ちょっとそこまで
部屋に戻ると部屋は真っ暗で、子どもが作ったソース焼きそばがちゃぶ台の上に置いてあった。
一人前だけがラップをしてそこにあるところを見ると、自分の分は食べ終わってしまったらしい。
皿の横には、子どもの字で「ちょっとそこまで行ってきます。」というメモがあり、そのメモの下には何か学校の書類らしき紙が見えている。もしサインが必要な書類なら、子どもが後でそうと言うだろう。
それにしても、食べ物を置いたちゃぶ台に学校のプリントを置くなと何度言ったら分かるのか。
はあ、とため息をついて、子どもの書置きを取り上げた。
夜にちょっとした買い物で家を空ける必要が生まれた時には電気を付けて出ていっても構わない、と子どもに言うべきかどうか。
いるべき時間にいないと思えばそれなりに心配はするが、電気の消えた部屋に戻って来るのを寂しがってしまうのは、どちらかと言えば、僕ではないもう一人の大人だった。
「ちょっとそこまで、か。」
焼きそばのラップの上から触ってみると、確かにまだ暖かい。
ジャケットを脱いでハンガーに掛けていると、玄関の方からかちゃりとドアを開ける音がした。
遅かったですね、と言おうと思って振り返ると、そこに立って笑っていたのは今出て行ったばかりと思っていた子どもの方だった。
「あ、お父ちゃんおかえり。今日は早かったんやな。」という言葉に、ただいま、と返事をする。
「はいこれ!」と手渡されたのはほかほかと暖かい包みで、旨そうなタレの匂いをさせている。
近所のスーパーの袋からは、焼き鳥屋のロゴが見えた。
お前はどこのおっさんや……?
あの人ならこういうとき、子どもが生意気に、とか何とか言いながら、小さな顔を手で挟んで変顔をさせたりするのだろう。
頻繁に妹弟子のところに世話になっている上に、僕が不在の日にはあの人と連れ立って何かと寝床まで食べに通っていることは知ってはいたが、スーパーの菓子売り場に山と積まれた駄菓子を買って来るような子どもに育っていないというのが面白みがあるような気がした。
こちらに焼き鳥を手渡すと、安心したような顔で、外に着て行った白い上着を脱いでいる。
「日が落ちてから自転車運転したらあかんて、約束したやろ。」
説教染みた口調になったかとは思ったが、子どもは気にしている様子がない。
そんなん、何度も聞いて耳にタコが出来るわと言わんばかりの顔になって「僕かて、そのくらいわかっとるって。」と片手を挙げてみせた。
お前が気を付けてても相手が気を付けてないとかあるねんぞ、と重ねて言うたところで、聞きはしない、という顔だ。
うちに来たばかり頃は大人しく物静かな様子をしていたが、育ての親の影響か、今はもう、今はそこにいるだけで五月蠅いと言われるような顔つきが出来るようになっている。
今も、少しばかり説教しなければならないような場面だというのに、気を抜いたらそのまま笑ってしまいそうになる。
くっと堪えた顔を叱られる手前と勘違いしたのか、「そうかて、なんかちょっと食べたなったんやもん。」と言い訳するように言った。
「焼きそばだけやと、お腹空くねんな。」
物の分かったような顔をしているのは、あの店の常連に囲まれていれば、自然なことかもしれなかった。
手にした焼き鳥の包みからは、焼きたてらしい炭火の残り香のような匂いが立ち上っている。
「はい、お財布。石鹸とかそろそろなくなるし、ラップとか洗剤も一緒に買って来よと思ってたんやけど、もしかしたらお父ちゃん早く帰って来るかもと思って止めて飛ばしてきた!」
ぽんと渡された生活費用の財布は、妙に重かった。
「あんまり急いだらあかんで。」とそこまで言って、ここまでの会話でシャイシャイと言いながら話に割って来る男がいないことに気が付いた。
「……草若兄さんはどないした?」
一緒に買い出しに行ったんと違うんか、と聞くと、子どもが肩を竦めた。
僕は知らへんよ、というジェスチャーだ。
仕事は入っていなかったはず、とは思うが、今日だけ言いそびれていたということだろうか。
「お父ちゃん、もしかしてアレ、まだ見てへんの?」
アレとはなんだ、と思ったら、ちゃぶ台の上にあった紙を子どもが指さした。
これやこれ、と言って、子どもが書置きの下に敷いていた紙を、すっと引き出すと、僕にもその理由が分かった。
『ちょっと小浜まで行ってきます。』
……ちょっと?
サインで見慣れたよれよれの字が短冊のように縦一行に収まっていた。
「なんや、草若ちゃんの中ではこっから小浜までが『ちょっとそこまで』の範囲らしいで。」
いい時間に電車があればこそ、三時間半程度で戻って来られるが、そうでない場合は四時間半は掛かる。
なるほど、僕の焼きそばの皿があって、兄さんの皿がないのはそういう訳か。
「ここから小浜まで、かなりあるけどなあ。」
「………。」
そら草若兄さんやったら、あの距離をちょっとで済まそうとするやろ、と言おうとして、それも面倒になってきた。本人不在で言ったところで何の意味もない。
「焼き鳥食べて待ってたら、匂いに釣られてそのうち帰って来るんとちゃう?」
達観した子どもは大人びた様子で笑い「ふたりしかおらへんうちにこれ食べてまお。」といそいそと皿を取って来た。
匂いに釣られて、という子どもの予想は、経験則からして、当たる可能性も高い。
「何買って来たんや?」
「ねぎまと、ハツとレバーがあるよ。レバーって、めちゃめちゃ栄養あるねんて。」
「栄養あったかて、レバーなんか、そんな美味いもんとちゃうやろ。」
「レバニラは美味いやん。」
「そない有難がって食うもんでもないやろ。」
「お父ちゃんもう~。」
ああ言えばこう言う、と子どもが膨れている。
「串カツは買うてへんのか?」
「串カツは、串カツのお店で食べる方が絶対美味しいし、お土産に包んでくれるとこで美味しいお店は良う知らんからあかんと思って。」
まあ、そうやな。
「今度は草若ちゃんも誘って、みんなで食べに行こうな。」
子どもはそう言って、目の前のレバーらしき肉の串を一本取って、焼き鯖を食べるときのように、思い切りのいい大口で齧りついた。
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