しのしず



 カフェのシフトが入っていない、依頼もない休日。相沢は節見の家に向かっていた。
 節見の家の”お掃除代行”と呼んでいるそれは、放っておくとすぐに家を散らかす節見が御門の勧めで相沢に依頼した……という経緯の仕事であり、相沢の日ごろの楽しみでもある。

 寮にたどり着き、目的の部屋のチャイムを鳴らす。
しばらくしてドアを開けた節見の顔を見て、相沢は一瞬息を止めた。

「どうしたんですか、そのケガ」

 玄関で出迎えた節見の頬には大きなガーゼが貼られていた。あろうことか、2年前の出来事で奥歯を抜いた側に。相沢は背筋が冷えるのを感じながらも招かれるまま節見の家に入った。

「別に。ぶつけただけ」

 そんなはずはない。ぶつけたってどこに?治療が必要なほど強くぶつけたの?そんな怪我、どう考えても、誰かに……
無感情に告げる節見に言いたいことがいくつも脳裏をよぎり、頭の奥がぐらぐらするような感覚を覚える。

「ぶつけただけで、そんな風にはならない、ですよね」
「さあね。相沢が気にすることではないよ」
「自分の上司がケガしていたら気になります」
「殊勝だな」

 いいから部屋入りなよ。掃除代行でしょ?と何でもない事のように振舞う、実際そのように考えているだろう節見の態度に我慢がならなかった。

「静さん」

 こちらに背中を向けている節見の手首を掴む。そのまま強く引いて、ろくな抵抗もしない身体を廊下の壁に押し付けた。

「なに」
「静さん、また”そうするしかないから”って、危険な役を引き受けたんじゃないですか?」 
「……」
「俺の事見くびらないでください。いくらなんでも、ぶつけただけのケガには見えないです。殴られましたよね?誰に?どこで、俺がいない代行で?俺が助けられないところで」
「相沢」

 淡々とした声にまくしたてる言葉が止まる。自分を見つめる瞳からは感情が分からない。いつもこちらを真っ直ぐに見ているだけで、彼のそのまなざしが好きで嫌いだと思う。

「これは仕事。イレギュラーはいつだって起こるし、解決に俺の立場や体が必要であれば差し出すのは当然」
「……」
「誰がいて誰がいない、そういう時の立ち回りや対処を考えるのは俺の責務。相沢が気に病む事じゃない」

 お前には関係ない。と言われたような気がした。掴んでいる手首を振りほどこうとしたのか、節見の腕に力が入ったのを感じる。二、三回ほど腕を振って、ほどけないと悟ると「離して」とだけ呟いた。
 頭が良くて、口が達者で頼れる上司。このひとがいたらなんだって大丈夫だと思わせてくれるような、そんな人が自分に腕を掴まれただけで身動きが取れなくなってしまう。その危うさが怖くて腹立たしい。もっと自分を大事にしてほしいし、上司としてではなくあなたが大切なのだと分かってほしい。メンバーの全員が願っているのに本人だけがそう思っていない。相沢はその事実が悔しかった。

「俺に、掴まれただけで動けなくなるのに」

 喉が不必要に震えるのを感じた。

「静さんは、どうしたらもっと危機感をもってくれますか」

 手首を握る手に力が入る。口から出る声はガタガタで、目の奥は熱いし、頭では駄目だと分かっているのに心だけが先走っている。俺がこのひとを蹂躙したら、自分の非力さを自覚させたら、『怖い』という感情をその頭に覚えさせたら、もう少し慎重になってくれるのだろうか。俺が”悪者”になるだけで、大切な人が危険に晒されなくなるのなら。
 相沢は大きく口を開けて、目の前の首筋に目掛けて噛みついた。

powered by 小説執筆ツール「notes」

20 回読まれています