天の災い



「わたしって……なんでこんなについてへんのやろ……。」
今日の日暮亭は、年に二度ある空調点検の日。
草々兄さんは、宝塚と神戸で昼夜の落語会で今は中ホールの規模やけど、そのうち大きなホールで徒然亭草々一門会やるで、と言いながら早朝から意気揚々と出掛けていったのを見送りしたところ。他のお弟子さんたちは小草々くんに引率を任せて、私は大阪に残ったけど、点検は一時間で終わるから、その間に税理士さんに渡す帳簿付けて、それ終わったらちょっと近くの喫茶店でも行こうかな~とか思ってた訳で。
うう……。
業者さんには、ありがとうございました、って頭下げてお見送りした直後からこんな風にして暗雲が垂れ込めて来て、あっという間にこれ日食かいな、て言わんばかりの空模様。
今にも雨が降りそうていうか……。
雷が落ちたら草々兄さんの雷と思え、ていうか。

――ザ~ッと雨が降って参りました。着物の裾どころか、全身濡れネズミじゃ。さぁどうしなさる? あなたこれ、雨と喧嘩をしなさるか?

頭の中のべらぼうなまる先生……漢字で書いたら紅羅坊名丸先生の格好をした師匠が、こんな風に言った。
『こらまあ、絵にかいたような、天の災いと書いて天災、てヤツやなあ。喜六、あんたも今日はゲンの悪い日やと思って諦めたらよろしい。』
昼なのに真っ暗になってしまった空を見上げて、大きなため息を吐いた。
こういう日に外に出たいことないなあ。
小草々くんが空調点検は誰かおるだけでええんなら、草太君とか知った人に任せておかみさんたまには師匠のお囃子さんやってくれませんか、て聞いてくれたときには、そうやねえ、て聞き流してそれっきりになってたけど、まさかこんなお天気になるなんて思ってなかったし。
草々兄さんの方について行……ったら行ったで、この土砂降りはお前のせいやないか、て言われそうていう気ぃもするけど。
天気なんて、西から下り坂になっていくもんやからなあ。
皆、大丈夫かなあ。
今はどこででも傘は買えるけど、ただの夕立ならともかく、土砂降りになってしもたら、傘も雨合羽ももう何の役に立たない。
高座から終わったらすぐ着替えるのは分かってるけど、いつもの風呂敷包みにしちゃったからなあ…会場の人がタクシー呼んでくれたとしても、送ってくれるにしても、今日の高座の一張羅、大丈夫やろか。
草々兄さんは嫌がってたけど、最近流行りの、小さい車輪のついたジュラルミンケースみたいな……あの……名前なんやったっけ、海外旅行に持って行くようなヤツ。市民ケリーとかキャリーとか映画のタイトルみたいな名前ついてた入れ物、便利やと思うんやろけどなあ。


心の隅では早く屋根の下に入った方がええんやけど、て恐々空を見上げてたら、座面を日に当てるのに表に干してた椅子を心配してか、暖簾の下がっていない寝床の出入口から、お咲さんも顔を出した。
ほとんど年中無休だった寝床も、最近はこないして日暮亭の不定休に合わせて臨時休業を入れるようになったけど、店を休みにする代わりに、開店してから随分月日が経って古くなって来たお店をこまめに手入れされてるみたい。
「お咲さん、その椅子、中に入れるん手伝いますよ?」
「ええよ、このくらい一人で出来るわ。若狭ちゃんこそ、今日休みとちゃうの?」
「それに、もうちょっと働いたら出掛けようて思ってたんですけど、この天気だと、もう無理かなあ、て。」
「そうやねえ。今日は草々くんも、兵庫で仕事やて?……あの小草々くんなんて、ちょっと見たら晴れ男に見えるけど、天気だけはやっぱりどうにもならんわねえ。」
小草々くんって晴れ男……かなあ……。
確かに割と小草々くんがお弟子に入ってからの、ここぞ、て言う日の落語会て、割と天気ええかも。
初高座の散髪屋さんの会とか、師匠のお家とお別れする前の青空落語会とか。
「若狭ちゃん、ほんとありがとうねえ、お休みなのに。」
「いえいえ、私も助かっとるんです。最近座ってする仕事が多いでえ、休みやからこそ、尚更ちょっとは身体動かさんと。五月が終わって税理士のセンセに出す書類皆出してしもたら、もう安心してしまったんか、肩が凝ってあかんのです。」
「五月までは、って今年も気張ってたもんねえ。うちみたいに小さいとこなら、手伝いおらんでもなんとかなるもんやけど、そっちはいっぱい落語家さん抱えてるもんねえ。」
「はいぃ。」
こんな風に話をしてる間に、いよいよ空が真っ暗になってきた。
「この空の色、ほんまに嫌やわあ。あっちの空から今にもゴロゴロて音が聞こえて来そうやない?」
「そうですねえ。」と言いながらふたりでビデオの早回しみたいにして椅子を中に入れていく。熊五郎さんの声がせえへんのは、いつものお昼寝かも。
「お咲さん、休みの日は熊五郎さんとお出かけしたりしないんですか?」
「明日も仕事あるからねえ。うちの人も、一日あったら次の日出すような煮込み料理作ってるような人やから。結局市場寄ったりセリ行ったり、朝のうちにいつものお店に買い物行ったりもするし。スーパーやとあかんのよ、やっぱり。」
なるほど。
心の中で頷いている間に、ゴロゴロっと遠くから音が聞こえて来た。
「あ、若狭ちゃん聞こえた?」
「はいぃ!」
雨より雷の方が音早いから、とお咲さんを見たら頷いた。
「もう立ち話が出来るような天気とちゃうわ。ほな、またね!」
「はいい!」
パラパラと降り始めた雨が、バケツを逆さにしたような雨になってしまった。
これぞ土砂降りと言わんばかりの雨。
上がった後の湿度が怖いけど、もうなるようにしかならん。
中入って明日の準備でもしてよう、と思ったら、なんや、前の道をまっくろくろすけみたいに前髪が隠れた人がやって来た…ていうか雨で真っ暗やから、手ぇ振ってるけど顔分からへん…誰やろ。
アッ。
「喜代美ちゃ~ん…………。」
「……小草若兄さん!?」



