逃げた後

働いていた男娼館が火災に遭い、命辛々逃げることに成功したテオ。しかしルーとは離れ離れになってしまった。





 「早く逃げろー!」
 貧民街近くの建物から炎上がっている。午前零時の出来事で近隣住民やその建物の中にいた人々はパニックに陥っていた。
 炎と煙に包まれている施設は男娼館だった。
 フィエルテとテオが男娼館で仕事をしている最中の出来事だ。それもほんの数十分前の。煙の臭いを感じ、気付いた時にはすでに別の部屋が燃え上がっていた。
 出入り口付近にいフィエルテはすぐに脱出できた。テオは店の奥にいたためフィエルテからは逃げ遅れたかのように思えた。だが間一髪のところで店から逃げ出す事に成功した。その最中、友の名前を必死に叫んでいた。
 「ルー!」
 夜空に反響するだけで虚しく返事はない。後ろでは炎が勢いを増していた。



 翌朝。男娼館のあった場所へ行ってみるとすでに鎮火しており焼け跡だけが残っていた。
 それを見たテオは一気に脱力しその場に膝をついた。
 今までルーと共に過ごした場所が。自分の唯一の『家』が!
 そしてその友は行方不明になってしまった。どこかで無事でいて欲しい。そう願った。
 「僕はこれからどうすれば……」
 無一文で帰る場所もなく孤独になった。共に夜を過ごした者たちとも離れ離れに。テオの目の前に絶望という名の壁が立ちはだかる。
 せめて一枚でも金貨が残っていたら……そう思いながら灰の中を手で探っていると、二枚ほど綺麗な金貨を見つけた。それを握り締めても絶望感は消えない。少しの慰みになるだけだった。
 それでも何もないよりはマシだと言い聞かせ、途方に暮れながら歩き出す。
 足は無意識に貧民街へ向かっている。自分が生まれた街だ。
 物乞いの姿が目に入った時、はっと我に返る。
 僕はもう貧民街へは戻りたくないんだ。
 テオにとっては幼少期の貧民街での暮らしは心地良いものではなかった。それに母親からは暴力を振るわれた挙句、孤児院に捨てられたのだから。
 それなら孤児院に行ってみようか──。
 懐かしい記憶が蘇る。だが足取りは重い。
 「やっぱり孤児院にも行けないな」
 テオはすでに成年と見做される年齢を超えていた。そうすれば子供ではなくなるため、孤児院を出て大人として生きていく術を身につけなければならなくなる。テオも数年前にそうしたはずだ。
 行くあてもない、故郷にも帰りたくない。でも生きていかないと……握り締めた二枚の金貨はその日の夜のパンに変わった。
 ひと気のない路地裏でそっと地面に横たわる。冬の厳しい雪の上では今頃凍えていただろうが、幸いなことに季節は夏の手前の春だった。
 パン一つでは満たされない。何もせずとも鳴る腹を押さえながらこれからのことを考えた。
 金貨はもうない。もう何も買うことはできない。ただ飢えに苦しむしかない。でもそれは怖い。子供の頃にも飢えの恐怖を味わった。とにかく何かが食べたいんだ……。ふわふわのパンと温かいスープ、噛みごたえのある肉にみずみずしい果物、甘くとろける砂糖菓子……。
 妄想の中で食事をしている間に眠りに落ち、目覚めた時には空腹だった。
 もういいや、何のために生まれてきたんだか。昔から苦しんでばかりなのは母の言う通り『神に見放されているから』なんだ………。
 そのこの場の呪縛がテオをますます苦しめた。だがここで嘆いていても仕方ない。神は救ってくれない。それなら自分で足掻くしかない。
 「腹減った」
 そう呟いて真っ先に市場へ向かった。
 やってきた場所はブーランジェ通りと呼ばれる大きな通りだ。ここはたくさんの露店が立ち並び毎日多くの人々が行き交う。
 宝石やパン、布、果物など様々なものが売りに出されている。
 テオは通りを歩きながら様子を伺った。怪しまれないように、盗みを働くことがばれないように気を張った。
 やがて通りの角へ出た。そこには果物屋の露店があった。
 これはいけるかもしれない。そう思い、角を曲がって商人の死角になりそうなところへ移動した。
 失敗したらどうしよう。不安な気持ちを抱えながらもさりげなく腕を伸ばし、目についた林檎を素早く盗った。一個では足りないと思いもう一つ手を伸ばした。林檎を素早くシャツの中に入れてその場を立ち去った。
 テオにとっては運が良く、おそらく誰も犯行を目撃していない。商人もテオの存在に気付いていなかった。
 市場から離れ入り組んだ路地裏に移動した。周りを警戒しつつそっと林檎を取り出し一口齧る。果物を口にしたのは何年ぶりだろう。甘酸っぱくみずみずしい風味が口いっぱいに広がった。それには至福を覚えた。
 咀嚼を繰り返していると、ふと涙が溢れるのを感じた。
 腹が満たされていく幸福と、少しの罪の意識と、生きることの虚しさが全て折り重なっていた。
 「(ルー。君がそばにいてくれたら……)」
 親友だった者の姿を思い起こした。二人で身を寄せ合って過ごした男娼館での日々。仕事は決して楽ではなく、時折理不尽な搾取に耐えながら幾夜を越えた。
 林檎を一個食べ終わるとまた街へ繰り出した。
 夕方に差し掛かった頃、道で困った様子の老人を見かけた。暇を持て余していたテオはその老人に引き寄せられるかのように近づいた。
 「どうかしたの」
 「ああ……ちょいとこの荷物が重たくてね」
 老人の足元には麻でできた袋が置いてあった。中には果物がたくさん入っていた。先程盗んでしまった林檎のことを思い出した。
 「じゃあ、僕が運んであげる。どこまで行けばいい?」
 両腕で麻袋を抱え込んだ。老人に道案内をしてもらい目的の場所まで運んだ。
 「ありがとう、君はいい子だ」
 そう言って老人は懐から金貨の入った小袋を取り出して何枚かの金貨をくれた。さらに、麻袋の中の果物も一つ渡してくれた。果物は林檎だった。
 「これはほんのお礼だよ」
 「……ありがとう、おじいさん」
 「……その金貨があればパンや服が買えるだろう」
 老人はそう言い残して立ち去った。
 




2022/3/7


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