三文オペラの顛末

※『俺とおまえじゃたかだかソープオペラ』の続きものです
※HiMERUがバツイチ





 俺はエスパーでもなんでもないわけだから、何事も言葉にしなきゃ伝わらない。当たり前だ、他人同士なのだし。ああ勿論、わかってる。でもどうしても言わせてほしい。

 なァおい、なんつー晴れ晴れした顔してンだよ。ひとの気も知らねェで。

「ただいま」
 その佇まいと言ったらあまりにも堂々としていて、ここが俺の家だということすら疑わしくなるほどで。綺麗な顔を赤く腫らし、そのくせ憑き物が落ちたみたいにすっきりとした表情の要と相対していると、わけもなく居心地が悪くなる。
「おう、おかえり……大丈夫かよ」
 俺は緊張の面持ちで奴を出迎えたのだったが、その姿を見るなりなんだか拍子抜けしてしまって。腕で顔を覆い、玄関の壁に沿うようにずりずりとしゃがみ込んだ。
「──こちらの台詞ですが」
「情けねェ……」
 だって元嫁に会いに行くとか言うから。ちゃんとここに帰ってくンのかって不安になるのは無理もないことだろう。人でなしのおめェにはわかんねェだろうけどな。
 腕をずらして見上げたそいつは、小さくなって蹲る俺を呆れた顔してただ眺めていた。



 おかしなふたり暮らしが始まってからひと月ほど。依然俺達は、互いにとってなんでもない存在でいることを選んでいる。
「痛むか?」
 ベッドに腰を下ろした要の足元に片膝をつき、そっと手を伸ばして、触れる。打たれた左頬の赤みと元々白い肌とのコントラストが際立ち、やたらと痛々しい。要は目を合わせようとはしなかった。
「まあ、それなりに。でも心配要りませんよ」
 俺の顔を傷付けられたところで何ら問題ありません、もう|商品《アイドル》ではありませんので──なんて、無感情に言い切ってみせる。何故か言われた俺の方が傷付いた。
「てめェなァ……もっと自分を大事にしやがれよ」
「ふふ。覚えておきましょう」
 どうだか。この男は、アイドルではない自分に──すなわち『十条要』に無頓着すぎる。それが俺には、時々しんどい。『十条要』というひとりの人間を好きになった俺にとっては。
「嫁さんにやられたの?」
「お義父さんに……ああ、『元』ですが。相当お怒りでしたねあれは」
「そのようで」
 要が〝元嫁と会って話をつけてくる、向こうのご両親も一緒だ〟と言うのを聞いて、ただで済むはずがないと思っていたのだ。何しろ今回の離婚は百パー要側に原因があるということに(表向きには)なっているのだから。
「なんて言ったンだよ」
「〝俺は多忙の身ですので、裁判に持ち込まれると面倒です。いくら必要か仰ってくだされば全額この場でお支払いしましょう〟と、一字一句違わず」
「んん〜? 逆によくその程度で済んだねおまえ? 愛娘にンなこと言われたら俺っちぶち殺しちまうかも」
「そういうものでしょうか」
「そういうもんかは知らねェけどすんげェ~腹立ったもん今の」
 ま、おめェらしいけどな。人でなしのクソ合理主義者。嫁さんに愛想尽かされンのも当然だ。自業自得。因果応報。ざまあみろバーカ。
 やきもきさせられた腹いせに心の中で罵詈雑言をぶつけまくってやる。でないと落ち着いていられなかったのだ。
「平手だったのが不幸中の幸いでしたね。グーだったら骨がいっちゃってたかもしれませんし」
「……ヨカッタネ」
 ンなことは重要じゃねェんだよ、べつに。やっぱりと言うかなんと言うか、ひとりおめェの帰りを待ってた俺の気持ちなんて少しも考えちゃくれない。あ~も~マジで腹立ってきた。
「ったく、俺っちがどれだけ不安だったと……、あ」
「え?」
「いや、今のナシ」
 やべ〜〜口に出しちまってた。絶対言うつもりなかったのに。
 現状あいつと俺はただの同居人で仕事仲間で、それ以上でも以下でもない。余計なひと言のせいで重い男と思われては心外だ。
「不安になったりとかしてねェから、ほんと、全然。不安になる理由もねェし」
 はっとして訂正したところで、無かったことにしてくれるような生易しい相手じゃない。狼狽える俺を要は「ふん」と鼻で笑い、それから、帰宅した時と同じ晴れやかな笑みを浮かべたのだ。
「だから急いで片付けて来たのでしょう?」
「……はい?」
 奴が嬉々として言うことには、こうだ。
「もう心配事はなくなりました。これでマネージャー業に専念できます」
「なん……は?」
 ぽかりと口を開けたまま固まる俺。対して調子よく手帳のページを繰る要。
 え、つまり……何? 仕事に集中するためにさっさと過去を清算してきたってこと? それって俺のために、ってこと……だよな?
「──嬉しくないですか? 俺は嬉しいですけど」
「……」
 おいおいちょっと待てなんだそりゃ──嬉しいとか嬉しくないとか以前の問題っしょ。
「おめェさ……やっぱり結婚向いてねェよ?」
「どういたしまして。改めて、今後は正式にパートナーとしてやっていくつもりですので。よろしくお願いしますね、天城」
 しれっと右手を差し出してきた男を真正面から見返す。なんというふてぶてしさだろうか。
「こちらこそ。どうぞよろしく、敏腕マネージャーさん?」
 さあこれから忙しくなるぜ。俺とこいつとで芸能界のてっぺんを獲ると決めたのだ。
 その手をわざと強めに握り返してやれば、即座に「痛い」と振り払われた。