「いやあ、ごめんなあ、いきなり。」
「いいえぇ。」
ずぶ濡れの濡れ鼠になってしまった兄弟子にタオルを貸してるの図、です。
こういうこと前にもあったなあ…振った私と振られた小草若兄さんで、草々兄さんが破門騒動で京都の方に行ったときに抱きしめられて以来の話で、なんやもっと気まずい雰囲気になりそうなものやけど、なんやもう前髪下りてしもた小草若兄さんが子どもみたいになってるからもうしょうがないなあ、て思う。
「あんなあ、喜代美ちゃん、もしかしてこないだ出来たあの喫茶店でまた甘いもんでも食いたないかな、て思って来たんやけど。」という小草若兄さんの頭からはまだ水滴が滴っている。
「……この天気にですか?」と聞くと、相手はやっぱり痛いとこ突かれてしもた、という顔になった。
「ほんまはな、昨日からずっと四草が寝付いてしもてて。」
それって……。
「一人にしといてええんですか?」
「そうかて、あいつも買い物とかあるし……。」と小草若兄さんが曖昧に言った。
「四草兄さんが風邪なんて、鬼の攪乱ですねえ。」
あ、口滑ってしもた。
小草若兄さんはふ、と口を緩めて、そら、底抜けに言い過ぎとちゃうか、と濡れた髪を拭きながら笑っている。あの頃の小草若兄さんも、草々兄さんがどっか知らんとこに行ってしまったの気にして弱ってる感じやったけど、あの日の様子とも、ちょっと違う感じがする。どこが違ってんのやろ、と思って耳の中を拭いてる小草若兄さんの正面から視線を移動させたら、首元に虫刺されみたいな跡が見えてぎょっとした。
「四草のヤツの熱測ったら三十七度ちょっと超えてて、まあ風疹とか重いヤツとは違う感じやし、ただ風邪っ引きになっただけやて思うねん。一緒に寝てても移ってまうし。」
……え、一緒に?
いやいやいやいや、ふたりで一緒の部屋に寝てるから部屋が狭いって話と違うやろか。
そやそや~とか言いながら頭の隅から小次郎おじちゃん出て来たし。
うん。
「あの部屋、冷凍庫に氷枕とかありましたっけ。」
以前はお米ない、とかないないづくしやったけど、今は最低限自炊出来てるて話やけど。
「ゴムの外側だけ買うてあるから大丈夫やけど、考えたら氷がないねん。あの、製氷皿ていうのか。夏に飲み物に入れる分だけしかないから全然足りへん。」
ええ~……そんなことってあってええんですか?
男所帯やからしゃあないんかなあ。
「そこはもう、額に濡らしたタオルで代用するとして、後は……あっ、小草若兄さん、今度はお米ちゃんと買ってありますか?」と聞いたら、それもないねん、と言葉が返って来た。
「ここ建てるとき、四草兄さんの懐にあれだけのお金あるて分かったんやから、こういう時の食費くらいはどうにか出してもろたらどうですか?」
「米あってもなあ。オレ、粥だけは結局よう作れんかったから、レトルトのヤツ買って来るついでに、何か甘いもんの缶詰でも買って来たろ、と思って外に出たんやけど、なんやいつものスーパー寄ろ、と思ってたのに、ふらふらっとここに来てしもて。」
そうなんや~、とか相槌を打ち辛い妹弟子の図です。
もう~、師匠、小草若兄さんになんとか言ったってください!
四草兄さんが風邪引いてて、小草若兄さんが自分だけでは人の看病もよう出来ん、いうて不安になる気持ちも分かるけど、熱出てるときなんか、いくら四草兄さんでも、近くに誰かおった方がええに決まってるのに~!
こんな日に近くにいてくれたら、相手が起き上がりこぼしでも好きになってしまうわ、て思ってしまって、なんや自分がしんどくなってきた。
