スクラッチ、一等、ノルウェー旅行



開けた窓から入り込んでくる風で、はたはたとコートの裾がひるがえる。
今日はちょっとした衣替えなので、と言って、ラクがどこからか出して来たロングコートや冬物のセーターが、部屋のあちこちに吊るされている。どこに仕舞って、どこから出して来たのだと思うような服はラク本人のものというよりもきょうだいの片割れの分が混じっていそうな気がするが、その中には、ウォノにとっては見覚えのある服もいくつかあった。
目に付く白のセーターは、去年よく着ていたいつものやつで、ワンシーズン掛けて着倒した甲斐があってか、袖口と脇にいくつもの毛玉が出来ていたのが、今もそのままになっている。去年のラクは、人の家とも知らぬような顔をして、家の中でもっとも大きな毛玉とも言うべき生き物と一緒に馬鹿でかいソファを占領していた。雨が降って家の中に降り込められていたある日、そろそろ暖房器具を新しいのに買い換えましょう、とラクは言った。今使っているのが壊れない限り、買い換える必要はないだろうと返事したはずだが、電気屋からもらってきたと思しきパンフレットをそこらで広げていたラクが、あの言葉を今も覚えているかどうかは怪しいものだ。
コンビニで買って来た海苔巻きの残りを頬張りながら、雑然とした部屋を見渡すと、家主の快適さなど屁とも思っていない居候の顔を思い出して腹立たしい。
不在のうちに、転売の可能なサイトで邪魔っけな服を売ってしまおうかと頭のどこかで思ったりもする。冬が寒いなら飼い犬の毛皮にでも巻き付いていたらいいのだ。
そうした不穏な考えの実行を阻んでいるのは、多少犬の毛が付いているものの、そのことが気にならないほどに心地のいいソファのせいだ。そうでなければ、半年に一度買い換えられる枕とクリーニングに出される布団。雨の降った次の日にはもうこびりついた泥を落としてしまった靴。ちょうどいい間隔で補充される冷凍食品。そんなものが理由かもしれない。冷凍庫の中には、どこから湧いて来たのか分からないワンプレートの食事が重ねられている。生活で家に残しておいた生活費にラクが手を付けた形跡はこれまでに一度もなかった、これからもないだろう。どこからか流れて来る金は全て洗浄済みだろうという嫌な確信があって、殺処分を免れた犬猫の保護団体にでも寄付したらいいのにと思う。思うが、きっと使い切れないほどの金がその口座には唸っているのだろう。
気まずさと同居の利便性。家主と居候という関係性の中でかろうじて維持されている上下関係が、この居心地の悪さを相殺しているのかもしれなかった。
どこかで見かけた、冬は直ぐそこに、というキャッチコピーを思い出しながら、いつもの店の海苔巻きをぬるい緑茶で胃の中に流し込む。
署内で昼飯時になると付いているテレビで流れるコマーシャルフィルムは、既にクリスマス商戦の一歩手前と言った様子だ。年末年始はハワイのコテージで、という海外旅行のCMも目に付くようになってきた。年末には何を食って、あるいはどんな事件を追って暮らしているのか、犬と同居人はこの家から出て行くのか、先のことは何も分からないという気持ちで仕事に行こうとすると、早く帰って来てくださいね、と言わんばかりに犬が鳴く。今朝はまだ散歩に連れて行ってないのが不満なのかもしれないが、それにしても元気だ。
「んん、………。」隣の部屋から小さなうめき声が聞こえてくる。 
飼い主は、隣の部屋のベッドを占領して、頭から毛布を被り死体のように丸まっている。
狸寝入りの可能性はゼロではない。行って来る、と声をかけると、返答の代わりに毛布から手が出て来て、今日は雨具を持って行ったらいいですよ、と言ってひらひらと手を振られた。毛布からはみ出て見える紺色の長袖シャツは、一昨日から着替えた気配がない。玄関には、折りたたんで四角いケースに入っている乾いた雨合羽。荷物の中に入れて、後で風呂に入れよ、と言って家を出た。呑気な土鳩の鳴き声。冷たい風が吹いて、もう秋だと思う。


