ミルク・ペナルティ

「ここ、アルコールは置いてないんだ？」
　尋ねてきたアベンチュリンに、あるとは思う、と穹は答える。だがシヴォーンからアルコールの話は、ここに来てから一切触れられていない。アルコールを提供して泥酔した人間が彷徨うにはこのホテルの一部の場所は危険すぎるからだろうか。「俺、未成年だから」と答えながら、穹はマドラーを回した。「味見出来ないやつは使えない。だからカクテルは作れないかな。あと、外でアルコールは飲むなって言われてる」
「誰に？」
「親友」
「なるほど。つまりマイフレンド、君は友人が心配になるくらい酒癖が悪いか、下戸なんだね」
　一つ秘密を知ったかのような笑みだった。次酔わせて盗聴器なんて仕掛けたら絶交だからな、と答えながら、穹は仕上げに、グラスの縁にミントを沿える。よし、出来た。出来上がったグラスは数歩歩いた別の客の前へ。穹は歩きながらアベンチュリンに尋ねる。
「そういうお前はどうなんだよ」
「んー、僕かい？　どう、教授？」
「何故僕に聞く……」
　アベンチュリンは眉間に皺を寄せ、二つほど席を空けて座っていたレイシオに尋ねた。留守番をしていて客がいないから暇を持て余していたところ、丁度彼らが通りかかった。ちょっと飲んでけよ、と誘ったところ、運よく二人とも客になってくれたのだ。彼は穹から受け取ったモクテルを手前に引きよせ、ほんの少し傾ける。何回か一緒に呑んだだろ、とアベンチュリンは続けた。
「それに、自分の酒癖なんていつも呑んだら忘れてる」
「そうか。今度から酒ではなくミルクでも飲んだらどうだ」
「アッハハ！　教授。今はやめてくれ。冗談を真に受けそうなのがいるからさ」
「え。冗談なのか？」
　丁度冷蔵ストッカーからミルクを取り出したところだった。あまり甘くなくてすっきりしているのがいいな、とアベンチュリンはやんわりとそのミルクを拒んでいく。仕方がない、とストッカーにそれを戻しながら、ふとミルクで思い出し、「星穹列車にはさ、一応消灯時間があって」と穹は口火を切った。「それを越えて起きてる悪い子にホットミルクを飲ませる罰がある」
「ほう。丁度いい。ついでに飲ませてもらったらどうだ」
「え？」
「いいぞ。来るか？　もうすぐシヴォーンも帰ってきて店番も終わるし」
「へ？」
　何でそんな話になってるんだ、とアベンチュリンは穹とレイシオを交互に見つめる。どうせ深酒でもしてこのまま夢境に居座り続けるつもりだったんだろう、とレイシオは言う。「一度起きて普通に寝たらどうだ」
「確かに。隈やばいぞお前。もしかして寝てないのか？　遊ぶのもほどほどにしろよ」
「えー……。いや、君と違って遊んではいないけど」
「じゃあ仕事か？　余計にほどほどにしろよ」
　だから隠してたのにな、とアベンチュリンは掛けたままだったサングラスを一度外し、うーん、と少し迷うように黙り込んだ。それから、じゃあ行こうかな、と頷く。
「……まあ、ここを発つ前に一度列車には行ってみたかったからね」