 ところで。要が元嫁のところから帰ってきた夜、俺達は通算三度目のセックスをした。あの夕立の日以来(一度だけうっかりキスはしたが)触れて来なかったあいつの方からせがまれて。
「何、どういう風の吹き回しなわけ?」
「理由がなければ抱かないと? 面倒な男ですね」
「いちいちうるせェ奴だな」
 理由が知りたかったのではない、意思確認をしておきたかったのだ……なんて、面倒な男と言われても否定できねェか。だって迂闊に手ェ出して嫌われたくねェし、言質は必要っしょ。
「解放感が」
「解放感」
「なんか性欲として出力されたみたいで」
「ンなことある?」
「知らないけどあるんですよ」
 「ほら、はやく」と首を引き寄せられるままに彼の上に乗り上げる。あーあ、適当言いやがってこんちくしょう。こちとら一ヶ月も一緒に暮らしながら我慢してンだ、箍が外れたらやべェのはてめェの方だかんな。
「積極的なのは大歓迎だけどよォ……俺ら明日打ち合わせだぜ?」
「俺がしたいと言っているのですよ?」
「ちっ……わァかったよ」
 そこからは勢い任せだった。要から仕掛けられたキスはこれまででいちばん甘くて、触れ合った場所は溶けてしまいそうなほどに熱かった。彼の舌先が上の前歯の裏あたりを執拗に舐り、擽ったさに思わず吐息を漏らす。艶めかしく蠢くそれを捕らえて軽く歯を立ててやれば、手を添えた背が震えた。
「んん……ぁ、まぎ」
「ん、要」
 久し振りだがこいつの好きなところは覚えている。手早く衣服を取っ払い、ベッドの上で四つん這いの姿勢を取らせた。
「尻上げとけよ」
「ぅ……ッあ、あ」
 ローションを絡ませた指をうしろに忍ばせると、待ち望んだ感覚に歓喜の声を上げる。本当に、今夜は随分乗り気なようだ。このぶんなら多少せっかちでも許されるかもしれない。性急にそこを拡げたら、じりじりと疼きを訴える自身の屹立を捩じ込んだ。
「あ、んっぐ……! ひぅ、」
「……ッは……、痛てェ?」
 シーツに縋り、黙って首を振る。その仕草を許容のサインと受け取った俺は、まだ狭い襞の間を行き来し始めた。すぐに快楽を拾いだした要の喉から引き攣った悲鳴が零れる。
「ッあ、あ、あん……っ、や」
「嫌? やだったらやめるけど?」
 意地悪く片眉を吊り上げて問う。聞かずとも答えはわかっているのだが。
「ぃやっ、やめ、ないで、ぇ」
「ん~フフ、やめない」
 ──ああ、愉しい。気持ちいい。前にした時よりもずっと。今度は元嫁への当てつけなどではなく、ちゃんと彼の意志で、俺を求めてくれている。だから、だろうか。くっついたところからひとつになれるんじゃないかってくらい、要と俺との境目なんてもうぐちゃぐちゃに混じり合って、わけがわからなくなりそうだった。否、たぶんとっくに正気なんて失っていたのだ、互いに。
「おまえの、なか……離してくれねェんだけど」
「だ、ってぇ、あう、ア……っ」
「ここ好きっしょ? 締まった」
 ベッドに肘をつき尻を上げた格好のそいつを見下ろし、悦に浸る。顔が見えないのは勿体ないけれど、華奢な肩から腰のラインをじっくり鑑賞するのも悪くない。
「あま、ぎ、天城」
 切れ切れに名を呼ばれ、動きを止めて顔を覗き込んだ。水面に沈んだ黄金の月が俺を映す。俺だけを、映して揺れている。
「おう、どしたァ?」
「うしろから、じゃなくて」
「うん」
「前から、ぎゅってして……いきたい……んですけど」
 言いながら照れ臭くなったのか、最後の方はほとんど聞こえないくらいのちいさな声だった。途中から目も逸らされてしまって。恥ずかしがり屋さんかよ。可愛い奴。
「燐音お願い♡ って言っ……でででで! スイマセンでしたァ!」
 試しに調子に乗ってみたら乳首を強めに抓られた。嘘っしょ、取れる。
「悪かった、悪かったって。おらこっち向け」
「……ん」
 おずおずと伸ばされた腕を(はじめはあんなに積極的だったのに?)しっかり首に掴まらせ、脚を抱えて挿入しなおす。この体位だと感じてるエロい顔がよく見えて気分がいい。突き上げるたび、要は喉を晒して高い声で喘いだ。
「うッあ、ァ、ああすご、いい……っ」
「このまま、イきたい?」
「あん、い、きた、ぁ、ンッ」
 短い息を吐きだす唇を塞ぐ。いいぜ、お望み通りにしてやるよ。薄い舌を吸いながら律動を早めれば、ナカの収縮が激しさを増す。達する瞬間、回された腕にぎゅうと力が籠った。
「っ、ふぅ、ンン……!」
 合わせた唇の間で要の嬌声が弾け、やがて俺の喉の奥へ飲み込まれて消えていく。それからくったりと脱力した身体がシーツに投げ出された。
「はあ……死んじゃうかと、思った」
「ヨすぎて?」
 恋人の真似事をして鼻先にキスを贈ってやれば、照れ隠しなのかデコピンをお見舞いされた。
「その顔やめろ」
「ん~? どんな顔してるって?」
「だらしないにやけ面ですよ。……まあいいです、今夜は俺が満足するまで付き合ってもらいますからね」
「あァ? うおっ」
 胸を押され仰向けに倒れ込んだ俺の上に奴が跨ってくる。その唇を這う舌の赤さが目に焼き付いて、体温が一気に二度くらい上昇した気がした。
 おいおいマジかよ、こんなの想定外すぎる。明日のことを考えて夜更かしは程々にするつもりでいたのに、こんな風に誘われたら断れないというか──断るなんて勿体ないことできるはずがないというか。
「……しょ~~~うがねェなァ~!」
 そんなわけでその晩は、体力(と精力)が尽きるまで〝解放感〟ってやつを愉しんだのだった。翌日ふたり揃って大反省したのは言うまでもない。





