迷える仔羊


 一人の少年が孤児院の扉の前に立っていた。見た目は五歳くらいだ。髪は直毛であることが窺えるが、不揃いに切られていた。それに服や靴は薄汚れている。
 彼の姿を初めに見たのは二人の女性─この孤児院の院長と副院長を務める─だった。二人は若く清らかな修道女のような雰囲気を放っていた。
 いかにも訳ありな少年に対し、天使のように優しく話しかけた。
 「お名前は?」
 「『お前』」
 「何と呼ばれていたの?」
 「『お前』」
 この少年には名前がないのだろうか。返ってきた答えに違和感を感じ取り、酷い家庭に生まれた子であることはすぐにわかった。
 女性二人は顔を見合わせる。
 少し間を置いてから、院長は「『テオドール』」と言った。そして少年の目線に合うようにしゃがみ込んだ。
 「それがあなたのお名前。『神の贈り物』という意味よ」
 名前すらないこの少年に、慈悲と救いが与えられた。しかし、「神」という言葉を聞いた途端に彼の瞳の奥底である映像が映し出された。
 ──少年は壁に寄りかかってうずくまるようにして顔を見上げていた。目線の先には魔女のように鋭い目をした女がいる。母だった。
 母は怯えた表情で今にも泣き出しそうな少年に向かってこう吐いた。
 『お前はこの家に生まれ落ちた瞬間から神に見放されてんだよ』
 その証が彼の身体に刻まれた数多の痣であった。母は何かと理由をつけて少年を折檻し暴力を振るっていたのであった。
 『だから救いを求めるなど無駄なことよ』
 息子に対して冷たく言い放つ。少年はまた殴られると思い手で頭を覆った。しかし母は何もせずその場を立ち去った。
 鮮明でおぞましい記憶が蘇ったのだ。今もなおはっきりと覚えている。母の表情、声色、部屋の様子、服装、全てを。
 そして母は何を思ったのか息子をこの孤児院に連れてきた。少年はまさに置き去りにされたのである。
 地面を睨みつけ歯を食いしばっていると、「テオ」と呼ぶ声がした。
 「さあ、中に入りましょう。あなたの『兄弟』たちも待っているわ」
 今まで笑わずに悲しそうな顔をしていた少年が、この時初めて笑顔を見せた。
 『ここはあなたがきっと幸せに生きていける場所』。置き去りにされる前、母に言われたのだ……。少年は、テオは、決して後ろを振り返ることなく孤児院の扉を開けて中に入った。




2022.1.15

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