＊

「へいお待ち」
　ドン、と目の前に湯気の立つマグカップが差し出される。微かにバニラの甘い匂いが漂ってきた。彼がミルクを温める前に小瓶を傾けていたのを知っている。あの独特の乳臭いふわりとした匂いに、混ぜたはちみつからだろうか、微かに花の匂いがする。アベンチュリンはそれを、本当に文字通りのままのホットミルクが出て来たな、と無言のまま受け取った。
　てっきりあの後共に遊ぼう、とでも言いだすのかと思っていたが、消灯してるから静かになー、と明かりの落ちた列車に入り、彼は真っすぐにアベンチュリンを厨房へ連れて行った。少しまってろ、と言われ大人しく所在無げに待っていて、出てきたのがこれだ。
「あ。パジャマ、この前お前が買ってくれたやつでいいよな。サイズ多分同じくらいだし」
「ああ……うん？　パジャマ？」
「ん？　その窮屈な格好のままで寝るのか？　まあ、そうしたいなら好きにすればいいけどさ。あー、開いてる客室、どこが使っていいやつだっけ。……連行ついでに聞いてくるか」
「連行……」
「うん。お前の他にもいるんだよ、悪い子が」
　ちょっと行ってくる、と穹はそうアベンチュリンに告げるなり、すたすたと厨房を出て行ってしまった。湯気立つマグカップを両手に、アベンチュリンはその白い湖面を見つめたまま一人厨房に取り残される。ホットミルクなんて久しぶりだな、と思いながら、静かにそのマグカップを傾けた。
　眠れないわけではないし、夢見が悪いのだっていつも通りだ。療養中は寝転びながら書類を確かめたりベッドの上で電話をするくらいの仕事くらいしか出来ず普段の疲労感がなかったせいで、崩れるように眠りに落ちることが出来なかったのもある。ただでさえ夢境へ向かうため、夢を見るたび細切れに眠っている。現実に戻ってきてなかなか寝付けないのも当然だった。
「……あつ」
　舌先が痺れるくらいの熱さだ。少し冷ましてから飲もう、と一旦テーブルの上にマグカップを戻すと、おい、離せ、と聞きなれない青年の声が聞こえてきた。ドアが開いて、一度出ていった穹が誰かを連れて戻ってくる。彼は厨房にいたアベンチュリンに一度面食らったように硬直すると、何故ここに人が、とばかりに穹へ視線を向けた。彼は何一つ気付かずに今用意するからな、と連れて来た青年に言う。
　青年はしばらく所在無げにその場に立っていたが、仕方がない、とばかりに一つ息を吐いて、アベンチュリンの隣に腰掛けてきた。椅子がそこにしかなかったからだ。テーブルの端に椅子を寄せながら席につき、静かに息を吐いた。準備を終えて、穹がへいおまち！　とまるで板前のようにドンと音を立てて、彼の前にもアベンチュリンと同じホットミルクを差し出す。彼はそれを眉を顰めながら見下ろした。
「……頼んでないが」
「パムの代わりに出してやってんだぞ。喜べよ」
「車掌の代わり？」
「そーそー。丹恒、時計ちゃんと見てるか？　消・灯・時・間！」
「それは……分かっている。だから資料室であまり音を立てないように作業を……。というか、彼は……」
　丹恒、と呼ばれた青年の視線がこちらへ向く。やあこんばんは、と笑いかけたアベンチュリンの手元を見、そこにも彼が今出されたものと同じホットミルクがあることに気付くと、さらにその表情に疑問符を増やしていった。
「あー、えっと。こっちはアベンチュリン。列車まで悪い子ミルクを飲みに来た。今日の悪い子一号だ」
「成り行きでね」
「で、アベンチュリン。こっちは丹恒。列車の護衛とかアーカイブの整理をしてる。友達で親友。今日の悪い子二号だ」
「……カンパニーの十の石心のひとりが本当にホットミルクを飲むためだけにここに？」
「あはは、何か計略がないかと疑うのは当然だ。僕も本当にそれだけのために来たことになってて驚いているしね」
「けど、トパーズもたまにパムとか見るためだけに列車に立ち寄ってるぞ。ヘルタとかで結構出くわす」
「ああ、彼女、仕事のスイッチが入ってない時は『ああ』だからね。大丈夫かい？　粗相はしてない？　してたら教えてくれ、それでしばらく揶揄うから」
「俺はどっちに付く気もないぞ。却下却下。トパーズから直接聞けよ」
「それが出来ないから君に聞いてるんだけどな？　マイフレンド。気が変わったら、いつでも言ってくれ。君たちにホットミルクを出してくれているその件の車掌さんにも一度逢ってみたかったよ」
「朝になったらあえるぞ。今はもう寝てるけど。というわけでさっさと飲んで寝ろ」
　ほら丹恒も、と穹は彼の友人を促し、ホットミルクに無理に口をつけさせる。少し冷めて飲みやすくなったそれを、アベンチュリンも少しずつ飲み込んだ。それはそうと、とふと気になって尋ねてみる。
「君は飲まなくていいのかい？　この深夜に起きているのは君も同じだけど」
　アベンチュリンの指摘に、穹ははた、と今気付いたような神妙な表情になる。彼は黙って踵を返すと、出しっぱなしにしていたミルクをマグカップに開け、そこに、既に二度行った手順と同じようにいくらかの材料を足し、レンジに放り込むと、渋々、と顔に貼り付けて、出来上がった甘い匂いのする温かいミルクを両手で抱えて戻ってくる。
「俺が三号か……」
　乾杯でもするかい、とアベンチュリンが尋ねると、彼は無言でマグカップの端をコン、コン、と他の二つのそれにぶつけてきた。