 要と組んでからの日々は矢のように過ぎた。
 年間CM起用社数、男性アイドル部門トップ3入り。写真集はミリオンセラー。主演も務めたドラマとタイアップした最新シングルは、チャートの首位を独走。この国で生活していれば俺の名を見かけない日はないってくらい、『アイドル・天城燐音』は波に乗りまくっている。
「さ、帰りましょうか。明日はオーディションにレコーディングにラジオ収録と盛りだくさんですから、はやく寝て備えましょう」
「あ~……要」
 忙しなく電話をかけようとする彼の腕を咄嗟に掴んだ。胡乱な目を向けられて怖気づきかけたが、なんとか声を絞り出す。
「車呼ぶの待ってくんねェ? ちょっと歩こうぜ」
「……? そういう気分なのですか? 構いませんけど」
 超売れっ子の俺は勿論、そのマネージャー兼プロデューサーである要も、俺と同じかそれ以上の過密スケジュールをこなしている。俺が『この世代において最も成功したソロアイドル』と呼ばれるまでになったのは、おおむねこの男の能力と献身のお陰と言っていい(むろん俺自身もめちゃめちゃ努力しているけれど)。
 ともかくそんな敏腕マネージャーさまはあくまで合理的な判断に基づいて息抜きを許可してくれたのだろうけれど、こうして俺に合わせようとしてくれるのは素直に嬉しい。

