとびきり甘やかして駄目にしてしまいたいと思っている時のものだ。
「……は、い」
「ん、ありがとな。……あのな、俺、死ぬまで幸せになんかなれないと思ってた」
「……」
「おまえとこうなってからもどっか安心できねェでさ。悪夢を見ちゃあ飛び起きて、周りの奴ら全員俺のこと恨んでるンじゃねェかって思ったりして。人の視線を刃物みてェに感じて逃げたくなったことも何度もある」
「……うん」
「おまえのことも。いつ愛想尽かされちまうンだろ、いつまで俺の手の届く所にいてくれるンだろって、いつも怖ェンだよ、情けねェだろ。だからカッコつけンのに必死なのよ、俺。でももうやめた」
 もぞ、とうなじに鼻先を埋めた燐音が身じろぐ。気づけばその大きな掌に小箱がひとつ載せられていた。手品みたいだ、と目を瞬かせるHiMERUに彼は眉を下げて薄く笑った。珍しい表情だ。
「――燐音、」
「おう。言われた通り俺は女々しかったよ、おまえの方がよっぽど腹ァ決まってるもん、あの夜にそう思った。格好良いよ、本当に。これ以上ねェくらい惚れてるってのに、まだ上があるなんて一体俺をどうしたいの、ってな」
 言いながら小箱を開けた燐音はそこに収まっていたシンプルなシルバーリングを指先で摘み上げた。オレンジの間接照明を反射してきらりと光るそれは潔いほど飾り気がないのに、王妃の首飾りよりももっとずっと貴いもののように思われた。
「そんで思ったンだよなァ、……やっぱり俺、おまえじゃねえと駄目だわ。ダサくても無様でも良いから、今日はちゃんとそれを伝えようと思ってさ」
 ちゅ、と音を立ててリングに口付けてから、まるで信仰対象にするかのように恭しい触れ方で、彼はこちらの左手を取った。ひんやりとした金属の輪が薬指の関節をひとつ、ふたつ跨ぎ、やがて根元へ収まった。
「お、ぴったり〜☆ メルメルが寝てる間にこっそり測った甲斐があったぜ」
「あんたって人は勝手に何を……」
 身体ごと振り向いて向き合ったその表情は見慣れたものに戻っていた。さっきの具合で延々と話し掛けられたら調子が狂いそうだったから、この方がいい。
「指輪……ありがとうございます」
「ん。――おまえは綺麗だな、俺なんかには勿体ないくらいだ」
「あんたが自分を卑下するとパートナーの俺の価値まで下がるでしょう。今後はそういうの禁止。俺と並ぶつもりならいつでも毅然としていなさい」
「はいはい、怖い嫁さんだねェ」
 おどけた言い回しに顔を見合わせてふたりして吹き出して、縺れるようにソファに倒れ込んでまた笑って、どちらからともなく唇を寄せた。「まあ、」とまたのんびりと燐音が言う。
「俺のことはおまえが幸せにしてくれるみてェだし、おまえがいるなら俺も勝手に幸せになるから、俺が幸せだって叫びたい時にはいつもおまえが隣にいてくれよ。俺の望みはそんだけ。随分落ち着いたと思わねえ?」



「だあれが、落ち着いたって……?」
 朝。あちこちの痛みと汗やら何かの液体やらが身体中に纒わり付く不快感によって目を覚ましたHiMERUは、開口一番に地の底を這うような声で呪詛を吐いた。本当に落ち着いている奴は一晩に四回もセックスなどしない。
 はじめはあまりに焦れったい抱き方をするものだから、こちらから強請って挿入させた。そうしたら散々焦らされた身体はめちゃくちゃに感じてしまって、こちらはすぐに果てたけれど向こうはそうもいかなくて、付き合わされているうち殆どの体力を持っていかれた。二度目で騎乗位をせがまれて、酒も入っていたし勢いで承諾したのが運の尽きだった。奥まで入ってしまうから本来は苦手な体位なのに、売り言葉に買い言葉で負けず嫌いに火をつけられてしまってからは、足腰が立たなくなるまで動くように仕向けられたのだった。下から深いところを突き上げられて中でイくのが止まらなくて、気が狂うかと思った。三度目はバックで乱暴にがっつかれて、多分「無理」とか「死ぬ」とか言って泣き喚いたような気がする。今声が嗄れているのは恐らくそのせい。四度目に関してはほぼ記憶がない。
 シャワーを浴びるべく掛け布団を押し退けて、床に足を着く直前に何気なく振り返ってまだ眠っている恋人を見やった。穏やかと形容するほかない寝顔は、この世にはうつくしいものばかりが溢れていると信じて疑わない幼子のようだ。ふっと微笑むとなだらかな額にかかった前髪をそっと払い、そこにキスを贈った。セットされていない髪が見かけほどちくちくしないところが好きだと思った。
 シャワーノズルを掴んだ左手の、普段は指輪を嵌めない指に光る銀色の煌めきを捉えて、そういえば、と慌ててそれを引き抜いた。
「……なにこれ」
 何も無いはずの薬指の根元には、どこからどう見ても指輪の跡ではない赤い線が刻まれていた。じっと見つめているとじわじわと昨晩の記憶が蘇ってくる。甘さを伴う、ぴりりとした痛み。そう、確かしつこくここに歯を立てられたのだった。どうして忘れていられたのだろう、今にも泣き出しそうな顔で切羽詰まったように「好き」だの「愛してる」だの零しながら歯型を残していったあのいじらしい男を、今すぐに抱き締めてやらなければならない。
 HiMERUは自らの薬指をしげしげと眺めたあと、溢れる涙がシャワーで流れ去ってしまうのを良いことに、ひっそりと少しだけ泣いた。

powered by 小説執筆ツール「notes」