屋外から職場に戻ってやっと溜まった書類仕事を片付ける予定だった。建屋から一番近い店のカルグクスで昼飯にありついた後、夕方から降って来た雨のぱらつく中、身元不明の死体が出て来た隣の所轄の山中での証拠品集めに駆り出された。
車を停める場所が少ないということで到底役に立たない雨合羽を着込み、自転車に乗って夕方からの冷たい雨の中、ぬかるむ道を走っていくと、先に到着していた巡査が額に手をかざしてやる気のない挨拶をした。
秋には秋の花粉症というのがあるらしい。とはいえ、今日の空模様では花粉の飛びようがない。
後から後から出て来る鼻水を啜りながら、劇的な証拠を見つけて出世したいっす、と後輩はぼやく。お前は早く帰りたいだけだろ、と尋ねると、まあ、そうですね、第一、俺が見つけたそれがほんとにほんとの犯人の物証なら、ってのが前提ですけどと冗談のように笑っている。笑ってはいるが、その横顔はそれなりに真剣だった。子どものような顔をする若造は、冤罪の人間を作ることになるなら、なまなかな物証もどきなどは何も出ないままでいた方がマシです、と初めて捜査に行った時、現場で元麻取のエース(と自分で言うのも口はばったいが、実際面と向かって昔の肩書を思い出させるやつがいるのだから仕方がない)に対して、確かにそう言い切った。顔は全く違うが、どこか、出会った頃のドンウのことを思い出させる。青臭いやつだが、ミレニアム前後のチョ・ウォノと比べれば、よほど真っ当な人間だ。身体を張った仕事も一通りこなしておかないと後から来た小僧に舐められるぞ、これも経験だと嘯く先輩刑事の横で、内心では、訳知り顔のロートルにだけはなりたくないと思っていた。
どれだけ後輩が出来ようが、誰も好んでやっている者がいないような仕事に手を突っ込みたがるので、何でもよく手回しするやつだと当時の上司に重宝されたが、それは他人任せに出来ない性分だからだ。取り柄はない、この仕事しか。
何も成果が上がらないまま時間だけが過ぎていく。雨は上がったのを幸いと脱いだ雨具のポケットが奇妙に膨らんでいて、その中に手を突っ込むと、かさりと音がした。濡れた指先でつまみ出したのは単なるプロテインバーだった。食うか、遠慮します、というやりとり。いつもは食い物なんて持ってきてないじゃないですか、と言われて、たまたまだ、と返す。街灯の薄暗い明かりに翳すと黄色い色が見えた。パッケージを破り捨てて齧ると、キャラメルとクッキーのあいの子のような食感で、腹持ちはよさそうだが、甘みは薄い。かろうじてココアの味が感じられるくらいの何か、を咀嚼すると、年取った犬用のドッグフードを食ったらこんな感じだろうかと思った。兵役を終えた日ほどではなかったが、念願叶って刑事になった日には、これでやっと苦役から解放されると思ったものだが、現実はこんなものだ。

何も収穫が得られないままに帰ることは許されないが、夜明けには一時帰宅の命令が出るだろう。皆そう思っているような顔つきだった。雨の夜は面倒だが、降雨の状況によっては遭難者が出る前に切り上げの合図が出る。何も収穫がないまま時間は過ぎて、悪寒はないが咳は出る。夜明けまで耐えるというこの状況で、風邪を引くなら今だろうという気持ちだったが、念願が叶ってか解散が叫ばれた時には関節が痛むようになっていた。
帰りしなに栄養ドリンクを買ったが、飲んでからカフェイン入りだったと気づく。
まあ運転して帰るにはこれくらいがちょうどいい、と思うことにした。着替えて頭を乾かし、奇妙に車通りの少ない道を走っていると、車のライトやネオンに照らされる水滴が映画のワンシーンのようだ。サスペンス映画ならここで悪の組織に金を渡されたトラックがどこからかやって来て、十万キロも走ってロートルになったが買い換えられもしないこの中古車に追突するのだ。普段は考えないようなことを考えているのはきっと疲れているからだろう。早く帰って布団に飛び込みたい。

そういえば、ちょうど一か月前にも前にも似たような展開になっていたように思う。
なんだかんだで仕事が片付かないまま泊まり込みになって、へとへとになって帰宅すると、犬が迎えてくれた。三時間寝て起きた次の朝。柔軟剤の香料でもごまかしきれない生乾きの匂いがするタオルを首に掛けて薄曇りの空を見上げてあくびをして、何の気なしにテレビを付けると能天気な顔をしたアナウンサーが良い週末をお過ごしくださいなどと言っていた。
食事は冷蔵庫にと言うメモ書きが、ラクの字でチラシの裏面に書いてあった。新聞も取っていないのにこんなものをどこから拾って来たのかと思いながら裏返すと、商店街のスクラッチキャンペーンは来月から、などと書いてある。郵便受けにでも入っていたのだろうか。
ラクはいつものようにふらりとどこかへ行っていたようで、輸入物の缶ビールの半ダースと人参エキスのパウチを抱えて部屋に戻って来た。どうせ盛大に濡れたのにシャワーで済ませて来たんじゃないですか、と言いながら吸血鬼の食事のような赤い色をしたパウチをひとつ寄越してくる。高いやつだろこれ、と口に出すのは憚られた。有難く飲んだ顔をしたが、もうあと一年は同じものを飲まされそうになっても買って来た人間に付き返してやろう、そう思わされるような味だった。