 俺達は仕事先からしばらく歩いた。今日は郊外でのロケに参加していたから、辺りはいつもの生活圏と比べるとずっと自然豊かで人通りも少ない。西日が川面をオレンジ色に染め上げ、穏やかな景色に華を添える。その川に架かる橋の上で、立ち止まった。
「明後日から海外ロケだなァ」
「ええ」
「明日は一日バタバタだしなァ」
「そうですね」
「知ってっか? 今日で一緒に住んで五年になるンだぜ、俺っち達」
「ああ、そうでしたっけ……?」
 前を歩いていた要がようやく足を止めた。振り返った表情を夕陽の色に染まった髪が半分隠してしまう。
「はは。びびるっしょ、あっという間すぎて」
「──そうですね」
 俯き加減の横顔にハットの影が落ちる。掌に滲んだ汗をTシャツでこっそり拭った。
 あれから五年も経っただなんて。俺もスマホのカレンダーを見て心底驚いた。
 かつての夏、夕立の日に思いがけず再会して。あの瞬間には昔のような相棒に戻れるだなんて思いもしなかった。以来今日までの長い間、俺達はひたすらふたりで、足場の悪い急斜面を登ってきたのだ。

〝あなた、俺がいたら無敵になっちゃいますよ。最強。天下獲れる〟
〝その覚悟は、あるのですか?〟

 そう、自信満々に要は言った。絵空事は今や現実になりつつある。一度は潰えたはずの夢が息を吹き返し、その命を躍動させている。
 ひとりのアイドルとして生きて、生きて、生き抜いて頂上の景色をこの目で見ることができたなら、死んでしまっても構わない。俺にとっての悲願で、魂を燃やす意味。きっと要にとっても。そしてふと考えたのだ。
 じゃあ──悲願を成就させたあとは? と。
 てっぺんに立ったあとは? 俺は何を目指して、どこへ行こう? あの頃同じ志のもとに並び立ってくれていた『Crazy:B』はもういない。要はどうするだろう。あいつにはあいつの人生があるのだし、いつまでも俺の傍にいてくれる保証などどこにもありはしない。傍にいる理由が、ない。