こんな日に限って寝床が休みやなんて、と思ってたけど、休みで良かったかも。
お咲さんに聞かれでもしたらえらいことやった……て考えてたら漸く雨が小止みになってきた。
これぞ、天の配剤!
神様、仏様、お地蔵様、ついでに師匠とおじちゃんも、ありがとう!
「小草若兄さん、ちょっと買い物行って四草兄さんとこに顔出しに行きましょう。」
「あ、買い物、付いて来てくれるんか?」
「四草兄さんのとこ寄って、氷枕の替えとかも作り方見せますんで。」
四草兄さんがもう発熱してへんかったら安静にしててもらって、と考えていたら「そらあかん!」と小草若兄さんが言った。
「あかん、て何でですか?」
「今行ったら、あいつ寝ぼけとるかも分からへんし、喜代美ちゃん危ないで_。」
「危ないて。どういうことですか?」
今私が小草若兄さんとこうしてふたりきりでおるよりも怪しいシチュエーションなんか、なかなかあるもんと違う……気がする。
「あんなあ、喜代美ちゃん。」
「何ですか?」
「四草なあ、あいつなんや好きな人おる気ぃするんやわ、オレ。」
……あっ 喫茶店やと聞きづらい話来たァ!って感じ。
どっちかいうと聞きたい話と違いますけど、一応聞いてあげます、の図です。
「それ、なんでそう思ったんですか?」
「いや、あんな、あいつ今日、ほんまに寝ぼけてて。」
えーと。
四草兄さん、そもそも小草若兄さんと同居続けてること自体が奇跡て言うか、ずっと寝ぼけてる状態に近い気がするんですけど…これもう言ったらあかんのやろか。
「オレの手ぇ取って、ずっと一緒にいてくれとか、とか抜かしおって。」
「そうですか。……え?」
今なんて……?
「なんや、あいつも必死な顔してたから、相手がオレとちゃうかったら好きな相手とどうにかなれたんかも、と思うんやけどな。さっきのでなんとかなってしもたら、オレあの部屋から出ていかなならんやん?」
………はいぃ?
いやいやいやいやいや。
ずっと一緒にいてくれて、その時目の前におるのが誰かは、四草兄さんも分かってて言ったんやと思うんですけど!?
そもそも、四草兄さんが金にならへんこととか、自分がしたくないことは絶対にせえへん人やてことくらい、小草若兄さんかて分かってんのと違いますか?……分かって、へん?

――天の災いと書いて天災、人の災いと書いて小草若や!!

もう~!!! 草々兄さん、うるさいです!!!
ここで、ほうですねえ、って軽く聞き流して、小草若兄さんがま~た行方くらまして、どっか行ってしもたら、わたし今度こそ四草兄さんに恨みで呪い殺されてしまう……かも。
「小草若兄さん、」
「うん?」
「すいません。わたし、今から買い物に行かなならんこととかあって、すっかり忘れてて。雨も小止みになったことやし、せやから、今からでも四草兄さんとこ戻りませんか?」
今、すぐに! 戻って!!!
オレも同じ気持ちや~、て言えへんのなら、せめてそうしてあげてください。
て、私も言えたらええんやけど。
小草若兄さんも草々兄さんと同じで自分の気持ちに素直やないタイプやから。
「そやなあ、そうするか。そんなら喜代美ちゃん、またな!」
「また来週もお願いします。寝床で打ち上げやる時は四草兄さんにも声掛けてくださいね。」
分かった、と言うなり兄弟子はこちらに背を向けて、日暮亭のロビーから去っていった。
あ、手ぇ振ってはる。
ええから、はよ行ってください!ね!

なんや今日のわたし、世界に愛をひとつ増やした感じするなあ。

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