家に戻ると、犬と同居人が待っていた。
出された服は、すっかりと片付いていたが、開け放たれた窓はすっかり締められており、湿気を嫌うラクが勝手に置いたサーキュレーターが回っていた。
どうぞ、とまたも勝手に押し付けられた人参エキスのパウチは、気が付けばラクが箱買いしていたようで、部屋の隅に小さな段ボール箱があった。高かったか、とは言い出せず、台所のテーブルを見ると、小さなカード状のものが食卓の上にあった。こちらからの視線を気にしてか、いつもは会話を億劫がるその口を開いて、商店街でスクラッチのカードを貰ってきました、とラクは言った。
景品は、と裏を見ると、特等はペアの海外旅行券、一等はおこげも炊ける炊飯器、二等はこの商店街でしか使えない十万ウォンの商品券とあった。二千ウォンのビールの割引券はいらないが、炊飯器と十万ウォンは家計の足しにならないでもない、という考えがちらりと頭をよぎる。
「その場で削って来いよ。」
「貰った時点でもう両手が塞がってるのに炊飯器が当たったらどうするんですか?」
捕らぬ狸の皮算用を見抜かれたかのように笑われて、バツの悪さに、当たるかよ、と言いながらスクラッチのカードを手に取る。どうぞ、と差し出された五百ウォン。
仕方がないので硬貨で削ってみると、五等のスナック菓子が九個も当たった。
はずれが続くので、後の二枚はお前が削れ、と言ってラクに返すと、旅行が当たったらどこへ行きましょうか、と言った。
「馬鹿、お前。こういうのは商店街が勝手に決めた行き先で、旅行券だけの現地集合に組合と提携した旅行会社の宿泊先に案内されて交通費くらい馬鹿高い金を払ってろくでもないホテルに泊まることになるのに決まってるんだよ。」
「よく知ってますね。」
どうしようもない裏事情があるのは分かっているが、無責任でその場しのぎが好きな大人の書いた美辞麗句と連ねた惹句で泣かされるのは子どもだけだ。そうと分かっていて、楽しみだというのは、余程の能天気か、掛かる費用のことを考えなくていい馬鹿だけだ。
そう言おうとしたが、不思議と、本気で旅行を当てたいような様子でいるラクの顔を見ていると、ぐちぐちと言葉を連ねるのも馬鹿らしくなってきた。
「世の中、そういうものなんだよ。」
視線の先には、パソコンの横に貼ってある、小さな世界地図。
ピン留めしてある北欧の国の名前は忘れてしまった。
こんな狭い場所に暮らしていて、どこかへ行きたがる気持ちはわからないでもない。
当たったら、あいつらに旅行券をやって、俺たちは留守番でいいだろ、と言うと、ラクは眉を上げた。
「ここからどこへも行かないでいいんですか?」
東京とか日帰りできる場所なら話は別だが、今は、ライカがいるだろう。
伸びをしながらそう返事をすると、それもそうですね、とラクは思案顔になった。
コーヒー淹れますね、と言って立ち上がる背中に、「おい、削らないのか?」と尋ねる。
残った二枚のスクラッチカード。
特等と一等が両方当たるはずもないが、削るまでは夢を見ていられる。
ラクの返事は、すぐには返ってこない。
手際よく粉をセットする男は、今、何を考えているのだろう。
出会った日とは違い、血のついていない真っ白なTシャツの背中。
コーヒーの匂いは、かぐわしく、部屋の中に漂っている。
「そうですね、あなたが見ていないところで削った方が、良く当たる気がするので。酒を買いに行くついでに、商店街に持って行きます。」
ラクは、きっと、外れくじの菓子を増やして、この部屋に戻って来るだろう。
「週末、遅番の前に、犬用の暖房を見に行くか?」と尋ねると「いいですね。」と言ってラクは笑った。

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