「なァ要」
 大切に大切に、その名を呼ぶ。俺の表情と声の温度に何かを察したのか、怪訝な顔つきでこちらを向いた彼が、ゆっくりと一度、まばたきをした。
「渡してェもんがあるンだ」
 たった一メートルほどの間隔を空けて俺達は向き合っていた。握った拳を突き出すと反射的にか左の掌が上向きに差し出される。ぽとりと、そこにちいさな輪っかが落ちた。
「──これは?」
 指先で摘まみ上げたそれは斜陽を鋭く跳ね返し、俺の目を焼いた。やや太めのシンプルなプラチナリングが、腐れ縁の男の手の中で、初々しい面をして自己主張する。
「渡したからなんだってわけじゃねェけど……おめェに、持っててほしい。着けなくてもいいから」
 リングから俺の顔へと視線を滑らせた要は、黙って続きを待っているようだった。俺はちいさく息を吸って、吐いて、どうにか緊張をやり過ごそうとした。まあそれも無駄な足掻きで、結局発した声は震えたのだったが。
「今更俺とどうこうなってくれなんて言わねェよ。ただなんとなく、安心したいだけ。おめェがこいつを持っててくれるうちは俺も──」
 それ以上言葉が継げなかったのは、奴がリングを持った方の腕を思いっ切り振りかぶったせいだ。
「え」
 制止する間もなかった。ぶうんと振り抜かれる右腕。スムーズな重心移動に伴いステップを踏む左足。指先から離れぶっ飛んでいくカルティエ。きらりと光を放ちながら放物線を描いたちいさな輪っかは、ぽちゃんと物寂しい音を立てて水面に、呑まれた。
 何が起きたのか理解するまでに十秒ほど要した。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーー‼」
「あなたには呆れたのですよ。あんなもので俺を縛ろうだなんて思っているのですか?」
 そして理解した瞬間、俺は腹の底から大絶叫していた。横であんちくしょうがなんか言ってる。なんか言ってるけどそれどころじゃない。嘘、リング、川、嘘っしょ? なんで?
「俺の……おわああ! だっ……うわあああーーーー‼」
 何事か叫びながら、半ば無意識に橋の欄干から身を乗り出そうとしていたらしい。要の手によって力づくで地面に引き倒されアスファルトに頭を打ち付けたところで、やっと状況を受け入れることができた。できてしまった。
「うるさい、落ち着け。聞いてください」
「なっなな、なにしてくれてンだてめェーーー‼」
「いいから黙って聞け!」
 一緒になって歩道に倒れた彼は俺の胸倉を掴み、もう一度アスファルトに頭をぶつけさせた。信じられない。そりゃ黙るけど、その前に死ぬ。
「あんなものなくたってあんたといてやりますよ! 俺は!」
 夕陽を背負った要は珍しく切羽詰まった様子で訴えた。なんだよその顔。こんな時じゃなきゃからかってやったのになァ、とすこしだけ口惜しく思った。
「なんですか〝安心したい〟って。そりゃ俺とあんたは血縁もなければ戸籍で繋がってるわけでもないし、ましてや付き合ってもいませんけど! 毎日同じ家で寝起きして食事して、同じものが見たいからって一緒になって足掻いたりもして。気が向いたらセックスもして。五年も、同じ苦しみや悔しさや喜びを分け合ってきたでしょう? ……ねえ、俺はもう、あなたにあげてしまったのですよ、俺のぜんぶ。他に、何がほしいって言うんですか……天城」
「……。言葉がほしい」
 俺はなんだか泣きそうだった。こいつの口から俺に対する想いを聞いたことなんて、一度もなかった。
「俺は……おまえが好きだよ。好きで、大切だ。傍にいてほしい」
 仰向けに倒れ込んだまま手を伸ばす。怒ってるんだか悲しんでるんだか曖昧な表情で、綺麗な男がすぐ傍に両膝をついてこちらを見下ろしていた。その頬に触れて、じっと返事を待つ。
「──俺、は」
「うん」
「俺も、あなたが大切です。でも恋じゃない。あなたのそれが恋なら、同じ想いじゃない」
「……うん」
「だけど、決めたんです。あなたと生きていくって。恋じゃなくてもあなたを、天城燐音を愛してる。一生を捧げる覚悟はできてるんですよ。それじゃ、足りませんか」
 息を呑んだ。思えば今日初めて、正面から目を合わせた気がする。彼の黄金色はいつだって俺を愛しい過去へと連れて行ってくれる。イエローのペンライトの海。そしてあの頃も今も変わらず、隣で見つめてくれるあたたかな色。
 ──ああ、そうか。やっとわかったよ。俺がクソ下らねェことでうじうじ悩んでる間も、おまえはずっとここにいてくれてたンだな。独りよがりな不安で曇ってたのは俺の目で、おまえの目はいつでも先を見据えてた。そしてたぶんおまえが見てる未来には、当たり前のように俺がいるのだろう。
「この気持ちに偽りはありません。──あなたは? 同じ想いじゃないならもう、一緒にいられませんか?」
 俺はね、天城。関係に名前なんてなくたっていいと思うのですよ。形なんてどうだっていいでしょう? 愛しているから。それだけが本当で、信じていてほしい唯一のことだから。
 ぽつぽつとそう零した要は、目を細めて微笑んだ。夏の夕方の生ぬるい風に勿忘草色の髪が踊る。〝夕焼けよりもずっと綺麗だ〟なんて、歯の浮くような台詞を口にするのはカメラの前だけでじゅうぶん。今はそれよりも伝えるべきことがあると思うから。
「んーん。俺も同じだよ。愛してるから、信用してやる。もう勝手に不安になったりしねェよ」
 よっこらせと半身を起こし、やれやれと肩を竦める。そう言えば頭を打ったんだった。怪我はしなかったから良かったものの、次はもうちょい穏やかにお願いしてェもんだ(次なんてないと信じたい。贈った指輪を川に投げ捨てられるなんて二度と御免だ)。
「〝あなたと生きていく〟って言ったな。約束破りやがったら覚えてろよ。こう見えて意外と執着する方なんだぜ? 俺は」
「俺が約束を違えたことが一度でもありましたか?」
「当代一の大嘘つきが何言ってンだよ馬鹿」
「こんなことで嘘言いませんよ」
「いいぜ、賭けてやる。もし嘘だったら俺っちの勝ち。嘘じゃなかったらそん時は……やっぱり俺っちの勝ちっしょ♪」
 きゃははと笑って嘯けば「ひとりでやってろ」と冗談みたいに下手くそな照れ笑いが返ってくる。──ああ、精巧につくり込まれた非の打ち所のない美しさよりも、こっちの方がずっと好きだな、なんて。
「日本でいちばんになった程度で満足するようなタマじゃないでしょう、あなたは。付き合いますよ。海の向こうでも──ううん、地獄の果てにだって」
 何ひとつ完璧じゃないこいつを、ただの十条要をもっと見ていたくて、目が離せなくて、夢中になる。そんな風に幾度も幾度も、惚れた弱みと隣で生きてゆく喜びを噛み締めるのだ。





