宿の暖炉の一幕
「刺繍がずいぶんと上手だね、お嬢さん」
フィオレにそんな声がかかる。顔を上げるとステラとは逆側に座った女性。目尻のシワが優しい雰囲気を出している。旅人という感じはしない。けれど、街に根付いているという雰囲気でもない。ここにはそんな人もいる。故郷からとなりの街へ、用事で出かける人だっている。この女性はそういう短い旅をしている人だろうと当たりをつけながら少しだけ笑んだ。
「母が守り花刺繍師で……習ったんですが、まだまだ未熟です」
「そうなの。どちらのご出身?」
「北の村です」
「あら、じゃあ私の息子の刺繍を縫ってもらったかもしれないわ」
そっと覗き込まれるのは気恥ずかしいけれど、隠すほどのものでもない。
広げて見せると女性はゆっくりとフィオレの手元を見てうんうんと小さく頷いた。
「どことなく雰囲気が似ている。私の息子の守り花はリオルカの花でね。細かい花がたくさんだから大変だったろうねと旦那と話したのさ」
「リオルカの花。勇気を拾う花ですね」
「そう。おかげで無謀な挑戦をする子に育って、今は隣の国で船乗りをしているよ」
隣の国、ずいぶんと遠いものだ。
フィオレは当然どんな場所なのかも想像つかない。噂話で隣国のことを聞くことはあるけれど、想像は難しいものだ。
「隣国に行ったことがあるんですか?」
「一度だけ、息子を送っていった時にね。東の海とは違って水が蒼くてね、とても広かったよ。海鳥がたくさん船の周りに集まっていたねえ」
「すごいですね」
東の海の海鳥は警戒心が強いと言う。だからあまり人間がいると降りてこないのだと、以前旅人に聞いたことがある。国が違えば人だけでなく動物も性格が違うということなのだろう。
想像してみようとしたけれど、やっぱり上手く出来なかった。
「産着に刺繍してもらってね。とても細かい花だったのにとてもきれいで……今もまだ家に取ってあるよ」
「そうなんですね。刺繍師冥利につきると思います。母は、刺繍したものがその後どうなるのか聞くのが好きで、手紙をもらっては喜んでいましたよ」
「手紙ねえ。書けばよかったな」
「今からでも遅くないですよ」
思い出すのは届いた手紙を大切そうに何度も読み返す母の姿だ。私にだって決して見せてくれなかった母の宝物。大切に引き出しにしまわれた手紙の数々を思い出す。
「母は、何年経ってもどの刺繍か覚えていました。何年前のものであってもです。だからぜひ手紙で守り花の刺繍のその後を教えてあげてください。刺繍師はどの方でも喜ぶと思います」
ぱちりと暖炉の火種が爆ぜる音が部屋の中に響いた。
武器を手入れする油の匂い、読書をする青年の紙をめくる音、夜更けのために宿の女将が出してくれた野菜スープをすする音だってする。
密かにかわされる会話はとぎれとぎれで、けれどどれもが冬の夜に溶けていく。
女性は一度ぎゅうと目をつむってからフィオレと視線を合わせた。
「町に帰ったら手紙を書いてみるよ、リオルカの押し花を添えて」
「素敵です」
ふふと笑い合って、それでおしまい。フィオレは布に視線を落とした。
これは手慰みに刺繍しているもので、練習用。自分の外套に刺繍する前に想像をふくらませるためのもの。もういっぱいになってきてそろそろ二枚目に移ろうかと考えている。そこにリオルカの花がないのを確認してから途中の糸を処理した。
新しい糸を手にとって針穴に通し、ひと針、布に刺す。
リオルカの花は小さな花の集まりで、秋に花を咲かせる。ある朝、一斉に花を芽吹かせるから戦士が立つ様のようだと縁起が良く勇気をもたらす花だとされている。色は様々で、華やか。
次に外套に刺繍するのはリオルカの花にしよう。背中の裾がいい。勇気で背を押してもらえる場所。
旅の中で自分の外套に刺繍をする。それは旅立つ前に母に刺繍をしてもらった時に思いついたことだった。両腕にある母の刺繍は私の守り花であるリュミエ草。何度も勇気をもらった花。
外套は旅の期間が長くなるにつれ刺繍を増やしている。まだまだ増やす予定だ。
右隣にいるステラは、剣の手入れが終わってから居眠りをしている。フィオレにもたれかかるように寝ている体温は温かくて、心地よい。疲れているだろうから起こして部屋に引き上げようと思っているけれど、重さと気配が遠ざかってしまうのがもったいなくてもう少し、と針を動かしてしまう。
リオルカの花の練習が終わったら、それが引き上げ時だと自分と約束して一針ずつ糸を操っていく。
フィオレはこの時間が好きだ。歩いていては出来ないから、こうして腰を落ち着けて人の気配を感じながら没頭する作業というのが好き。旅をしていると案外一人の時間というのは少ない。いつもステラが隣にいるし、そうでなくても名も知らぬ誰かが隣で食事をしていたり、今のように暖炉の周りで時間をすごすのが当たり前だから。けれど、その気配のおかげで集中出来る。
小さな花を二十ほど作って、細い茎を緑色の糸で数本。
パチリと糸の処理をしたあとに息をつく。顔をあげるとさきほどの女性がまだいたから、布を掲げて見せると目を細めて笑ってくれた。
旅の途中の、そんなやり取りが楽しい。名前も知らない。けれど確かに出会った証がこうしてフィオレの持ち物に刻まれる。
新たな出会いを嬉しく思いながら、フィオレはステラを起こすためにその身体を揺さぶった。
powered by 小説執筆ツール「arei」
47 回読まれています