「あれっお客はん? ……っち思たら燐音はんやないか」
「えっ嘘! ちょっと燐音くんまた来たんすか⁉」
 朝の情報番組に自身のコーナーを持ち、一定の知名度と人気を獲得したニキは、芸能活動の傍らちいさな店をオープンさせた。そんな親友の経営するカフェバーで、昔馴染みと鉢合わせることは珍しくない。今夜の先客はこはくちゃんだった。
「おーう、邪魔するぜェ~」
「もぉ~、来る時は連絡ちょうだいって言ったっすよね?」
「うるせェぞニキきゅん、ビール!」
「僕はビールじゃないっす!」
 閉店後の店内は店主がセレクトしたピアノ・ジャズで満たされている。ンだよ、意外とセンスがいいじゃねェかよ、ニキのくせに。
 ニキはぶーぶー文句を言いながらもグラスに生ビールを注いでくれた。こはくちゃんが飲んでいるのは芋焼酎だろうか。ストレートとは流石だ。
「はいどーぞ。今度は何やらかしたんすか燐音くん」
「要はん怒らせたんとちゃう? 家に入れてもらわれへんのやろ」
「いやいや……締め出されたことはあっけど今回は違げェって」
 なんで俺がやらかしたの前提で話が進んでンの? ひでェ奴らだぜまったく。
「ほななんやねん、勿体つけんとはよ言えや」
「あ~、うん。もう心配すんなって言いにきた」
 それだけ言えば、俺の積年の片想いを茶化したり面白がったり、時に見守ったりもしてくれた旧い友人達にはなんとなく伝わったらしい。ふたりして興奮気味に身を乗り出してきた。
「ほんまに?」
「嘘、ついに付き合いはじめたとか? お赤飯炊く?」
「やめろやめろ、そうじゃねェっしょ」
「えっ、ど、どういうことっすか……?」
 俺は一度瞼を伏せ、ふっとちいさく笑う。それから困惑する連中にこう言ってやるのだ。
「俺っちとあいつには要らねェの、そういうのは。もっと揺るぎねェもんをもらったから」
 上機嫌にグラスを煽る俺にふたりは目を丸くする。理解してもらえなくても構わねェよ。俺自身妙な関係だなと思ってるし。それでもいい。理屈じゃない心の深いところで繋がれたのだと、今なら信じられるから。
 色気より食い気のニキはやっぱり「わからんっす」という顔をして首を傾げていたけれど。顔を合わせる度に〝まぁだはっきりせえへんの?〟と呆れてみせたしっかり者の末っ子は、「ええやん。ぬしはんららしいわ」と笑って背中を叩いてくれた。

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